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縁組

以前投稿していたものを一旦取り下げ、再投稿です。

 

 クイッ、クイッ、クイッ、クイッ

 下書きもないままに、ノミが細かい線を刻んでいた。フッフッと木屑を吹き飛ばしてはその線をなぞるように深くまで刃が沈む。丹念に線を太くしながらなおも微妙な力加減を加えて、小さな木の先に男が夢中になっていた。


「庄吉、じゃまずるよ」

 威勢のいい声に間をおかず、表戸がガタピシと音をたてながら冷たい風を招き入れた。


「そろそろ暮れるよ。ここいらで切りにして飯でもどうだい」

 その威勢の良さにいたわりが混じっている。決して荒っぽくはない証拠に、男の身なりは地味な棒柄の袷で、襟元の乱れさえ見当たらない。それもそのはず、男は荷商いの小間物屋なのだ。長屋の女房連中を相手にするだけならまだしも、お茶や小唄の師匠にも出入りし、その伝手でお店にも出入りさせてもらっているだけあって、普段はいたって穏やかにしているのだ。この男が威勢よく振舞う相手など、数がしれていた。そのうちの一人が、こうして割り長屋で細工物を作っている庄吉だ。だから、威勢よく振舞う理由の十中八九は空元気なのだ。


「今日は生憎の日和だったなぁ、こうも陽が射さないと見え辛くっていけないよ。が、せっかく源さんが誘ってくれるんだから、そうさせてもらうかねぇ」

 黙々と指先ほどの材木を刻んでいた庄吉はノミをわきへしまい、ずず黒くなった前掛けを掃って小さく伸びをした。朝からずっと泣き出しそうな空が続いている。このところ細かい筋が見づらくなっているだけに、雨はもちろん、雲の厚い日は目に堪えた。


「なあ庄吉、旨いしじみ汁を飲ませてくれる店をみつけたんだがね、今日はそこへ行こうや」

 庄吉が目をしょぼつかせるようになってもう半年になる。飾り職の、彫士のというやつは細かい仕事をしなければならない分、殊更目が大事なのだ。ましてや、庄吉のように同じ彫り物しかできない奴は偏屈者。それで評判になればともかく、そうでなければ中途半端な職人だ。そんな半端者の庄吉がしきりと目をこすりながら戸締りするのを、源太は手伝いもせずに目だけで追っていた。


 戸締りといっても大そうなことなどありはしない。裏の開け放した障子を閉めるくらいで、滑りの悪い表戸を閉めればそれで終わりである。こんなドブ臭い裏長屋に入る泥棒がいたら顔を拝んでみたいくらいだ。

「待たせてしまったねぇ。おや、気づかなかったけど、すっかり陽が落ちてしまっていたんだ。だけど、風はそうでもなさそうなのに、ずいぶん埃っぽいんだねぇ」

 おぼつかない足取りで表に出た庄吉は、ドブ板の縁を避けながら木戸口まで出てきた。そしてしきりと顔の前で手を扇いでいる。

「おいおい、まだ夕方には少しばかり間があるんだよ。それに庄吉、埃なんか舞っていないから扇ぐのはやめなよ」


 たしかに厚い雲がどよんと垂れ下がってはいる。入梅だから鬱陶しい空は仕方ないとして、そのかわり陽が長い。いくら曇っているからといっても辺りは明るく、往来の人の見分けに困ることはないのだ。それに、庄吉の言うような埃っぽさなど、どこにも見当たらない。

「おや、そうかい。だったらこのくすんだ見えようは、俺の目のせいってことだな」

 庄吉は、しきりと顔の前にやった手を近づけたり遠ざけたりしながらブツブツと呟いた。

「何を言ってるんだね。そんなことより、目やにが出ているよ、拭いちまいな」

 源太は敢えてそのことに触れようとはせず、殊更ゆっくりと通りを歩いた。


 すれ違いそうな人をみつけると、ちょっと足を速めて庄吉の前に立ち、防火桶や荷物があると、それとなく庄吉を通りの真ん中へ誘導している。庄吉の目が弱くなってからというもの、事あるごとに源太はそうして影で庄吉を気遣っているのだ。


