(2)
星がまたたく夜空の下、篝火が赤々と廊を照らしている。交代の刻を迎えた衛士たちのすきをぬい、金鵄は一室に滑り込んだ。
室内は明かりもなく薄闇に沈んでいた。金鵄は外から漏れる光を頼りに、できるだけ足音を立てずに帷へと近づき、中をのぞいた。
女は臥していなかった。座したまま見上げてくる女の前に膝をつき、金鵄は女の頬に手をあてた。
「わたしを待っていてくださったのですか?」
そのようなことはあり得ないと知りながら、金鵄はあえて口にした。女がかすかにかぶりを振りながら涙をこぼす。泣き顔もまた美しいと金鵄は思った。
「お願いでございます……もう……」
口数が少ないと評判の女は、細すぎる声音でこいねがった。金鵄はわずかに眉をひそめ、それから口角をゆがめて上げた。
「ずいぶんとつれないことをおっしゃる。わざわざ訪うたわたしを追い払うのですか? あなたの罪の隠蔽までしたわたしを」
あの夜の後、女の汚れた衣を金鵄は進んで引き受けた。女には燃やしたと告げて安心させた。しかし実は金鵄の屋敷に今なお置かれたままである。女の持ち物を金鵄は捨てることができなかった。
女は金鵄に処理を任せた代わりに、その思いを受け入れた。一度かぎりの約束で。しかし金鵄はその後も女のもとへ忍んでいった。そしてそのたびに女の弱みを責めては苦しめている。
かつて己の求愛を振り切って貴王に嫁ぐことを選んだ薄情な姫――幾日も己に眠れぬ夜を過ごさせた美しい女が今なすがままになっていることに、金鵄はこの上ない喜びを感じていた。
「もう一つ、よいことを教えて差し上げましょう」
金鵄は女の耳朶にささやいた。
「あなた方の子はわたしが無事に育てあげましたよ。素直な娘になりました」
女が全身をひきつらせた。金鵄は喉の奥で低く笑った。
「御殿には佳花がたくさんいるゆえ、姫も喜んでいます」
目を見開いたまま動かぬ女に、金鵄は優しく口づけた。
「次は誰がよいですか? あなたの憂いをすべて取り除いて差し上げます」
「やめて……やめてくださいませ」
女が両手で顔を覆う。金鵄の胸で熱気と冷気が渦巻いた。
「あなたは妃が増えるのを避けたいのでしょう?」
子を産まぬ妃など廃せばよいという大臣の言葉におびえたがために、らしからぬ行為に及んだのではないか。
「貴王に知られるのが怖いのですか?」
女は答えない。金鵄は続けた。
「貴王の目はあなたに向いていない。あの娘が生まれたのがその証だ。それでもあなたは、妃の座にとどまっていたいのですか?」
「違います……王は……悪いのはわたくし……わたくしなのです」
女が首を横に振る。はかなげでありながらかたくなに王を慕い続ける姿に、金鵄はめまいを覚えた。
ふと目をあげると、部屋の奥に花びらの数枚散った牡丹がいけられてあるのが見えた。あの宴の夜、貴王が中座した後で女はそれを拾い上げ、大事そうに胸にかかえていたのである。
二人の行為を黙視する赤紫の牡丹を金鵄はにらみつけ、それから見せつけるように女の体と溶けあった。
朽ちた花の臭いをかいだのは、気のせいか。今宵もすすり泣きをこらえて震える女を、金鵄は丹念にむさぼり続けた。
室内にのびてくる薄弱い光に、貴王は目を覚ました。己の赤紫の髪に淡紅色の長い髪がからまっている。ああそうかと、貴王は静かに体を起こした。
いまだ目覚めぬ女を見やる。昨夜腕の中で眠りについた玉芙蓉を、貴王は抱き上げて寝床へ連れ込んだのだ。よく肥えた肢体はさすがに重く、貴王の腕はしばししびれていた。
ひとまず衣を脱がせて上掛けとしたのだが、玉芙蓉は温かかった。日だまりを抱いているかのごときぬくもりに貴王の意識もすぐに遠ざかり、朝まで気づくことはなかったのである。これまでさまざまな女とくり返してきた共寝であるが、このようなことは初めてであった。
幼き頃に乳母の添い寝で眠った感覚に似ていると、貴王は思った。おそらく情交もなく、ただ寄り添って休んだがゆえであろう。
男のそばでありながらあまりにも安らかな寝息を立てている玉芙蓉に、貴王は苦笑した。少し驚かせてやろうとしたが、昨夜の激しいおびえかたがよみがえり、手をひく。
普通ではなかった。常におおらかで泰然としている玉芙蓉からは想像のつかない乱れかたであった。
(何か……)
