第七章 出生の秘密
二学期が始まった。
始業式に続いてホームルームが終わると、生徒たちは一斉に下校する。いつもなら佳菜子と一緒に下校する千尋だが、今日はどうしようかと迷った。
連絡がないということは、佳菜子は佳菜子なりに考えているんだろう。今は会わないほうがいいのかもしれない。
彼女を待たずに、エントランス・ホールから外に出た。学校から一人で帰るのは何か月ぶりだろう。なんだか周囲の風景から取り残されたような気分になる。
門を出て、彼は驚いた。佳菜子がそこにいたのだ。千尋は立ち止まった。彼女は千尋を見つけると、ゆっくりと近付いてきた。
「千尋……」
千尋は黙って彼女の言葉を待った。
「この間は、ごめん。あたし、わがままだった。もうあんなこと言わないから、今までと変わらずに付き合ってくれる?」
恥ずかしそうにそう言うと、彼女はおずおずと目を上げて千尋を見た。まっすぐな視線は、いつもの佳菜子のままだ。千尋は小さく微笑んだ。嬉しかった。だが、彼には解決しないといけない問題がある。
「俺……、佳菜子に話しておかなきゃいけないことがある」
「えっ? なに?」
千尋はゆっくりと目を上げ、何かを考えているようだった。ややして、彼は言った。
「とても、大事な話なんだ。誰かに聞かれると困る。佳菜子の家に行ってもいいかな」
佳菜子は首を傾げた。今さら大事な話って、なんだろう?
「いいよ」
千尋が佳菜子の家に行くのは三回目だ。初めて家に上がった時に母親である香月由加利に紹介されているので、遠慮する必要はない。
「あら、千尋くん、久しぶりね。ゆっくりしていってちょうだい。後でお茶を持っていかせるわね」
由加利はにっこりと笑ってそう言った。
三階にある佳菜子の部屋は、手前に三十畳程度のリビング、その奥に書斎とベッドルームがある。
二人はリビングに入ると、並んでソファに座った。
「この間はごめんね。あたし、自分のことしか考えてなくて。アマンドの廊下で偶然千尋と一ノ瀬さんが一緒にいるとこ見たから、動揺しちゃって……」
やっばり……彼女はあのときの出来事を見ていたんだ。
「誤解すんなよ。あれは向こうから絡んできたんだからな。一ノ瀬には俺の気持ちをちゃんと伝えたから、もう絡んでくることはないんじゃないかな」
「そっか……」
佳菜子は少し恥ずかしそうに下を向いた。
ノックの音がして、廊下から声が聞こえた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
「失礼します」
使用人が入ってきて、紅茶とケーキを置いていった。その足音が消えるのを確認し、千尋は紅茶にミルクを入れながら話し始めた。
「佳菜子。実は俺、これから佳菜子とどう付き合っていったらいいのか、悩んでる」
「えっ……?」
「もっと早く話さなきゃいけなかったんだ。でも、佳菜子といると楽しくて、なかなか切り出せなかった。ごめん」
「なんのこと?」
「俺自身のこと……ちゃんと話すよ。でも、このことは誰にも言わないで欲しい。約束してくれる?」
「千尋が言わないでって言うなら、もちろん誰にも言わないよ」
事の重大さを感じて、佳菜子は小さく身構える。
「佳菜子……。ごめんな……」
言って、千尋はゆっくりと話し始めた。
「俺の母さんがイギリス人なの、知ってるよな」
「うん。おばさま、すっごく綺麗よね。千尋によく似てる」
「父さんと母さんは、父さんがオックスフォードに留学してたときにたまたま出席したパーティーで知り合ったんだ。二人は意気投合して、それから何度かデートするようになった。母さんは伯爵家の令嬢で、厳格な家庭に育った。祖父母を始め、誰もが日本人と付き合うことに反対した。父さんのほうも同様だった。でも二人は諦められなかったんだ。父さんは留学期間を終えて日本に帰ったんだけど、時間を作ってイギリスに行き、その後二人は結ばれた。その日家に帰ってから、母さんは祖父母に結婚を認めて欲しいと頼み込んだ。けど、答えは同じだった。祖父母はもう母さんに婚約者を決めてたんだ。頭から反対され、母さんは絶望して家を飛び出した」
佳菜子は辛そうな顔をして千尋の話を聞いていた。
「おばさま、かわいそう……。おじさまは、おばさまのご両親にお願いに見えなかったの?」