「源さん、やけに遠いんだねぇ。それほど旨い汁を飲ませてくれる店なのかい? だってそうだろ、でなきゃ、わざわざ遠出することなんかないよな。とびっきり旨いんだろうな、生唾が出てきたよ」

 庄吉が手を振ると、そこには源太の袖があった。足元がはっきりと見辛くなって以来、庄吉は絶えず足元を見ながら歩くようになっている。決して小柄ではない男が、後ろから見ると、首を落とされた罪人のように、首を抱え込むように落として歩くのである。足腰はいたって達者なだけに、痛々しくさえみえる歩き方である。

 つい十日ほど前も、できあがった品物を納めに行く道すがら、足元に気をとられていた庄吉は、荷運びの人足に気付かずぶつかってしまった。その時に怪我をしたばかりでなく、せっかく仕上げた品物をあたりに投げ出してしまい、いくつかをだいなしにしてしまった。そんなことがあって以来、庄吉は源太の言うが儘、そのすぐ後ろをついて歩くようになっていた。


 庄吉は下町で生まれ育った男だ。貧乏人の子だくさんというが、庄吉には上に五人の兄がいた。つまり、末っ子として育った男だ。少しくらいの我侭ならしてきたろうに、末っ子には似つかわしくないほど大人しい。とはいっても下町育ちである。強情であり、きかん気もあったはずだ。それなのに、源太の言う通り、素直に脇を控えめに歩くようになった。それほど見辛くなっていたのだ。


「庄吉ぃ、この前の話だけどなぁ、考えてくれたかい? 良い話だと思うんだよ、庄吉にも先様にも。こういう話ってのは先様あってのことだからねえ。先様だって、庄吉が色よい返事をしなけりゃ次を捜さなきゃいけないんだし、ぼちぼち返事を聞かせちゃもらえないかねぇ」

 源太は、一人の娘を思いながら話を振ってみた。

「話って、縁談のことかい? そりゃあ願ってもないことさ。俺みたいな中途半端な奴がって考えると、夢みたいだよ。だけど、目がこんなになっちまったからなぁ。人並みに所帯を張っていけるか自信がもてなくてさぁ」

「何を生意気なこと言ってるんだ。目がそんなになったから心配してるんじゃないか。お前の目になってくれる人がいるっていうんだよ、ここは甘えたらどうだい?」


 振り返りながら話す源太が不意に立ち止まった。前から来る武家を避けるためである。達者な二人なら縦に並んですり抜けられようが、庄吉ではそんな器用なことを望めない。まさか触れたくらいでばっさりやられることはないだろうが、好んで関り合いになることはない。庄吉もそのあたりは心得ていて、素直に突っ立っていた。


「だけどなあ源さん、これ以上酷くなったら仕事だってできなくなっちまうかもしれないんだよ。そんな、望んで苦労を背負いこませることは、酷ってもんだよ」

 源太に続いて歩き出しながら、庄吉は話の続きを始めた。

「だからちゃんと話しただろう? 庄吉は目が疎くなってきている。だからと言っちゃなんだけど、先様は耳が遠いって。けどね、悪いのはそれだけで、ほかはそこいらのアバズレとは比べものにならないような別嬪だよ。どうだい、足りないところを補い合って生きてみては」

「そういう源さんはどうなんだ? 源さんがどれだけ手広く商いをしてるか知らないけどね、荷売りの小間物屋なんて、所帯をもてない人が多いそうじゃないか。源さんこそ早く嫁をもらわなきゃ」

 自分のことを心配してくれる源太は、しがない小間物の行商をしている。そういう稼業についている者はおいそれと所帯を張ることなどできないとか。

 稼ぎもさることながら、娘の数が少なすぎる。そのかわり、銭さえ払えば一時の快楽を得ることは簡単で、そういうこともあってか、男寡は珍しくないのだ。自分もこのまま独り身で生涯を終えるものだと、庄吉は覚悟をきめていた。そりゃあ女房がいれば、子もできるだろう。そうなれば、倹しい生活とはいえ、気持ちの張りがあるだろう。だが、と庄吉は思う。源太のような男こそ、女房子供に囲まれて生きるべきだ。中途半端な根付職の見ていい夢なんかではないのだ。

