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千尋  作者: 篠崎葵
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第八章 ハル

 あちこちをふらふらと歩きまわり、千尋は無意識のうちに駅前にいた。

 夏の空は夜になっても薄明るく、ネオンや街灯が眩しい。千尋の心を素通りして街がざわめいている。

——あたしからは絶対に別れないから! あたし、ずっと、ずっと待ってるから!

 別れ際の佳菜子の声が何度も耳の奥でフィードバックする。その度に胸が痛み、苦しくなる。


「千尋」

 ふいに背後から肩を叩かれビクッとして振り向くと、目の前にハルの人懐っこい笑顔があった。千尋と目が合った瞬間、ハルはその笑顔を消し、驚いた顔で千尋を見つめた。

「どうした? 死にそうな顔してるぜ」

 やべ、と思い、千尋は慌ててしらを切る。

「べつに。おまえこそ、こんなとこで何してんだよ」

「奈緒と遊んでたんだよ。今送って来たとこ。おまえは佳菜子と一緒じゃなかったのか?」

 いつもの、穏やかで、それでいて真実を見抜くようなハルの眼差し。嘘はつけない。

「今……別れてきたとこ」

「え?」

 ハルが、信じられないという顔をした。

「冗談……」

 確かめるように千尋の顔を見る。千尋はいたたまれなくなって顔を背けた。

「マジか?」

 千尋は返事をせず、横を向いたままだった。

 少しのあいだその様子を伺っていたハルが、千尋の腕を掴んだ。

「そんな顔で家に帰れないだろ。俺ん来いよ」

「もう遅いだろ」

「構わねーよ。お袋さんには俺が電話するから泊まってけ。おまえの好きなヘネシーもあるぜ」

 ちょうど酒をあおりたかったところではある。千尋は嫌そうな顔をしながらも、ハルの誘いを受けた。


 ハルの家は電車でふた駅ほどのところにあり、千尋の家からそれほど遠くない。大きな総合病院を経営する水島家はモダンな造りの建物で、開放的な広い空間が魅力的だ。ノーティ・ボーイズをやっていたころ、よくメンバー全員でハルの部屋に集まり騒いだことが思い出される。なんだか懐かしい。


 ハルの部屋に入ると、彼はすぐにサイドボードからグラスをふたつとヘネシーのボトルを出し、注いで千尋の前に置いた。

「遠慮するな」

 言って制服のネクタイを緩め、千尋の隣に座った。ハルがヘネシーに口をつけるのを見て、千尋もグラスを取り、一気に喉に流し込んだ。酔って、すべてを忘れたかった。

「あーあ、そんないっぺんに飲んじゃって。大丈夫か? 飯も食ってないだろ? 何か食うか?」

「いい。これがあれば」

 千尋は空になったグラスにヘネシーを注ぎ、再び口にした。

 ハルはその様子を見ながら、ゆっくりと切り出した。

「奈緒からよく聞いてたんだけどさ、佳菜子……ずっと悩んでたみたいだぜ。千尋は自分のことどう思ってるのかって。俺は、お前はほんとに佳菜子が好きなんだと思ってたよ。心変わりでもしたのか? 一ノ瀬愛美?」

 愛美の名前を聞いて、千尋はムキになってハルの言葉を否定した。

「一ノ瀬とはなんもねーよ! 確かにモーションはかけられたけど、彼女のことはなんとも思ってねーし、はっきり断ったよ」

「じゃあ、なんで佳菜子と別れた?」

 言いながら、ハルは空になった千尋のグラスにヘネシーを満たす。

「いろいろあんだよ」

「いろいろって? そもそもおまえ、佳菜子のことどう思ってんだよ?」

 ……好きだ。でもその言葉を人前で口に出すことはできない。俯いた千尋の緑の瞳が苦悩を滲ませて一点を見据える。

「佳菜子はいい子だぜ。狙ってるヤツも何人かいる。取られてもいいのか?」

「……仕方ねーよ」

 やけくそにも見える仕草でヘネシーを飲み込む千尋の表情を、ハルは横目で確かめる。

「好きなら、その気持ち示してやんなきゃ。佳菜子もそれを待ってんじゃねーの? 女の子はいいぜぇ。あったかくて、柔らかくて、いい匂いがする。何より、力を与えてくれる。わかるか?」

 千尋の顔から徐々に生気が消えていく。ハルの言うそれは、いくら望んでも自分には手に入れられないだろう……。

「俺には……関係ねぇ」

 言って千尋はヘネシーを呷る。そのスピードは尋常じゃなかった。

「おい、ちょっと早くないか? 確実に二日酔いペースだぜ」

「いいだろ。ヘネシーごときでケチくさいこと言うなよ。おまえももっと飲め」

「飲んでるよ。でも二日酔いには付き合わねーかんな」

 ハルの言葉なんか聞こえてないかのように、千尋はハルのグラスにヘネシーをなみなみとつぐ。ハルは仕方なくひと口飲んで話を続けた。

「で、おまえから別れを切り出したんだろ? なんて言ったんだ?」

「……別れて……くれって……」

 言葉のテンポが少し遅い。酔いが回ってきたようだ。

「佳菜子はなんて?」

「……イヤだ……って」

「一方的に別れたんだな。佳菜子、可哀想に」

 佳菜子とのやり取りが思い出され、千尋は辛そうにギュッと目をつむり、その記憶を振り払うように小さく頭を振った。グラスをテーブルに置くとネクタイを外してソファの背に掛け、倒れるように横になった。