「門前払いさ。顔を見るのも嫌だってとこだろうな。伯爵家のプライドや、東洋人に対する差別意識もあったのかもしれない。昔っから、イギリス人は日本人に対してあまりいい印象をもってないしね」
千尋は紅茶を一口飲み、話を続けた。
「その夜、母さんは行くあてもなく街を歩いた。普段は運転手付きの車で出掛けるお嬢様だから、自分がどこを歩いているか、よくわからなかったらしい。ダウンタウンの裏町では夜遅くなると人通りがほとんどない。加えて雨だ。そんな路地裏で、母さんは突然見知らぬ男に背後から口を塞がれ、誰もいない倉庫のようなところに連れ込まれた」
「えっ?」
千尋は苦し気な目をして、口元で自嘲的に笑う。
「レイプされたんだよ」
思ってもいない言葉が飛び出し、佳菜子は驚いてどう反応していいかわからなかった。
「俺は今『見知らぬ男』って言ったけど、本当は、見知らぬ男なのかどうかもわからない。外は雨が降ってて暗いし、連れ込まれたところも灯りがないし、極度の恐怖で相手が男だという以外は何もわからなかったらしい。前後の記憶もところどころ飛んでてよく覚えてないようだ」
「ひどい……」
佳菜子の顔が暗くなる。
「まさか自分にそんなことが起こるとは考えてもいなかったろうな。母さんはそれから家に篭るようになったんだ。出掛けるのが怖かったんだろう。精神を患ってもいたようだ。その後、母さんは自分が妊娠したことを知った。それが俺だ」
千尋の母であるシェリル・アン・マクミリアンと父の一条千歳が正式に結婚したのは、千尋が青蘭学園中等部に編入したころだということは聞かされていた。けど、そんないきさつがあったとは、佳菜子は思いもしなかった。
「祖父母は激怒した。大学を休学させ、周囲への体裁から母さんを外に出すこともなくなり、そんな中で俺は生まれた。俺たちはマクミリアン家の恥とされ、俺は隠すように育てられた。学校へは行かせてもらえず、家に家庭教師がきた。マクミリアンの家は、祖父母、伯父、伯母、従兄弟たち、誰もが母さんと俺に冷たかった」
この明るくて優しい千尋は、そんな風に育ってきたんだ……。今まで想像もしていなかった千尋の過去を知って、佳菜子は胸が痛くなる思いだった。
「同様に父さんも、一条の家で辛い思いをしていたらしい。一条の祖父母が父さんに何度も見合いの話を持ってきて、脅迫まがいに結婚しろと迫る。でも父さんは、頑としてそれを受け入れなかった。母さんを愛していたからだ。
俺が十二歳のとき一条の祖父母が亡くなり、父さんが跡を継いだ。一条の家では両親の結婚に表立って反対する者はいなくなり、父さんはイギリスから母さんと俺を呼び寄せ、両親は正式に結婚することができた」
千尋は、冷めた紅茶を一口飲んだ。沈黙が流れる。
「辛い思いをして生きてきたんだね……」
佳菜子がぽつんと言った。
辛い思い……。そうだろうか……。千尋は首を振る。
「俺は、辛いなんて思ったことはないよ。俺と母さんはマクミリアンの別邸で生活してた。別邸には俺たちのほかに、身の回りの世話をしてくれるメアリーっていう若いメイドがひとりいるだけだった。メアリーはとても優しかったし、母さんも俺に精一杯の愛情を注いでくれた。それに、俺にはジョニーっていう伯父さんがいてね、母さんのすぐ上の兄さんなんだけど、彼が俺たちの唯一の見方だった。祖父母の目を盗んでときどき遊びに来てくれたよ」
今でも思い出す。こっそりとやってきて、リビングの扉からひょいとおどけた顔を出すジョニーの姿。喜んで彼に飛びつくと「元気にしてたか、ロビン?」と抱き上げ、頬にキスしてくれた。千尋は兄のようにも父のようにも彼を慕っていた。
彼と過ごしたいろいろな時間を思い出したのだろう。千尋はしばらく過去にトリップしたように穏やかな顔を見せた。
「俺が音楽に興味をもつきっかけになったのがジョニーなんだ。いつも流行りの歌とか古いビートルズやフェイセズなんかのCDを持って来て、一緒に聴いては『カッコいいだろ?』って。彼からもらったCDを何度も何度も聴いた。俺の七歳のバースデーにはギターをプレゼントしてくれた。俺はジョニーが大好きだった。彼と俺を繋ぐいちばんのものが音楽だったんだ。だから俺は音楽にのめり込んだ」
それから目を閉じ、夢から覚めたように鋭い眼差しで佳菜子を見据える。
「ここまでは、前置きだ」
「え?」
