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夜の話  作者: 明日咲霞苆
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三つ目の話

 今から一年半前かな。君が僕の前に現れたのは。


 その頃の僕は、紆余曲折あって大学でアルバイトをしていた。簡単な新入生の誘導バイト。時給もそれなりに良く、人を眺めるにはいい仕事だと思った。

 見覚えのある顔がいくつもあった。もちろん、知り合いというわけではない。ただ、どこかで見たような顔や、誰かによく似た顔が多かったというだけの話だ。


「あの、すいません。この棟はどこにありますか。」

「そこの建物を裏に回って道に出て、右手の手前から三番目です。」


「すいません。この建物はどこにありますか。」

「それは目の前の白い建物ですね、入り口は反対側にあります。」


 こんな誘導をずっとしている。思ったより立ちっぱなしは辛いものである。


「山林、おまえ、すごいモテてるな、」

「何をもって言っているんだ?」

「だって、お前のところ、女子しか尋ねに来てないじゃん」「そういう美夜先輩だって男子しか来てないじゃないですか、」

「黙れよ、ルックスお化けが」

「静かにしてください、童顔先輩」


 平和だ。平たく和む、このひと時。当時の狂騒は影を潜め、今はただ穏やかな時間が流れている。

 童顔な美夜先輩と、奇しくも田村のような体つきになってしまった僕は、意図的に正門へ配置されようとも、にこやかに平穏を嗜んでいる。


「あの。すいません、この説明がよく分からなくて、」

「あー履修か、そういうのは、まだ深く考えなくてもいいよ。そのうちいろんなサークルが勧誘を始めるから。」

「でも、そういうのはちょっと怖いですね、できれば先輩たちに教わりたいです。」「だそうです、美夜先輩。連絡先交換してあげてください。」

「嫌だね。君がしてあげな、山林。」

「あれ、先輩って●●じゃないんですか?」


 冷や汗が出た。気のせいだろうか。


「●●?違うよ。もしかして知り合いに似ていた?」

「似ているも何も地元じゃ有名人ですよ、●●先輩。」

「なに、山林くん有名人だったの?詳しく知りたいから、連絡交換しよ~。」

「ちょっと先輩、やめてくださいよw。」

「ところで君の名前は?」

「井伊(――)です。」

 強烈なノイズのように感じた。僕は君を知らない。少なくとも、名前を聞いても思い当たるものはなかった。それなのに、


 君は僕を知っている。

 ああ、今すぐに消したくなった。


「(――)ちゃんは新入生なの?」

「そうですよ~」


 どうでもいい会話が続く。僕の目は君に釘付けになった。


 それから、君はよく僕に絡んできた。

 

 当時の僕の生活は、あるサークルを中心に回っていた。映画鑑賞サークル。大学の片隅にある、どうでもいいような避暑地だ。そこにまで君がやってくるのに、そう時間はかからなかった。

 冷蔵庫の冷気に頼り、適当なカーテンを閉め、そこそこの大きさのテレビで映画を流す。保管されているのは字幕版の古い作品ばかりで、映画に詳しくない人間が真面目に鑑賞するには、少々小難しいものが多い。もっとも、BGM代わりに流すにはちょうどいい。少し汚れてはいるが、それなりに大きなソファもあり、くつろいだり駄弁ったりするには申し分なかった。

 どうせ誰も来ないだろうと高をくくって、僕はいつも美夜先輩とそこでくつろいでいた。

 僕にとって、そこは心安らぐ安息地だった。アパートにいても、講義を受けていても、どこか浮ついた感じが抜けない。そんな日々の中で、この何でもない環境に身を置き、誰かに甘えていられるのは、本当に心地よかった。


 そんな安息地にまで、君は僕を祟りに来た。


 僕は怖くて仕方がなかった。高校時代を経て、大学二年になった今の僕は、以前とは変わったと思う。そんな僕の、変わる前を知っている君が。

 蒸し暑くなる六月ごろ、僕の膝の上の美夜先輩が、ふと思い出したように尋ねた。


「そういえば、井伊ちゃんとはどうなの?」


 僕は彼女を抱えたまま答えた。


「距離の詰めかたは怖いですが、どうしたらいいのか、よく分からないです」


  僕はできるだけ真摯に答えた。彼女は振り向いて


「そ」


  とだけ言って抱きついてくる。別に、僕と彼女はそれほど深い仲ではない。互いに身を任せるようにくっついて、日々を過ごしているだけだ。諦めることに疲れた僕と、彼女の持つ母性らしきものが、ちょうどよい相互依存を形作っているのだろう。