 いくつか橋を渡り、ずいぶん歩いてきた先はいったいどこだろう。しかし、今日のところは源太にゆだねてかまわないと庄吉は思っていた。


「ごめんなさいよ」

 暖簾の内側から賑やかな話し声がもれている。席という席は客でいっぱいになっていて、そこここで笑い声が上がっていた。どの席にもチロリが並んでいて、そのくせ酒癖の悪い客はいないようで、声を荒げる者が一人もいない店である。


「小間物屋の源太と申します。席をお願いしてあったのですが」

 仕切りの小さな暖簾をひょいと分けて、勝手場から顔をのぞかせた亭主が愛想のいい笑みをこぼした。

「やあ源さん、待ってたよ。この通りの入れ込みじゃあ落ち着かないからさ、小座敷を空けといたから。そっちへ上がってくんな」

 片襷をした亭主は、なかなか立派な体格をしていた。それが、濡れ手を拭きながら奥を指差す。

「お君、奥、案内してさしあげな」

 客の間を飛び回っていた娘を手招きして二人を案内するように言いつけ、小声で現太に耳打ちをした。

「おツネちゃん、もう来てっからよ、さあ、行ったいった」

 娘に案内させると言ったくせに、亭主は一緒になってついてくる。

 とたんに酔客の声がとんだ。


「このくそ親父、俺の頼んだなぁまだかよ。早くしてくれねぇと酒が醒めちまわぁ」

 熟れ始めた柿色に頬を染めた人足だった。喧嘩腰でないのは、別の席の客も同じように囃していることでわかる。注文した酒が遅れていることに口を尖らせているだけのことだ。

「少しくれぇ待たねぇか、まったくよぅ。お客を案内するのが先だろう? 醒めるなら醒めろ。そうすりゃよけいに酒が売れらぁ。言っとくがな、今日は早仕舞いすっからな、あと二本飲んだらおつもりだぜ」

 この親父に見つめられると、不思議と誰もが大人しくなる。妙な荒さがないだけに力量を窺えないのだ。仕事場ではやんちゃそうにみえる人足にしたって、舌打ちで返事をしただけだった。


「そうかい、このお人かい。ずいぶん大人しそうなお人じゃねぇか。うん、これなら良さそうだな、源さん」

 最前の客に向けた台詞とはまったく違う、情のこもった一言だった。


「じゃあ親方、とびきり旨い蜆汁をお願いしますよ。そうだね、庄吉には三杯がとこ飲ませてやってください。なんとか目を治さないと仕事ができなくなりますからね。庄吉も困るだろうが、こいつの手が止まると私も商いに差し支えるから。なんとしても治さなければね」

「目が悪いのかい? おっ、そいつはいけねぇや。まかしときな、汁だけで腹いっぱいにさせてやるから。……けどよ源さん、何とかの三杯汁って言葉があんだぜ。いいのかぃ?」

「かまやぁしませんよ、どうせ元々莫迦ですから」

 軽口で受け流して、源太は庄吉の背をそっと押してやった。


「庄吉、上がり口だよ」

 上がり框で肩を抑えてやると、庄吉は手を伸ばして框に触れて何度も頷いた。夕方小前の明るい時分でさえ薄暗く感じるくらいだから、陽も落ちた、しかも勝手のわからぬ店の中となれば、手探りが欠かせないのである。



 おっかなびっくり案内された小座敷には、先客がいた。この座敷も入れ込みなのだろうと気にもとめなかった庄吉は、どういうわけか先客と向かい合わせの座を与えられた。

 座敷の明るさに目が馴染んでくると、それが娘らしいということがわかってきた。ところが、入れ込みだと思っていたのだが他の客が立ち入る気配がないのだ。


「源さんよう、ただ晩飯喰うだけなのに娘さんと向かい合わせかい? なんだか極まりが悪くていけないよ。いったいどういうこった?」

 とうとう黙っていられず、庄吉は音を上げてしまった。

 問屋の集まり事があっても、部屋をいくつかぶちぬいた俄仕立ての大広間に呼ばれるのがせいぜいのこと。大広間の更に隅っこが庄吉の定席なのだ。こんなかしこまった座敷に通されることなど前代未聞のことだった。