「だって……仕方ないだろ。他にどうしようもないよ。あいつのこと考えたら……、こうしてやんなきゃ……いけないんだ……」

 呂律がうまく回らなくなってきたらしい。

 ハルには千尋の言っていることが理解できない。二人は長いあいだ相思相愛で付き合ってきて、何の障害もないはずだ。酒のせいで千尋の思考が支離滅裂になってきたんじゃないか。

「なんでさ?」

「俺……、あいつとは結婚できないんだよ」

「そんなことないだろ。見合いでもさせられたか?」

「そうじゃない……。俺……、父さんの子じゃないんだ」

 想像もしていなかった言葉が飛び出し、ハルは耳を疑った。千尋はいたって真面目に答えているように聞こえる。でも、酔いがまわって正常な思考になっていないのかもしれない。これ以上突っ込んで訊いていいものだろうか。一瞬悩んだが、答えは千尋の心に任せることにした。

「なにが……あった?」

 千尋はだるそうに手の甲を額に乗せ、ゆっくりと話し始めた。

「こっち……くる前、……イギリスにいたとき、母さんから……聞いたんだ。俺は本当に父さんの子なのかどうかわかんないって」

「え?」

「母さん……知らない男に……ヤられたんだよ」

 千尋は寝言でも呟くかのように、まるで他人事のように言った。いや、これは他人事で済ませる話じゃないだろ。とんでもないカミングアウトだ。ハルは一気に酔いが醒める気分だった。もともと酔ってなどなかったけど。

「親父さんがホントの親だって可能性は?」

「ない」

「なんで?」

「血液型」

「おまえ、何型だっけ?」

「AB。……母さんがABで、……父さんはO」

 医者志望のハルにはすぐ理解できた。一般的に考えると、この組み合わせで親子であることはあり得ない。でも、本当だろうか? 千尋は母親にそっくりだけど、よく見ると父親にも似ている。何かの勘違いか、それとも検査ミスという可能性は……? ハルは千尋の言葉にどこか違和感を抱いていた。

「ハル、おまえは何型なの?」

 千尋がうつろな瞳でチラッとハルを見る。

「俺もAB。親父がAでお袋がBだ」

「そっか……。わかりやすくていいな」

 唇にわずかに笑みを浮かべて、千尋はまた目を閉じた。

「親父さんは、なんて?」

「父さんは……このこと知らない」

「じゃあ、このまま黙ってたらいいじゃん」

「いつまでも隠し通せねぇよ」

 確かに、早いうちにはっきりさせないと問題が大きくなるだけだろう。特に一条のような大きな家では。

「それに……」

 千尋が続ける。ハルはちらっと千尋の表情を伺った。目を閉じ、表情はない。というより、眠そうだ。

「俺の父親って、どこの誰だかまるでわかんねんだぜ……」

 ハルは初めてわかった。さっき駅前で会ったとき、千尋が死にそうな顔をしてたわけ。佳菜子と別れなければいけなかったわけ。

「それでおまえ、佳菜子に手を出せなかったのか。奈緒がいつも不思議がってたよ。佳菜子はずっと千尋のアクション待ってんのに、なんで千尋は何もしないんだろうって。キスくらいしてやればよかったのに。手も繋いでやらないっていうじゃないか」

「俺だってそうしたかったよ。……でも……手繋いだら……キスしたくなる。キスしたら、あいつを抱きたくなる。それがわかってたから……できなかったんだ。俺は……弱いんだ……。自分をコントロールする自信がなかったんだよ」

 泣きそうな声が、今までどれだけ千尋が苦しんでいたかをハルに教える。

 やっぱり千尋は佳菜子が好きなんだ。別れられないほど。だけど、いつまでも隠し通せない事実を認めないわけにはいかない。その結果、佳菜子のことを一番に考えれば、別れないわけにはいかなかったのだ。

「ルシファーに移ったのも、そこらへんの事情が関係してんのか」

 眠気が襲ってきたのか、千尋は目を閉じたまま眠そうに答えた。

「……いつかは……父さんに本当のこと言わなきゃいけないし……。そしたら俺も母さんも……どうなるかわかんないからさ……。もし俺に才能と運があって、ルシファーで成功すれば、……母さんと二人で食べていくことくらいできるだろ」