僕は井伊の行動を把握している。君がいつ、どこで、何をしているのか。少なくとも、僕はそう思っていた。井伊という奴は、嘘つきではなかった。だからこそ、今もこうして美夜先輩に甘えていられる。


 梅雨の終わる頃、井伊と名乗る君は僕に付き合うよう伝えてきた。雨と講義を避けて部室に逃げ込むと、そこには君がいた。僕の把握していた行動とは違う。だから、思わず尋ねた。


「なぜ、君がここに? 今は講義があったのでは?」


「先輩こそなんでいるんですか、奇遇ですね?」


 雨に濡れた君は、妙に艶っぽかった。それ以上に気になったのは、普段、美夜先輩との逢瀬を楽しんでいるソファに、君が腰掛けていることだった。なんともいえない気持ちになる。


「なんでって、ここは僕にとって安息地だからだよ、別に占領しているわけではないが、僕にとってここは癒しなんだ。いつ何時僕がここにいようが関係ないだろ。」


 少し語気が強かったかもしれない。でも、威圧したくなることくらい理解してほしい。


「それなら別に私がいてもおかしくないじゃないですか」


 君は手元の映画を僕に差し出した。


「先輩も暇なら一緒にこれとかどうですか?」


「あぁ、なら君が好きなものを選んで観ればいい。僕は出るよ」


「なんでですか。そんなに私が気に食わないんですか?いいじゃないですか、私がいたって!」


「は?」


 僕にとっては天敵のような存在である君が、そんなことを言うのか。心の中で叫びたくなった。

 僕は小心になったんだ。だからもう、


「私じゃダメですか?美夜先輩とじゃないと嫌ですか?どうしたらいいんですか?こんなに、気にかけてるのに」


 訳がわからなくなった。天敵だと思っている目の前の君は急に泣き出した。美夜先輩の代わり?それよりなんで泣いた。いや、泣き止ませないと誰かが、もしこの部屋に来たらとんでもない事になる。だから咄嗟に、


「君は美夜先輩のように僕と付き合っていない。だからこそ、後輩である君と同じ空間に二人きりというのが怖くて仕方がないんだ。だから許してくれ、こんな小心な僕を」


 僕はそんな事を言ってハンカチを渡す。彼女はそれを断りながら、自分のハンカチをジーパンから取り出して涙を拭く。


 そしてこちらを睨むように、

「なら、私と付き合ってくださいよ。私、薄々分かってるんです。別に先輩は美夜先輩と正式に付き合ってないですよね、なら、私と付き合って一緒にこれを観ましょう。」


 そうして僕は初めてこのスパイ映画をまともに観た。意外なことに覚えていない場面がいくつもあった。あぁ、こんなに良いものを今までBGMにしていたのかと、少し後悔した。


 それからは君が僕の生活を占めるようになった。君は大学補助員のバイトをはじめ、映画鑑賞サークルにも所属し、僕といえば、週末やバイトの被った日は君と過ごすようになった。


 その裏で、僕は美夜先輩と過ごした。予定を重ねながら、それをひた隠しにする。そんな二重生活には、ある種のロマンがあった。タイトな日々ではあったが、思い返せば蜜月な日々だったのかもしれない。美夜先輩は多少事情が分かっているのか、少し悲しそうにしながらも体を重ねてくれたし、

 君は君で、僕の中で少しずつ崇高な何かになっていた。


 崇高な何か。きっと憧れとか羨望ではなく自身を殺し得る何かを内在している何かなのだろう。そんなことを、横で眠る君の横顔から感じ取っていた。


 鏡に映る自分とはひどく退廃した人間なのだろうと、美夜先輩の顎を愛撫する。僕にとって三猿は賢人ではなく廃人である。そのまま、目を閉じて乳房で口を塞いで、耳は美夜先輩の声で満たす。