「じつはなぁ庄吉ぃ、道々話した相手さんに足をはこんで……もらっててね、正面においでなのがおツネさん。そのお相手ということだよ」

 何も説明せずに連れ出した後ろめたさがあるのか、言葉をにごしながら源太が種明かしを始めた。

「おいまてよ、すると何かい? 美味い蜆汁っていうのは嘘かい? 騙したのかい、えぇ、源さん」

「嘘じゃないさ。ここの蜆汁は滅法美味い、それは本当さ」

「だけど、今日のこの席が……」

「そうさ、お見合いだよ。悪いとは思ったんだけどね、お前の目がどんどん弱っているだろう、だから四の五の言ってられないってね。おツネさんには承知してもらったのさ。こういうことは縁のものだからねぇ、お前一人がウジウジ言うってのはどうかと思うんだよ」

 種明かしというよりも、まさに説得にかかっている。


「だけどさぁ、いきなりは酷いよ。そりゃあ俺だって男さ、嫁ぁがほしいよ、所帯をもちたいよ。けど、やっていけるだろうか、それが心配なんだよ。大事な娘さんに辛い思いをさせるのは目に見えているんだからさぁ」

 ぼそぼそと呟くように小声で抗議するものの、ぽぉっと顔を赤らめていることに気付いているのだろうか。

「何を弱気なこと言ってるんだね。辛い思いをさせる? 目に見えてる? 莫迦をお言いでないよ、ろくに見えもしないってのに。せっかく出雲の神様が授けてくだすったご縁だよ。それじゃあ聞くけど庄吉、この話、不承知かぃ?」

 おツネの人柄を知っているだけに、源太としては庄吉と添わせたい。だから何度も説得し、今日は無理矢理席をもうけたのだ。だが、庄吉はいつまでたっても臆病だ。それが源太を苛々させ、ついにはたたみかけるようなことを言ってしまった。

「な、なにもそんな、不承知だなんて……。おツネさんが辛いことになるくらいなら、誰か別の人と所帯をもったほうが……」

「煮え切らない男だねえ、えぇ庄吉。お前は子供の時分からそうだった。そうやってグズグズしてるから苛められてばかりだった。いいかげんシャキッとしてもらわないと困るんだよ。私だって、いつまでもお前を庇ってやれるとは限らないんだからねぇ」


「まあまあまあ、そうせっかちに責めなくても……。そぅれ、特別美味い蜆汁だぁ。まずは精をつけてからでも遅くはありやせんぜ」

 給仕の娘が膳を配んでくるのにあわせて、親方が小さな火鉢を持ち込んだ。そこに鍋をそっとかける。既に火にかけられていた鍋からは、湯気が上がっていた。


「さぁさぁ、これを飲めば目にいいんですよ」

 鍋の蓋をとると、味噌の香りがぷんと広がった。

 何を思ったかおツネがそっと立ち上がり、注ぎ分けられた椀を盆に載せた。

「これはすまないねぇ。おツネちゃんは客なんだから、座っていてくれたらいいんだよ」

 源太は、四畳ほどの座敷にはそぐわぬくらいの声をはりあげた。

「いいえ」

 おツネは、はにかみながら前に回ると盆をおいた。源太の前に据えられた四足の膳に椀を置く。左の手で袂を抑えながら椀を持ち、庄吉の膳にも置いた。膳をはさんだ正面に回ると、庄吉の手をとって椀に添えた。

「私のような女では気に入りませんか?」

 少しだが、舌が強ばっているような発音だった。


 ようやく目が馴染んできた庄吉は、ついと立ち上がったおツネの動きを追っていた。盆に椀を載せ、見事なまでに流麗な裾さばきで源太の前に盆を置いた。そして湯気のたつ椀を膳の上に置いた。そして同じように自分の膳にも載せてくれた。初めて会う娘だし、所帯をもてと言われている相手である。そんなことなど経験したことのない庄吉は、どうしていいかわからずにぼうっとしていた。いや、身を縮こめていたのだ。そうしたら……

