第六章 ファースト・キス
八月も終わりに近付き、夏休み最後のステージを迎えた。
千尋と佳菜子は一緒にアマンドに行き、佳菜子はホールでルシファーのステージを見た。
千尋はいつものようにカッコいい。背が高くスリムなのも、肌の色が白いのも、髪が金色なのも、ファッションセンスがいいのもその理由だ。
加えて彼の声は多彩で、アップテンポのロックンロールなら力強く、バラードなら切なく、高音は透明感のあるファルセットも出せる。そうした豊かな声を使い分けることによって曲の幅が広がり、オーディエンスを飽きさせない。彼のステージはいつもうっとりと見とれてしまう。ルシファーに引き抜かれたのも、トライデント・ミュージックにスカウトされたのも頷ける。
千尋の外見や音楽性に魅力を感じているのは、佳菜子だけではない。アマンドに来ている女の子のほとんどがそうだ。
その日、ステージが終わると、約束したバックステージの廊下で千尋と佳菜子は合流した。
「荷物取ってくる。すぐ来るから待ってて」
そう言って千尋は控室に走った。
佳菜子は言われたとおりに彼を待った。ステージからは、次に演奏するバンドの音が漏れ聞こえる。D-rayという、ヴィジュアル系のバンドだ。三曲、四曲と曲が流れていく。千尋はなかなか来ない。
——何かあったのかな?
心配になって、控室に向かって歩き出した。
千尋はメンバーに挨拶してからギターを肩に掛け、控室を出た。足早に廊下を進むと、壁に背中をもたせかけて立っている女の子の姿を見つけた。腰のあたりまである長い髪。背が高く日本人離れしたスタイルの良さ。小顔で大きな瞳。キュッとしぼられたウエスト、ミニスカートから出た長い足。彼女は身を起こし、まっすぐに千尋を見ると、唇に笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
「千尋くん見ーっけ」
「一ノ瀬……?」
去年の学園祭でコンサートの担当をしていた同級生、一ノ瀬愛美だ。
愛美は隣りに立ち、千尋の腕に自分の両腕を絡めた。
「手ェ放せよ。ここは関係者以外立ち入り禁止だぜ」
絡まれた手をもう片方の手で外しても、愛美は一向に気にしない。
「あたし、一応関係者なのよ」
「え?」
不思議そうな顔をする千尋に、愛美はふふ、と笑った。
「今演奏してるバンド、知ってる?」
千尋は耳を澄まして、漏れ聞こえる音を確かめた。
「D-ray?」
「そう。あたし、ギターのアツシと付き合ってるの。それで千尋くんがここで歌ってること聞いたのよ」
「へぇ……」
アツシは背が高く、髪を赤茶色に染めた、センスのいい男だ。顔を見れば挨拶する程度の仲だけど、人気があるのは知っている。ファッション雑誌のモデルをしているという愛美は、芸能界絡みの人間との交流が多いのだろう。
愛美は千尋の手を握り、甘えた声で言った。
「でも、あたし、やっぱりアツシより千尋くんのほうが好き。ねぇ、あたしと付き合わない?」
「は? あのなぁ……、そういういいかた、アツシに悪いと思わねーの? それに、俺に彼女いんの知ってんだろ?」
「香月さんでしょ。彼女のどこがいいの? あたしのほうがずっと千尋くんを楽しませてあげれると思うけどな。あたし、千尋くんを振り向かせる自信あるのよ。一日だけでもいいからあたしとデートして、ね」
瞳に挑戦的な輝きを浮かべて、愛美は千尋の首に両腕を巻き付けたかと思うと、彼の唇に自分の唇を近付けた。
佳菜子が控室に向かう廊下で二人の姿を見たのは、その瞬間だった。一瞬信じられなかった。廊下の向こう、遠く視線の先にいるのは、間違いなく千尋と一ノ瀬愛美だ。
二人の唇が近付くそのシルエットを、佳菜子は見ていられなかった。無意識に一歩、二歩後ずさりして身を翻す。
——嘘だ、嘘だ!! 千尋が……一ノ瀬さんと……。あたしは千尋とキスしたことないのに、手だって繋いでくれないのに、なぜ一ノ瀬さんと……? 千尋はもしかしたら、もうあたしのことなんて何とも思ってなくて、一ノ瀬さんのことが好きなの……?
混乱する頭を抱えて化粧室に駆け込んだ。
「やめろよ」
愛美の唇が触れる寸前、千尋は横を向いた。
愛美は膨れっ面をして言った。
「もうっ、女の子に恥かかせないでよ。せっかくあたしがキスしてあげようとしたのに」
「なんで俺がおまえとキスしなきゃなんねんだよ?」
「愛情表現じゃない。千尋くんもずっと海外で生活してたんだから、特別なことじゃないでしょ」
「押しつけの愛情表現なんてごめんだね。価値観は人それぞれだってこと知っといたほうがいいぜ」
千尋の緑の目が愛美を非難するように強く光る。
「一ノ瀬、この際だからはっきり言っとく。一ノ瀬は男から見ると魅力的かもしれない。だけど、たとえ世界中の男が一ノ瀬に魅了されても、俺は佳菜子以外と付き合う気はない。そのつもりでいてくれ」
プライドをざっくりと切り裂かれた愛美は千尋を睨み上げた。
「それは、あたしより香月さんのほうが魅力があるっていうこと? あたしのほうがずっと千尋くんに似合うのに。香月さんよりずっと千尋くんのこと想ってるのに……! 青蘭高校に入ってから、ずっと千尋くんのことが好きだったんだから!」
何を言われてもこの気持ちは変わらない。千尋は目を背け、他の女の子たちに何度も告げた台詞を冷たく呟く。
「……気持ちは嬉しいけど、応えてやることはできない」
愛美は震える拳を握りしめた。
「なぜ? あたしの何が不満なの? どこが香月さんに劣ってるっていうの!?」
「そんなこと言ってる限り、俺がどんなにその質問に答えたってわかんないだろうな」
次の瞬間、愛美の掌が千尋の頬を打った。
パシン!