 別に、性に溺れたわけではないと信じている。ただ僕は、美夜先輩にそれを求めながら日々を過ごしていた。


 全部、君のせいだ。


 君が一年前から僕の生活をタイトにしたせいで、僕はおかしくなっていった。

過ちなんて簡単だ。バランスを取るのが難しくバランスを崩すのが簡単みたいなものだ。君を連れて何度目かのデートの後、ひどい夏雨が降った。僕は酩酊しており、君の肩に抱えられていた。君の顔なんて覚えてはいないが、ゆらゆらとのび歩く影を君が誘った事を覚えている。


 安いホテルで目覚めたとき、僕は、こんなことをするべきではなかったと思った。美夜先輩という軸にすがっている自堕落な僕にとって、美夜先輩以外の相手と身体の関係を持つことは、自己同一性に関わる問題だった。そんな肝心なことを、ほんの一瞬でぶち壊してしまった。


 そして、そんな稚児の隠し事に気づけないほど彼女の母性は鈍くなかった。


 十月、サークルの引き継ぎの頃、三年生の美夜先輩は副部長という任から脱し、その任は僕に与えられた。この時の僕は、ひどく浮ついていたと思う。美夜先輩の顔を見ても君を思い浮かべるし、君の顔を見ても美夜先輩を思い出す。仕舞いには目を閉じていたら、二人の顔が鏡写しのように見える。


 頭が性欲によるドーパミンによって壊れたと思う。そんな弛んだ顔をしていたら、先輩は部室に来なくなってしまった。


 そもそも彼女は、部室で僕の面倒を見ながら、作品の整理や企画といった仕事をこなすために通っていたのだ。仕事を終えた彼女は、もうここへ来なくなった。僕は美夜先輩と、ぱたりと会う機会を失った。


 君と付き合って、いや、君という人間に首輪を繋がれてから、僕は少しずつ人間らしい生活を取り戻していた。講義に出るようになり、実家に連絡を取るようになった。今まで隠していた自分の本質に君が踏み込んできたことで、僕の人生は明らかに進み始めていた。


 それは革命だ。僕の人生にもやっとまともな春がきた。


 僕は名前を捨てたが、過去を忘れたわけではない。こんな人間が生きていていいわけもない。そんな幸せになろうとしない僕を、君は無理やり引き剥がしていった。でもだからこそ有頂天な幸せをドパドパに感じていた。


 ああ


 僕は馬鹿ではなかった。


 少なくとも、君が信じていたほど僕は感覚主義ではなかった。性愛が薄れていくにつれて、自分の感覚が冴えていくのが分かった。別に、君とまぐはうことがつまらなかったわけではない。


 ただ、君を前にしたとき、僕の中で鳴っていたノイズは、美夜先輩がいなくなったことで調律され、少しずつ情報を成していった。


 十二月には二人でクリスマスを過ごしたし、元旦も僕の家で一緒に過ごした。

君は少し背が高く、凛々しい顔立ちをしていた。美夜先輩とは違う欲情をかき立てられる。君が真摯に尽くしてくれる姿を見ていると、まるで自分がメシアになったような心地がした。そして君は、僕に動くよう促すかのように腰を打ちつけた。


 ホワイトデーの頃、学位授与式に合わせて二学年上の先輩の送別会があった。そこで僕は久しぶりに美夜先輩と顔を合わせた。君が別の奴といるのを見て、僕は美夜先輩に話しかけた。


「美夜先輩、元気にしています?」


「なんだ、山林か」


「ええ、少し痩せましたか?」


「まぁな、昔ほどゴロゴロしていられなくなった。そろそろ私も将来を見ていかないといけない。」


 あの頃の落ちぶれた子供を慈しむような、ともに退廃を望む黒い目には、なんとも眩い光が宿っていた。

 僕は非常に腹ただしかった。仲間だと思っていた奴から刺されたような衝撃だった。そしてつまらなかった。結局、美夜先輩も僕で遊んでいただけだ。


 それから、僕は君という崇高な対象をどうにか束縛しようとし、君はそれに応じるように、僕の言いなりになってくれた。

 半年前の蜜月とは違う。今度は僕が君を飼い慣らし、その合間を縫って美夜先輩に会おうとしていた。

 しかし、美夜先輩は先を見て、僕と会わなくなっていく。その苛立ちが君へと募っていく。君はどれだけ無茶を言っても聴いてくれた。それは傍から見れば異常であったし、そもそも、この生活の中に正常なんてあったのか。僕は僕を取り戻すために過去を知る必要がある。