佳菜子は、今話してくれたことが、千尋が話したいと言っていたことなんだと思っていた。キョトンと千尋を見る佳菜子を、千尋はまっすぐ見つめ返す。
「俺は、一条千歳の子とされてる。父さんも、マクミリアンの家の者も、一条の家の者も、誰も疑ってない。母さんが、レイプされたことを誰にも話してないからだ。日本にくる数日前、母さんは俺にだけそのことを打ち明けた。俺の父親は、本当は誰なのかわからない。もしかしたら本当に一条の父かもしれないし、母さんをレイプした男かもしれない、って」
一条千歳は千尋の父親じゃないかもしれない……? 話の重大さに、佳菜子は声が出なかった。
「母さんは、このことを話さなければ、話さなければと思いながら、怖くてずっと誰にも言い出せなかったって言ってた。母さんの気持ちを考えると、俺は母さんを責めることができない。俺だって怖くて、今まで佳菜子に話せなかったくらいだ。それに母さんは長い間精神を患うほど苦しんで、悩んでたからね。佳菜子も知ってる通り、一条は日本で有数の名家だ。もし何かの形で俺が父さんの子でないことが知れたら、俺たちはどうなるかわからない」
「どうなるか、って?」
「父さんの考えひとつだけど、最悪、一条家から追い出されるかもしれないな。こんなことが他の人に知れたら、父さんに大恥かかせるのは間違いないし。だからと言って、マクミリアンの家に帰ることもできない。俺たちはもうマクミリアンから出た人間だ。いくら母さんの実家だと言っても、あの家が再び俺たちを受け入れるとは思えない」
「そんな……」
「母さんが俺に打ち明けたのは、そういう事態も起こりうるから、俺に覚悟させるためだ」
佳菜子の声が小さく震える。
「でも、本当におじさまの子供かもしれないんでしょ?」
「俺も、その希望は持ってたよ」
千尋は目を上げて、遠くを見るように、わずかに緑の目を細めた。
「父さんが俺の本当の父親であることを願ってたから、それを確かめたかった。俺は母さんからこの話を聞いた二日後、一人で主治医の家を訪れ、内密に俺の血液型の検査を依頼したんだ。母さんはAB型で、父さんはO型。AB型とO型の両親から生まれる子供は、A型かB型のいずれかだ」
「千尋は!? 千尋はどっちだったのっ!?」
佳菜子は身を乗り出して訊いた。千尋は俯いて、呻くように答えた。
「俺は……AB型だった」
千尋の本当の父親の血液型はA型、B型、AB型のいずれかで、O型の一条千歳ではあり得ない、ということになる。
「うそ……」
佳菜子のその言葉を最後に、長い沈黙が流れた。
千尋は長い間宙を見つめていた。それから彼は呟くように話を続けた。
「俺の血液型は、母さんも知らない。さすがに言えなかったよ。この話をしたのは、佳菜子、おまえだけだ。なぜこんな話をしたか、わかる?」
千尋は寂しげな目で佳菜子を見た。佳菜子はゆっくりと首を横に振った。その様子を、千尋は目に焼きつけるようにじっと見る。握った手を静かに胸の前へ動かすと、彼はそこに目を落としながら言った。
「俺の身体に流れてる血の半分は、どこの誰のものかわからない。俺はその事実を認めたとき、決心したんだ。生涯結婚はしない、子供も作らない、って」
佳菜子は、心臓を素手で握りつぶされたような気がした。
なんて残酷な言葉なんだろう。結婚しない? 子供も作らない? 自分と同じ十七歳、高校生の千尋がそんな決心をしてるなんて……。人は誰かと愛し合い、共に幸せに暮らすために生きていくんじゃないの? じゃあ彼は、何のために生きていくの? 何を楽しみにして生きていくの……? あんまりだ……。
千尋は再び佳菜子に向かって目を上げた。その瞳は悲しそうで、切なそうで、でも佳菜子には愛に溢れているように感じた。
「佳菜子。だから、俺たちはこれで終わりにしよう。もっと早く言うべきだったな。……っていうより、最初から付き合うべきじゃなかったんだ。初めて会ったあの日、佳菜子が可愛かったのと、俺の音楽を気に入ってくれたことが嬉しくて、付き合うのをOKしてしまった。でもそれは間違いだった。結果的に佳菜子の気持ちを弄ぶことになった……。ごめんな。もう佳菜子は自由だよ。こんな、どこの馬の骨かわからない俺より、もっといい男を見つけて幸せになってくれることを願って……」
瞬間、佳菜子の掌が千尋の頬に飛んだ。パンと大きな音がして千尋の長いブロンドが舞い、彼は驚いて頬に手をやった。