 この歳で千尋はそこまで考えていたのか。それもずっと前から……。ウェンブリーだのなんだのと大きなことを言ってたのは、そういうわけだったのか。

 彼にどんな言葉をかけてやればいいのだろう。きっと、どんな言葉も空しく聞こえるだけだ。それなら、少しの間だけでもゆっくり眠らせてやりたい。ずっと悩んできたはずだから。そして、願わくば、彼と父親との間に確かな親子関係を見いだすことはできないものか……。

「わかったよ、千尋。おまえ、もう寝ろ。俺のベッド使っていいぜ」

「ん……」

 千尋はだるそうに起き上がると、ふらふらする足取りでベッドに行き、布団に転がり込んだ。

 相変わらず素直で可愛いヤツだ。そう思いながらハルは千尋の鞄をベッドの脇に置き、中から携帯電話を出してボタンを押した。

「こんばんは。僕、水島です。千尋と偶然駅前で会って、久しぶりに話がはずんじゃって。千尋、今僕の家にいるんですけど、今晩泊まっていってもらってもいいですか? ええ、僕のほうは全然大丈夫です」

 それからハルは携帯を千尋の耳に当てた。

「ほら、千尋、おばさん」

「千尋、急なことでご迷惑じゃないの?」

 携帯から母の声がする。千尋は携帯を握った。

「母さん。……大丈夫、ちゃんとお礼言って帰るから」

 さっきまでのだるそうな声が一変して、普通の喋りになっている。頭のどこかで、きちんと自分をセーブできているらしい。ならば、さっきのカミングアウトに間違いはないのだろう。

「そうね。明日も遅れずに学校行くのよ」

「うん。じゃ、おやすみ」

「おやすみ」

 電話は切れた。と同時に千尋の手の力が抜け、携帯はカタンと音をさせて絨毯の上に落ちた。

「あらら……」

 母親の声を聞いて安心したのだろうか。千尋は一気に睡魔に襲われたらしい。

 ハルは千尋の携帯を拾い上げ、自分のベッドで無防備に寝ている千尋に目をやる。男の自分でも惚れ惚れするくらい、本当に奇麗なヤツだ。真っ白いブランケットにくるまれている千尋は、まるで天使が横たわって羽を休めているように見える。あるいは、ブグローの描いたキューピッドがもう少し大人になったら、こんな感じになるんじゃないか。

 だけど天使にしては、その運命はあまりに苛酷じゃないか。なんとか彼を救ってやりたい。

 ハルは千尋の携帯を鞄に戻した。それからデスクの上にあったパソコンをベッドの脇に持っていって立ち上げた。


 シャッ。

 カーテンを引く音がして、目の前が明るくなった。

「ん……」

 千尋が眩しそうに緑の目を細める。ベッド脇の出窓にハルが座り、朝の光を浴びながら、涼しい顔で制服のネクタイを締めているのが見えた。

「あれ……?」

 いつもと違う景色。ハルの部屋だと気づき、昨日のことを思い出してみる。駅前でハルに会い、誘われてここに来て、ヘネシーを飲んで……。断片的に記憶が蘇る。と同時に頭がガンガンする……。

「目が覚めたか?」

「覚めてない」

 千尋は布団に潜り込んだ。

「なーに言ってんだよ。そろそろ用意しないと、学校遅刻するぜ」

「頭痛ぇ。今日は休む」

「だめだめ。おばさんに言われたろ、ちゃんと学校行けって」

 ハルは出窓から床に飛び降り、千尋のブランケットをめくり上げた。

「ほら、シャワー浴びて酒抜いてこいよ」

 ハルに急き立てられて、しかたなくベッドから降りた。

 ベッドルームに隣接するバスルームへと向かいながら、千尋はゆうべのハルとの会話を思い出そうとしていた。佳菜子と別れたことを訊かれ、正直に話した。なぜ別れなければならないのか、ハルは理解できないようだったから、その理由を話した……はずだ。けど、なにをどんな風に話したのか、はっきり思い出せない。ベッドに入ってからもハルはときどき何か言ってたけど、中身はまったく覚えてない。変なことを口にしなかっただろうか。ハルは良識あるやつだから大丈夫だと思うけど……。


 バスルームから部屋に戻ると、中庭が見える窓際のテーブルに二人分の朝食が用意してあった。

「ちゃんと食ってけよ。夕べ食い損ねてんだから」

 既に医者のような口ぶりで、先に座っているハルが向かいに座るよう促す。

「サンクス」

 ハルの気遣いに感謝して、絞り立てのオレンジジュースをひと口飲む。おいしい。身体に染み込むようだ。

 ハルがイギリスパンにバターを塗る手を止めて、千尋を見た。

「親父さんのこと……」

 千尋は驚いて顔を上げる。何か……マズいことを話しただろうか……?

「少し調べてみる。大丈夫、悪いようにはならないと思うから」

「え?」

 不安そうな顔をする千尋に、ハルは軽くウインクして笑った。

「まあ、任せとけって」

読んで下さりありがとうございます。

感想、メッセージなど、ひとことでもいただけると嬉しいです。

これからもよろしくお願いします。

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