 どこまでが君の計画なのか。いや、今はいい。


 僕は大学二年から、君の指示で実家と連絡を取るようになった。連絡を取るといっても、まずは僕の中学以降の奇怪な経歴を君にも伝えなくてはいけない。


 奇怪なこと。僕は高校入学時に家を追い出され、母方の伯父の養子になった。実家、いや両親は僕の特異さに苦悩したのだ。そして、両親が僕と距離を保つために伯父が引き取ってくれた。伯父は、おそらく僕のことを大体把握していた。僕がどんな人間で、その本質が空っぽであることも。


 だから、伯父は僕に厳しく接した。理不尽な体罰などは、なかった。ただひたすら、僕の価値を貶めていった。伯父も僕に似た人間であったと思う。全てが分かってしまい、全てが予想通りになってしまう。例外すら、予測の範囲内に収めることができてしまう。この「予測するだけで全能感を得てしまうという怠惰」という、何一つ身にならない悪を、伯父は踏みにじろうとしてきた。


 伯父はペットの調教師を生業としており、その応用で僕は躾けられていった。


「賢い犬には正しい価値観を、馬鹿な犬には徹底的な順位付けをしていかなくてはならない。お前は賢い犬だが、価値観が違う。それでは餌を前に「待て」をし続ける愚かな犬になりかねない。お前は十分に愚かだ。だからこそ、徹底的な順位付けが必要だ。」


 そういって伯父は僕の価値観を矯めていった。


 彼の教育は至極簡単だった。学問を究めろ。ただのその一点で僕を追い詰めていった。何かを取り上げるようなことはしなかった。ただここにいる限りは学び続けろ。その学んだことを伝え続けろ。そして、十分な学業を修めよ。


 おそらく普遍的には理想的で僕にとっては、最も残酷な方法であった。学べば学ぶほど、僕は追い詰められていった。井の中の蛙だと何度も何度も突き付けられる。知った気になっていた物事がどんどんわからなくなっていく。僕の中にあった、全てが予定調和に見えるという現象は、学問においては通じなかった。


 僕の理解が及ばない点を一つずつ突きつけ、そこに順位をつけることで、伯父は僕が僕であることをやめる術を身につけさせようとした。


 君はいつ気づいたのだろうね。君が信仰していた僕という存在が高校の間に躾けられ、大学で解放された事でおかしくなっていた事に。


 伯父さんの唯一の失敗は、僕に飼い主を与えなかったことだ。彼も、別に僕の飼い主になるつもりはなかった。テリトリーで暮らすのなら、このカーストに従え。それだけを教え込まれた。


 そして、僕は大学で独り立ちをした。そしてすぐにダメになった。高校を卒業するころには、既に小心で矮小になりきっていた。


 そんな僕より馬鹿で元気な奴がいる社会に絶望した。馬鹿な奴らがこんなに蔓延っていて気持ち悪かった。なぜ誰もシェイクスピアを知らない? なぜ誰もフェルマーの最終定理を知らない? なぜ誰も原子力発電所について考えない?


 社会が、いや、大学生という社会区分に属する人間の堕落ぶりに絶望した。伯父の教育が頼りにしていた、学問、ひいては知識という一点だけのランク付けは、ここで破綻した。


 そんな中で正気でいるのが馬鹿らしくなった。そして、そんな僕は美夜先輩に拾われた。もう、きっかけなんて覚えていない。ただ甘えるだけ甘えて。もういいか、こんな話。


 君も、僕がなぜ君を認知したのか、いや、君がシナリオを組んだのだから、分かっているのか。ああ、そうだ。僕は社会に絶望することをやめてしまったんだ。


 僕は久しぶりに実家に帰った。気持ち悪いと思うかもしれないが、大学生という社会区分を眺めるより、成人式という小社会における二十歳がどうなっているのか、気になったからだ。

 両親には前もって伝えていたが、別に何か用意していたわけでもなく、成人式の前日に実家に帰り、一晩泊まって次の日の式に向かった。


 詳細を話すのは、いや、思い出せる限りで必要なところ話そう。そうだね。田村は居なかったよ。君が知っているかどうか知らないけど。わざわざ引っ越す前の中学の成人式に出たのさ。あの頃の人はあまり居なかった気がする。やはり数年経っても気味悪いんだろう。