御殿に上がる以前に何かあったのだろうか。そう考え、貴王はにわかに苛立った。
己の知らぬ玉芙蓉がいる――親しい友のごとく話せる玉芙蓉であるだけに、まだ出会って三月ばかりということをすっかり忘れていた。
己の知らぬ玉芙蓉を知る者がいる――それが貴王を動じさせた。
玉芙蓉のまぶたが揺れ動いた。気がついたらしい。淡紅色の双眸がゆっくりと現れるさまを貴王は眺めた。
状況を悟るのは早かったようである。玉芙蓉は数度目をしばたたき、それからはね起きた。
口を開閉するだけで言葉を発しない玉芙蓉に、貴王は噴き出した。
「案ずるな、約束は守った」
理解したのか、玉芙蓉はようやく安堵に頬をゆるませた。しかし添い寝をしたことに変わりはないため、気まずげに目をそばめる。
「いささか悔やまれるがな。あのようなことを言わねばよかったと」
「わたくしは信じておりました」
「次は知らぬぞ」
すげなく言い放つと、玉芙蓉も微笑んだ。
「ご心配には及びませぬ。次などございませぬゆえ」
「つれないことを申す」
むすりとしながら貴王は枕辺にある己の扇を手に取った。リンポウの描かれてある美々しい扇を玉芙蓉に渡す。次なる逢瀬を約する証として、花源郷では互いの扇を交換する習わしがあった。
「理に反しまする」
男女の仲になったのではないと玉芙蓉は拒んだ。何より扇の交換は、この恋が真摯な想いによるものであることを意味する。戯れに逢瀬をくり返すのであれば、取り替えることはしない。
しかし貴王は玉芙蓉の肉付きのよい手を取り、己の扇を無理につかませた。
「かまわぬ。そなたに持っていてもらいたいのだ」
「王……」
「そなたの扇は、そなたが心を決めたときでよい」
「……一生涯、お渡しできぬやもしれませぬ」
玉芙蓉がうつむく。貴王は目をすがめた。
「そなたは、昔のことを何一つ語らぬのだな」
玉芙蓉が顔を上げる。淡紅色の瞳が悲しげにやわらいだ。
「お話しするほどのものではございませぬ。つまらぬ女の身の上など聞かれても、王は退屈なさいましょう」
それ以上玉芙蓉は打ち明ける気配を見せなかった。貴王も黙口したそのとき、廊がざわめいた。
駆けてくる足音がする。貴王が帳より出たところで、侍従の若者が登華殿前にて膝を折った。
「申し上げますっ」
貴王は下ろされている御簾まで近づいた。
「何事か」
「一大事にございます。烏羽玉妃様が麗香舎にてご落命なさいましたっ」
貴王は驚愕に玉芙蓉をふり返った。同じく帳から出てきた玉芙蓉も蒼白した面持ちで凝立している。
「烏羽玉妃様は、その……枯れ果てたお姿で……」
「何……?」
それでは雪重と同じ死に方であったというのか。
「すぐに行く。みだりに用なき者を近づけぬよう伝えよ」
「御意」
一礼し、若者が先に麗香舎へと駆けだす。立ちつくす貴王の隣に玉芙蓉が並んだ。
「王……」
「そなたはひとまず戻れ」
上掛けとしていた衣を取りに向かう貴王に、玉芙蓉もうなずく。貴王は厳しい表情で麗香舎を目指し、玉芙蓉は御簾を少し上げてそれを見送った。
御簾を下ろそうとした玉芙蓉は、ふと導かれるように視線をめぐらせた。従蕾殿へと渡る打橋にたたずむ男がいる。それが金鵄であることに気づき、玉芙蓉ははっとこわばった。
登華殿にいる玉芙蓉をあざけるように笑い、金鵄が貴妃殿に続く廊を歩んでいく。玉芙蓉は羞恥と悲愴の入り交じるさまで顔をそばめ、消え入るように奥へ隠れた。
烏羽玉妃の薄衣は重ね着していた形そのままで床に落ちていた。
麗香舎に踏み込んだ貴王は、燈台の近くに横たわる抜け殻に瞳を揺らし、それから室内を流し見た。
抵抗の跡であろうか、衝立も燈台も倒れてしまっている。よく火事にならなかったものだ。わずかにこげている床には鏡や櫛箱なども反っていた。腰を折り櫛を拾った貴王は、化粧に励む烏羽玉妃の姿を思い、胸を痛めた。
いたるところに散っているのは、昨夜まで烏羽玉妃を形作っていた肉体が崩れて粉となったものである。悲鳴を上げようにもあの喉ではできなかったのだろう。
ひどく悲しかった。だがそれは、烏羽玉妃を失ったゆえであるかどうかわからない。ただむなしさが広がっていくのは確かであった。
官吏が追い立てたのか、騒がしかった御簾の外側がやがて静かになった。貴王は御簾をめくり上げる気配にふり返り、眉間にしわを寄せた。