 おツネは、庄吉の手をとり、椀にふれさせた。そして言った。

「私ではだめですか」

 どこかくぐもった言い方だった。言われて庄吉は、ふるふると首を振った。


「い、いや、気に入らないなんてことじゃなくて、そのう、……お、おツネさんにとって迷惑だろうと……」

「庄吉さん、飲んでくれませんか、蜆汁」

 おツネは椀に添えさせた手を両手で囲い、そっと持ち上げさせたのだ。


「源さん、どうしよう。蜆汁、飲んでもいいんだろうか?」

 ふっと顔をあげると小首をかしげたおツネがいる。振り返った庄吉は、笑みを噛み潰した源太がじっと自分を見つめていることを知った。

「ああ、いいともさ。いくらでも飲むがいいさ。けどね、これだけは言わせてもらうよ。その汁、飲んだら話はまとまった。……そういうことだよ」

「……源さん、すまない……」

 庄吉は、じんわりと滲みだしてきた涙を拭けもせず、チョロッと垂れた鼻水を啜りながら椀に口をつけた。


「飲んだ、飲んだね、庄吉。承知した、そういうことでいいんだね? 最後まで勿体つけて、いつの間にもったいぶるようなことを覚えたんだね。おいおい、そんな、自分ばっかり飲むものじゃないよ、おツネさんにも一口くらい飲ませておあげよ」

 まったくだ。自分のことばっかり考えていると庄吉は思った。泣くも笑うもこれから二人で分け合わねばいけないのだ。こいつは初っ端からとんだ粗相をしてしまった。庄吉があわてて椀をおツネにそっと差し出すと、おツネはそれを静かに啜った。

「まったく妙な三々九度になってしまったけど、正式な杯事はまた後日ということでね。おツネさん、庄吉のことをお願いしますよ」

 張り上げた声が聞こえたのだろう、おツネは源太に深く頭を下げた。


「さあさあ、目出度ぇ席にしちゃ貧相だけどよ、精のつくものばっかりだからな、冷めねぇうちに食べてくだせぇよ」

 いつの間にか襷を外してしまった親方は、入り口の障子を背に居座っている。

「ところで親方、勝手を言って申し訳ないのですが、庄吉を泊めてやってもらえませんか。いえね、もうとっぷり暮れてしまって、私でさえ足元が頼りなくなっていますのでね。これから帰るには骨が折れます。まごまごしてたら大木戸が閉まってしまいますから」

「ああ、まかしておきなって。そのかわりと言っちゃなんだけど、おツネちゃんにも泊まってもらおうかな。朝になったら美味い蜆汁をたらふく飲んで、それから帰ればいいさ」

 源太の意外な注文を一声でのみこみ、親方はいかつい顔を綻ばせた。



「親方、急なことでご迷惑をおかけします」

「なぁに、端っから承知づくだぁ。それより源さん、気の優しそうな男じゃねぇか。もちぃと横着でもいいのによぅ。けど、それっくらいのほうがいいかもしれねぇな。兎にも角にもおツネちゃんを救ってやることができたんだ、この通りだ、礼をいうよ」

 二人を残して店に戻った源太と親方は、客の帰った席につまみを持ち出し、猪口を並べていた。チロリをさしむけて源太に猪口を空けるよう促した親方は、空いた猪口に酒を注いだ。


「それにしても良かった、これでおツネちゃんにも人並みの幸せがくるってもんだ。なぁ源さん、あんだけの器量よしなんだよ、放っておいたって良縁の二つや三つ転がり込むはずじゃないか。それがどうでぇ。耳が悪いだ、貧乏だってくれぇのことを恩にきせやがって。妾ならって言いやがる。どいつもこいつも、おツネちゃんのことなんかこっから先も考えちゃいねえんだぞ」

 顔の前に手をかざし、小指の先っぽだけを示してみせた親方は、悔しそうに猪口を空けた。

「ですがねぇ」

 源太は、チロリを持ち上げて親方に酒を勧め、なみなみに注いでおいて箸をとった。

「庄吉はあのとうり目が悪くてねぇ、木彫りをしているから余計に悪くしてしまうのですよ。目の悪い男と耳の悪い女、苦が絶えないでしょうねぇ……」

 いかにも知ったように相槌をうった源太は、庄吉とさして違わない年齢である。親方にすれば、世間知らずの若造が生意気なことを言ったと受け止めた。


「なにを頓馬なこと言うんだね。そんなもなぁどうってことじゃねぇ。源さん、お前ぇさん独り身だからいけねぇんだ。解ったようで解ってねぇ。悪いこたぁ言わねぇ、早く所帯をもつこった。そうすりゃ嫌でも解るってもんさね」