 でもね、君は覚えているか、そもそも知っているか、それすら知らないけど、鳥居さんが居たんだ。


「やぁ鳥居さん、まさかあの頃、自称二軍を名乗っていた君が来てるなんて、思いもしなかったよ。」


 そう話しかけた。振り向いた鳥居さんはこちらを見るなり酷い顔になった。でも、それは案外、向こうにとっても予定調和だったのかもしれない。


「やぁ、●●。いや、今は山林くんとでも言ったら良いのかな。」


 語気が強いように感じた。何かしら覚悟をしていたような気がする。そんな予感が僕を期待させてしまう。


「まさかわざわざこっちの成人式来るなんてね、驚いたよ。てっきり向こうの方に出ると、踏んでいたのに。」


「向こうって、あぁ転校先ね。でも僕にとってはこっちの方が思い出深いからね、」


「思い出深いか、やっぱり君は異常者だね。でもこれで私の勝ちだ。」


 彼女は何かしら賭けをしているようだった。どうにも、僕にとっては面白くない話らしい。まるで蚊帳の外に置かれたような気分だった。


「すまないが、別につい半年前までここに来るつもりはなかったんだ。ただ所用があってね。誰でもよかったけど、ここの人に聞きたい事があって、」


「それってたぶん。いや、そうなんだろうね。君は今でも、自分をフィクサーかマクガフィンとでも思っているのかな、」


 やはり、僕は意外と鳥居というこの女を高く買っている。もちろん、学力や知識では僕の周りの大学生に劣るかもしれない。だが、こうして僕の好きな言葉を選ぶセンスは、やはり。


「残念だけど、山林とは付き合わないよ。そんな鼻の下を伸ばして気持ち悪い。いつから君はそんな弛んだ人間になったのか。」


「残念なお返事ありがとう。僕も今は連れがいるもんで、」


 なぜか鳥居は少し悩んだような顔をした気がする。


「そっか、ちなみに私の彼は田村くんだからね。皮肉な事に、君が最初に私を攻撃して以来、ずっと気にかけてくれててね。それがきっかけで付き合うことになったの。だから山林には感謝しておこうかな。」


「意外だな、それよりその田村はどこに行ったんだ?」


「彼はね、君に会いたくて今頃向こうの中学の成人式に凸っているところだよ、だからね、私の勝ちなの。」


 意外にも僕には、田村に会いたいという気持ちがある。そして昔の彼女を寝取られたような気がした。とはいえ、こんなセンスのある女が田村の伴侶ならいいとも思った。


「ごめんね、●●。たぶん君が気になっている事の答えは知っている。でもね、それは教えてあげられないんだよ。だって君は賭けに負けたから。でも、君が推論でどうにかできない話は教えてあげる。」


 鳥居が悪戯っぽい顔をする。別に特段美人なわけではないが、少し可愛らしく感じてしまう。どうやら僕は、女性に触れすぎたせいで免疫が落ちているらしい。思考能力も、この瞬間ガクンと落ちた気がする。


「君が中学を去ってから一年後かな。似たような事件が起きた。その時はなんというか、全部が同じじゃないし、全部が逆だったわけじゃないけど、結局、被害者の男女比は反転していたよ。


 つまり、君の模倣犯が居たわけだ。


あと、もう一つ。君が大きく関わった人間の家庭はだいたい崩壊しているよね。って言っても、君はあの委員長さんのことしか把握してなさそうだけど。当時の新任の先生は、数年後、生徒への性的加害が原因で辞めているし、中学の校長も模倣犯の事件を受けて一家心中を図ろうとしている。あと、田村の両親も離婚したね」


「ダンマリだね、それとも話が大きすぎてついて行けてないのかな。」


「あぁ、思ったより僕は何かを見落としている気がする。」


「違うよ。君は知らなかっただけさ。確かに君は賢くて十分な材料があればなんでもできちゃう天才さ。でもね、肝心の材料が無ければ君もただのバカなのさ。いいね、数年越しに君をバカにできたよ」


「これで材料はすべてか?」


「君ならこれで足りるし、君なら。うん、最後に勝たせてよ。」


 僕はまだ、何のことなのか分からなかった。いや、分かったような気もする。昔の勘と、伯父に躾けられた反推論。その二つが頭の中でぶつかり、思考がまとまらなくなる。だからこそ、