「失礼いたします。妃様の最後のお姿を拝見し悼むことをお許しいただけぬかと、厚かましくも参上いたしました」
伏し目がちに申し出る金鵄に貴王は当惑した。昼に臣下が貴妃殿に上がることは許されているとはいえ、烏羽玉妃と恋仲であった男がこの場に現れるなど……。
無言の貴王に承諾を得たと取ったのか、金鵄が入室してくる。放置されたままの烏羽玉妃の衣に黙祷をささげる金鵄の背を貴王は凝視した。金鵄が今どのような表情をしているのかわからない。嘆き悲しんでいるのか、それとも――あざ笑っているのか。
「わたしより、そちらに嫁いだほうが、妃は幸せになれたのかもしれぬな」
挑発をこめて貴王が言う。秀麗な顔立ちの異母兄は立ち上がり、ゆっくりと貴王をかえりみた。
「わたしは過去の女に未練などいだかぬことにしております」
金鵄が見せた冷笑に、貴王はわけのわからぬ寒気を覚えた。
「それはそうと、わたしは思い違いをしておりました。王は美しい女をお好みであると思うておりましたが……」
それが玉芙蓉をさしていることに貴王は気づいた。金鵄は玉芙蓉が登華殿にて夜を明かしたことを知っているのか。
「しばらく見ぬうちにずいぶんとよく肥えていたゆえ、わたしも驚きましたが」
「何……?」
貴王が顔色を変えると、金鵄は大仰に目をみはってみせた。
「おや、これは失礼を。王はすでにご存じとばかり思うておりました。そうですか、琵琶の君から何もお聞きではございませなんだか」
「……まさか……」
「昔はよい女にございました。それこそ烏羽玉妃にも劣らぬほどのうるわしさでしたが、今あのように見苦しく太っていては、色めいた気などまったく起こりませぬな」
貴王の心に亀裂が走った。感情という感情がすべて凍りつく。
「それにしても王とは縁が深うございますな。こと女に関しては……王はよほどわたしの手垢をお望みと見える。しからば失礼を」
大笑し、金鵄が退出していく。一人残され呆然としていた貴王は、しだいにこみあげてきた怒りに震えた。
金鵄をこの場で捕らえてやりたいと、心から思った。激しい衝動に胸をかき乱され、吐き気すらもよおす。
玉芙蓉と金鵄が――己の知らぬ頃の玉芙蓉を知る者が金鵄であったとは。
(何ということだ……)
貴王はうつむき、額に手をあてた。枯れ花の臭い――烏羽玉妃の死臭が、まるで貴王の落胆を喜ぶかのごとくまとわりついてくる。
御簾の外より呼びかける声がした。貴王に烏羽玉妃の死を報じた若者である。汚れた局を片づけるべく、他の者たちを連れてきたらしい。
貴王はようよう意識を保ちながら指示を出した。官吏たちがせわしなく室内に出入りするのを見やりながら、一人おぼつかない足取りで登華殿へ戻る。
すでに玉芙蓉が下がった室内は、陽光が差し込みながらも少し肌寒く思えた。ほのかに鼻をかすめるタマフヨウの残り香を受け、昨夜のぬくもりや、ふっくらとした顔かたちが貴王の脳裏によみがえった。
“……一生涯、お渡しできぬやもしれませぬ”
あれは――あの言葉の意味は。
(そなたはまだ……)
金鵄を忘れられぬのか。ゆえに他の男を受け入れぬまま過ごしているのか。
(今一度、むつまじくなることを夢見ていると……?)
再び金鵄に会いたいがために御殿に上がったというのだろうか。
ふと貴王は己の扇が脇几の上に置かれているのに気づいた。玉芙蓉に渡したはずの扇である。持って帰らなかったのか。
決して忘れたのではあるまい。情愛を拒む意図であろう。
貴王は茵に腰を下ろした。リンポウの描かれてある扇を取り、見つめる。
「愚かなことを……」
金鵄が玉芙蓉を見向くことはない。他の男ですら親しむのをためらう今の玉芙蓉に、金鵄が恋情をいだくはずがない。それが玉芙蓉にはわからぬのであろうか。
(わたししかおらぬのだ。そなたのよさを認めているのは、わたししか……)
烏羽玉妃と金鵄が恋仲であることを知ったときのように息苦しい。いや、あのときはただあせっていた。しかし今は――。
(嫉妬しているのか、わたしは……)
あせりではない。大きな石を飲み込んだような感じがする。
(わたしは……)
貴王の指から扇が滑り落ちる。床に転がる扇を拾うこともなく、貴王はしばらくの間、身動き一つしなかった。