「そんなこと、勝手に決めないでよ!」
佳菜子が千尋を睨みつけるように見据える。
「それは、千尋の本心なの? 本当に終わりにしたいって思ってるの? うそでしょ? この前、あたしのこと、一番大切だって言ってくれたじゃない。好きだって言ってくれたのはうそだったの!?」
「うそじゃない! 俺は佳菜子が好きだよ。ほんとに大切に思ってる。だから……、だから別れたほうがいいって結論出したんだ」
「そんなの、勝手だよ! ひどいよ! あたしの気持ちはどうなるの!? あたしはいや。千尋が好きだって思ってくれてるのに、なんで別れなきゃいけないの? わかんない……。わかんないよ……」
佳菜子の瞳から次々と涙が伝う。自分の想いをどう伝えたらいいんだろう……。
「あたしが……キスしてなんてわがまま言ったから? それが千尋にとって迷惑だった? なら……もう絶対言わない。だから……終わりなんて言わないで……」
千尋は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「確かに……あの日の出来事は、俺がこういう結論を出した原因のひとつになった。佳菜子があんなに俺を求めているのに、気づいてやれなかったことを悔やんだ。そして考えた。佳菜子とこのまま付き合い続けて、俺は佳菜子にキスしてやったり、佳菜子を抱いてやったりできるのか、って。すごく考えたよ。でも、できない。俺には佳菜子を抱いてやることはできない」
「どうして? あたしは構わないよ。千尋がどこの誰だって、誰の子だって、千尋は千尋だもん」
「佳菜子。問題は、それだけで収まらないんだよ。なぜ俺が結婚しないって決めたと思う?」
「……」
「母さんは、彼女をレイプしたのがどういう男なのか全くわからないと言った。ロンドンでは、ニューヨークほどじゃないけど、いろんな人種が生活してる。白人だけじゃない。中東やアジアから来る者もいるし、黒人だって珍しくない。もしその男が黒人だったら?」
佳菜子はハッとした。今まで気づかなかった事の重大さ。千尋が悩んでいたことは、これだったのか。
「俺の外見とは別に、俺には半分黒人の血が混じってることになる。仮に俺に子供が生まれたとき、その血が表に出る可能性だってある。そんなのは嫌だろ?」
佳菜子は答えることができなかった。
「俺は白人至上主義ってわけじゃない。黒人を蔑視する気もない。いろんな人種があるのは構わないと思う。ただ、俺の周りには黒人はいない。それなのに、生まれた子供が黒い肌をしてたらどう思う?」
千尋は苦しそうに横を向き、呻くように言った。
「俺は……怖いんだよ……。もしそんなことになったら……」
その声は小さく震えていた。
佳菜子は床に目を落として考える。
もし千尋の言うようなことが自分の身に起こったら……? 高校生の佳菜子には、子供を産むということ自体が現実的なこととして考えられない。ただ言えるのは、千尋とずっと一緒にいたいということだけだった。
「あたしは……、あたしは千尋がいてくれたらいいの。何もいらない。千尋がいてくれれば、それだけでいい……」
「佳菜子……」
彼女にここまで言わせて、自分は何をしてやれるだろう。ただいてくれるだけでいい。それは千尋も同じだ。けれど、ただいてくれるだけ——それだけのことが、結果的に彼女を不幸にするかもしれない。千尋が言えることは、望むこととは逆の言葉だけだった。
「別れてくれ」
「いや……。絶対にいや」
こんなに一途に自分を想ってくれるなんて……。愛しくてたまらない。彼女を思い切り抱きしめてやりたい。でも、それはできない。
「ごめん……」
彼は立ち上がり、佳菜子に背を向けてドアのほうへ歩き出した。
「千尋!」
呼ばれて思わず足が止まる。
「あたしは……、あたしからは絶対に別れないから! あたし、ずっと、ずっと待ってるから!」
嬉しいはずなのに、そんな言葉を聞くと、今は苦しい。
——許してくれ……。
ただそれだけを心の中で叫んで、彼はドアを開けて廊下に出た。
「千尋!」
佳菜子の泣き叫ぶような声が聞こえたのと同時にドアを閉めた。
——これで……いいんだ。
ちょっと長い章ですが、読んで下さりありがとうございます。
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