「もう一つ、教えてくれて、君は誰と賭けているんだ。」


「そうだね、ここは美しく言おう。私は田村と賭けている。」


 僕は君の正体を知ってしまった。いや、結論を知っている今なら、どうとでも言える。しかし、僕にとっての正念場は君の正体を知ることだったが、君にとっての正念場は、ここではなかった。



 春が来る頃には、僕は君に飽きていた。君は僕から美夜先輩を引きはがし、僕の過去を仄めかす爆弾のはずだったのに、今では僕の第二の住みかとなっていた。

そして美夜先輩は僕を見なくなり、君は僕のただの彼女になった。いや少し違う。君は本当に僕の言いなりだった。

 君に飽きた僕は、君を飼い殺しにしながら、美夜先輩との関係が懐かしくなってきた。

 そう、僕はあのころのような蜜月、分からない君を危なっかしく扱いながら、美夜先輩と和む時間が楽しかったのだ。君は美夜先輩のようにはなれなかったし、君はもうそれほど価値なんてなかった。

 だから僕は、もう一度美夜先輩と復縁できないか、考えた。


 結局、美夜先輩とのデートの日程を組めたのは十一月であった。

 久しぶりに会った先輩は、以前と変わらず美しかった。いや、以前よりもずっと綺麗に見えた。僕の知らないところで何かを積み重ね、僕の知らないところへ進んでいく人間というのは、こんなにも眩しいものなのか。

 そんなことを考えながら、僕は先輩と食事をし、他愛もない話をした。大学のこと、仕事のこと、共通の知人のこと。話題はいくらでもあったし、沈黙が訪れたところで、僕にはいくらでもそれを埋める手段があった。

 僕は人と話すのが得意だった。相手が何を求めているのかを考え、適切な言葉を選び、相手にとって居心地のよい人間を演じる。そんなことは、もう何年も前からやってきた。

 だから、先輩が僕を振ることくらい、もっと早く気づいていてもよかった。


「山林はさ、もう大丈夫そうだね」


 先輩は、そんなことを言った。

 何が大丈夫なのか。僕は尋ねなかった。尋ねる必要がなかったからではない。尋ねたところで、返ってくる答えが分かっていたからだ。

 先輩はもう、僕を必要としていなかった。

 かつての僕を憐れみ、甘やかし、同じ場所に留まってくれた人。僕が自分の人生を放棄している間、隣で一緒に時間を潰してくれた人。僕はそんな先輩を、自分と同じところにいる人間だと思っていた。

 違ったのだろう。

 先輩は先輩の時間を生きていた。僕が勝手に、同じ場所にいてくれると思い込んでいただけだ。

 それから何を話したのか、あまり覚えていない。別れ際に何を言ったのかも、帰り道に何を考えていたのかも、記憶は曖昧だった。ただ、先輩との関係が終わったことだけは理解していた。


 だから、帰ることにした。君の待つ家へ。


 その頃には、僕にとってあの家は、すっかり帰る場所になっていた。君がいて、君のものがあって、僕の知らないところで君の生活が続いている。僕が帰れば君がいる。それだけのことが、いつの間にか当たり前になっていた。

 玄関を開けたとき、違和感があった。

 何が違うのか、すぐには分からなかった。部屋の中は静かだった。君が出かけていることは珍しくもない。机の上に置かれた紙切れも、最初はたいして気に留めなかった。

 ただ、そこに君の名前があった。

 僕はそれを手に取った。

 読み終えたあと、しばらく動けなかった。何が書かれていたのか。どこから読み返せばいいのか。そもそも、僕は今、何を理解したのだろう。

 君は僕に何も教えていなかった。

 いや、違う。君は何も隠していなかったのかもしれない。少なくとも、僕が自分の目で見て、耳で聞いて、理解したと思っていたことの中に、君の本当の姿はなかった。

 僕は君のことを知っているつもりだった。君が何を好み、何を嫌い、どういうときに笑い、どういうときに怒るのか。どこへ行き、誰と会い、何を考えているのか。

 そうした断片を集めて、僕は君という人間を作り上げていた。

 僕が知っていたのは、君ではなかった。

 僕の推測によって作られた、君の模型だった。

 そこから先のことは、あまり覚えていない。

 どれくらいの時間、部屋に座り込んでいたのかも分からない。何度メモを読み返したのかも、どこで読み終えたのかも覚えていない。ただ、動けるようになった頃には、僕の中から指針と呼べるものが消えていた。