 やんわり嗜めた親方が、ふっと飯台に視線を移した。小鉢からオカラの煮付けをひと箸掬いとると、それを左の甲に載せた。箸をおいてから煮付けを口に配ぶ。そして猪口を空けた。


「なあ源さん、お前ぇもまんざら朴念仁じゃあんめぃ? お君の気持ちだって判ってるはずだ。惚けようったって、そうはいかねぇぞ。なのによぅ、なんだい今日のあれは。小間物屋の源太と申します。席をってお前ぇ、他人行儀なまねしやがって。そりゃあ芝居だってこたぁ解ってるよ、けど、情ってものがねぇのか? えぇ、源さんよぅ」

 お君は親方の娘である。娘といっても、実の親子でないことは親方から直に聞いていた。

 行商のついでに中食をと立ち寄ったのが大瓢箪という飯屋で、お君はそこの看板娘だった。商いの都合で何日も続けてその店に立ち寄るうちに、軽口を言い合うようになったのだ。


「そ、それはまた考えるから、私にも汁と飯を食べさせてくださいよ。ちょちょっとつまんだだけだから腹がへって、もうどうにもなりませんよ」

「おうおう、そうだったなぁ。うんじゃあいぃや、腹いっぱい食って帰ぇりな。なんならお前ぇ、お君の腹もふくらませていいんだぜ」

「お、親方、なんてことを言いなさるのですか」

「えっ? 本気だぜ。源さんに孕ませられたんなら万々歳だ、有無をいわせず祝言をあげられるからな。なぁ、おい、たまには縁日にでも連れて行ってやれよ。ついでに上野あたりの出会い茶屋にでも寄ればいいんだからよぅ。ったく、晩熟なんだから」

 ぶつぶつと独り言をいいながら、親方は勝手場へ姿をけした。



 庄吉は、おツネと二人きりにされて戸惑っていた。何を話せばよいやら見当もつかないのだ。ましておツネは耳が聞こえにくいということだった。だとすると、自分の言ったことが店にまで筒抜けになってしまう。そんな恥ずかしいことはごめんだった。とはいっても、何か話さないとただ黙って飯を食うしかすることがないのだ。


「お、おツネさん」

 思い切って声をかけてみたのだが、返事はないし、おツネがこっちを見るそぶりもみせなかった。

「お……、おツネさん」

「はい」

 少し大きな声にすると返事があった。

「こ、これっくらいの声なら聞こえるのかい?」

「聞こえはするのですが、何を言っているやらはっきりとは」

 すまなさそうに下をむいた。

「じゃ、じゃあこれならどうだぃ?」

「はい、それならはっきり」

「そ、そうかい、これっくらいの声だな。だけど、内緒話ができないね」

 言ってしまってから庄吉は自分で口を抓っていた。相手は耳が悪いのだ。内緒話ができないとは相手を見下げた物言いだということに気づいたのだ。あーあ、初っ端から嫌な思いをさせてしまった。おい、いい見世物があるから見ていこうやと言われたのと同じことなのだ。どうしてこんなに軽口ばかり言うのだろう。自分が軽率なことを情けなくてしかたがなかった。

「す、すまないことを言っちまった。悪気じゃないんだ。うっかり口が滑っちまって……、本当にすまない」

 穴でもあったら入りたいほど恥ずかしかった。

「いえ、本当のことですから。でも、できれば、内緒話は無しにしてもらえると……」

 やはりすまなさそうに下を向く。ただ、おツネの口から漏れる声はさほど大きくはない。それはそうだ、おツネの声はおツネ自身には聞こえているのだから。ただ、おツネが発する声がどの程度の大きさなのか、他人と較べてこそ判断できるのだが、おツネにはそうするすべがなかったはずだ。