 今までなら、次に何をすべきか考えられた。可能性を列挙し、情報を集め、仮説を立てる。分からないことがあれば、分かるまで調べればいい。そうやって僕は生きてきた。ところが、君については何もできなかった。

 どこへ行けばいいのか。誰に尋ねればいいのか。何を調べれば君にたどり着けるのか。そもそも、僕が今まで知っていた君の情報のうち、いったいどれが事実だったのか。


 何一つ分からなかった。


 最初は、君が残した痕跡を探した。部屋の中を調べ、連絡先を見直し、君が使っていたものを確かめた。何かしら、君につながる手がかりがあるはずだった。

 だが、見つからなかった。

 君は、この夏に住む場所を変えていた。僕に気づかれることなく、学科を編入し、学籍番号まで変えていた。

 どうしてそんなことができたのか。

 いや、違う。どうして僕は気づかなかったのか。

 君はずっと僕のそばにいた。少なくとも、僕はそう思っていた。僕の生活の中にいて、僕の言葉を聞き、僕の行動に従っていた。だから僕は、君の生活もまた、自分が把握できる範囲にあると信じていた。

 それが、どれほど馬鹿げた思い込みだったのか。

 僕は美夜先輩に連絡を取った。今さら恥も外聞もなかった。何を尋ねたのか、どんな声で頼み込んだのか、詳しくは覚えていない。ただ、先輩も君の居場所を知らなかった。

 鳥居にも尋ねた。彼女なら何か知っているかもしれないと思った。しかし、駄目だった。

 僕はそれまで、自分が必要とする情報は、誰かに尋ねれば手に入ると思っていた。人間関係をたどり、相手の利害を考え、適切な人物に接触すれば、いずれ答えに行き着く。そういうものだと考えていた。

 けれど、誰に尋ねても、君にはたどり着けなかった。

 最後には田村に頼み込んだ。

 どういう経緯で連絡を取り次いでもらったのか、今となってはよく覚えていない。あれほど関わりたくなかった相手に、僕は頭を下げた。自分が何をしてきたのか、相手が僕をどう思っているのか。そんなことを気にする余裕もなかった。

 そうしてようやく、君の居場所にたどり着いた。

 井伊という家をたどり、僕は君が入院している病院を知った。

 

 君は、僕が美夜先輩とデートをしていたあの日、自殺を図っていた。

 幸い、命は助かった。君は病院に運ばれ、そのまま入院していた。世間を騒がせるような事件にはならなかった。ニュースにもならなかった。僕が君のことを知らないまま過ごしていたところで、誰も僕に教えてはくれなかった。

 僕が君の入院先を知ったのは、十二月に入る少し前のことだった。

 つまり、僕は君がいなくなったことにも気づかず、君がどこかで生きているのかさえ分からないまま、何日も過ごしていたことになる。

 あれだけ君を知っていると思っていたのに。

 あれだけ君の行動を把握していると思っていたのに。

 僕は、君が僕の知らないところで何をしていたのか、何一つ知らなかった。

 さぁ結末だ。僕はこれですべて話した。僕という人間は、君という人間に出し抜かれたのさ。君は笑うのかい。それとも悲しむのかい。君は僕に何を望んだのか。僕は君に何を望んだのか。何一つ分からないまま、このざまだ。


 さようなら。

 返事はなかった。


 僕は病室を出た。君が何を思っているのか、最後まで分からなかった。いや、分からなかったのではない。もう、分かろうとすることさえできなかった。


 僕は死ぬのだろう。いや既に死んだのかもしれない。感覚という感覚が抜け落ちていく。今度は上手くできなかったな。申し訳程度に掃除した部屋の窓は、蛍雪が似合いそうな空を映していた。


 鳥居女史の口から語られたのは実に衝撃的な物語であった。如何せん、教育課程を触れた者なら聞いたことのある例の事件の親族にあたる方であるのだから。ええ、彼女は彼のことを思えばこそ、勝ち残ったものが如何様にも認識を曲げられるものだと語っていた。鳥居女史の夫の妹さんは、例の一件で精神病棟に入院し、つい先日までいたらしい。この話もまた、その義妹から鳥居女史が聞いたものだという。語り手は不明。彼女の創作の可能性もある。しかし、臨死体験の中、訪れた●●とはいったい誰であったのか。

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