「わ、わかったよ。内緒の話は金輪際しないよ」

「でも、そうとばかりもいきませんから。庄吉さん、そういう時には書いてもらえると」

「書いて? お前、字を読めるのかぃ?」

「手習いに通いましたから」

「そ、そうかい。なら心配ないよ、そうしような。けど、帰らなくていいのか? そろそろ無用心だよ」

「家の者は承知です。ひょっと泊めるかもしれないって源さんが」

「そ、そうかい。なら心配ないけど。……料理、残さずに喰っちまおうか」



「おまちどう、蜆汁、温めたからね」

 源太の目の前に大きなどんぶりが並んだ。てんこ盛りの白飯に、溢れそうな汁だ。やっこ豆腐に茹でて絞った青菜が小鉢に収まっていて、小皿に焼き塩が一つまみ添えられていた。


 どんぶりを置いた指が箸を手渡す。そしてそのまま源太の二の腕をきつく抓った。

「こらっ、源太。さっきのはなによ。小間物屋の源太と申します。なぁんだよ他人行儀に。お君ちゃん、今日もきれいだよくらいお言いよ、まったく」

 伝法な物言いだ。端っから芝居ということは解っているのだから、怒り心頭というほどではなかろうが、黙って見過ごすのは癪なのだろう。

「痛っ……、痛ったいなぁ。今も親父さんのお小言だったんだよ、もう勘弁しとくれよ」

 危うく箸を落としそうになって、源太は慌てた。


「だめだよ、これっくらいで勘弁なんかできるもんか」

 居汚く居座った客に背を向けたお君は、見えないことを幸いに頬をぷっとふくらませた。

「庄吉とおツネさんを引き合わせる大事な日だったんだからさぁ、機嫌直しとくれよ」

「嫌です、い・や!」

 わざわざ顔を近づけたくせに、言い終えるとプイと横を向いてしまった。

 いくら客が減ったとはいえ、ここは店先である。お君を目当てに通う者だっているというのに、これでは痴話喧嘩と間違われてしまう。ところがお君は、そんなことを気にもとめずに拗ねてみせた。

「困った、これは困りましたよ。このお詫びはきっとするからさぁ、それでもだめかぃ?」

 長屋のかみさん連中への対応を、知らぬ間にしていた。少しくらいの不満は、そうすれば治まるのを身体で覚えているのだ。

「じゃあ、……菖蒲を見に連れてってもらおうかなぁ。上野の池が綺麗なそうよ」

 胸の前に盆を当てたままくるっと振り返って、お君が殊更ゆっくり言葉にした。源太が言い終えて間が無かったことからすると、そうやってこの場しのぎをするとふんでいたとみえる。


 客の視線が一度に集まったような気配がした。やはりお君を口説こうと狙っている客ばかりのようである。いや、そんな客ばかりではないだろうが、お君と浮名を流したいなどと不届きなことを目論んでいる者は大勢いるのだ。上野とくれば忍ばずの池。そこから、池の端、出会い茶屋……。そういう具合に結び付けてしまうはずだ。

 お君をちょっとからかうだけでも親父がとんでくる。いかつい顔は仕方ないとしても、あの目には誰も逆らえなかった。その強面の親父が、お君と冗談を交わす源太を追い払わないのだ。ここは一番とお君に近づこうとしたお調子者は、親父の一喝で震え上がってしまったというのに。今だってお君の話し声が親方の耳に届いていないわけがないのに、何もしようとしない。


「上野? 上野……かぃ」

 源太は、他の客が自分を睨みつけていることが気になってしかたなかった。それに上野へ行くとなれば商いを休まねばならないのだ。煮え切らない返事にもなろうものだ。

「厭なの?」

 飯台に盆を置くなり、お君がたたみかけた。

「なにも嫌とは言ってないけど……」

 初めてお君のそうした仕草を見た源太は、剥れた顔を見上げて益々口ごもってしまう。

「けど? なによ、厭なら厭ってはっきり言ってよね」

「わかったよ、わかった。わかったからさぁ、飯、喰わせておくれよ」

「いいよ、たぁんとおあがり」

 源太から承諾の言質をとったお君は、いいよと言ったきりで向かい席に腰を下ろし、にんまりとしながら食べるのを見つめている。

 箸を使いながら源太は、外堀が埋められつつあることを感じていた。


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