「馬鹿にしないでよ!」
頬を打たれたその姿勢のまま、千尋は目だけを動かし、蔑むような視線で愛美を見た。
「今度こんなことしたら、そのときは絶交だぜ」
愛美は唇を噛んで千尋を睨み、廊下を走っていった。
化粧室で佳菜子は涙がおさまるのを待って、顔を洗い、口紅をひきなおした。そのとき、バッグの中で携帯が鳴った。千尋からだった。深呼吸して、通話ボタンを押す。
「はい」
「俺、廊下で待っててって言わなかったっけ? 今、どこにいんの?」
佳菜子は慌てて明るい声を作る。
「ごめん、外に出る前にメイク直しとこうと思って。すぐ行く」
バックステージの廊下に戻ると、千尋が壁に背を預けて立っていた。いつもの千尋の顔。やっぱり素敵だ。整った顔立ちも、金色の髪も、大きく澄んだ緑の瞳も。半分日本人の血が入ってるはずなのに、完璧な西洋人の顔をしてる。それに加えて、彼は優しいのだ。手を繋いでくれなくたって……。
——どうか、あたしから逃げていかないで……!
佳菜子の心が叫ぶ。
千尋は、何事もなかったかのように言った。
「なーにしてたんだよ。遅くなるとおまえん家の人が心配すっだろ」
「ん、ごめん……」
平静を装ってはいるけど、声が震える。動作がぎこちなくなる。佳菜子はどうしていいかわからなかった。
いつものように千尋の後について外に出る。
「あー、今日も一日終わったな。ここんとこ、すげー一日が早いや。受験勉強なんて全然してないし」
千尋が大きく伸びをする。
「佳菜子は受験勉強進んでる?」
佳菜子の頭は、さっき見た一ノ瀬愛美のことでいっぱいだった。千尋の問い掛けに、ワンテンポ返事が遅れる。
「あ、ううん。してない」
「そっか。まぁ、青蘭だったら問題ないだろうけどな。学科決めた?」
「ん……。まだはっきりは……」
端切れの悪い佳菜子の返事に千尋は気づいた。
「どした? 元気ないな。疲れた?」
千尋が、優しげな緑の瞳で佳菜子の顔を見下ろす。その穏やかな瞳を見ると、佳菜子は苦しくなる。
「ううん、なんでもない」
慌てて目を逸らす。
なんでもないことはないだろう。でも、彼女がそう言うなら、問い詰める必要はない。
電車に乗って、いつものように佳菜子の家に向かう。
佳菜子の祖父は輸入雑貨などを扱う会社を経営していて、マイセンやウエッジウッドといった一流ブランドの食器に関しては佳菜子も詳しい。香月家は家も大きく、使用人も多い。一条ほどの名家ではないが、まったく釣り合わない家柄というわけではない。佳菜子が千尋に嫁ぐことになれば、香月家としては玉の輿だ。そういう意味では、佳菜子の家族は千尋との付き合いに反対はしなかった。
のんびり歩きながら、佳菜子の家の大きな門の前に着いた。暗くなった空には大きな満月がかかり、辺りに植えられた背の高い木々が風に揺れて小さく音をたてる。
「じゃな。おやすみ」
千尋が言って踵を返す。
「千尋」
呼び止められて、千尋は振り向く。佳菜子の緊張した顔が目に映った。
「なに?」
優しげな声で応えて、千尋が佳菜子に向き合う。佳菜子は震える声を搾り出した。
「千尋……、キスして」
一瞬驚いた顔をして、それから千尋はフッと笑った。
「なぁに言ってんだよ。おまえ、やっぱ疲れてんな。早く寝ろよ」
言って佳菜子の髪をくしゃっと撫でた。佳菜子はその手を掴む。
「千尋はあたしのこと嫌いになったの? なら、そう言って」
いつもと違う佳菜子の様子に、千尋は戸惑う。一体、佳菜子に何があったのだろう。
「どうした? 俺は佳菜子が好きだから付き合ってるよ。それじゃダメなのか?」
「だって……」
佳菜子の目に涙が浮かぶ。
「友だちはみんな、付き合って一、二か月もしたらキスしてる。あたしたち、付き合い始めて、もう三年半も経つんだよ。千尋はキスもしてくれないし、手だって繋いでくれない……。みんな、付き合って半年もしたら、それ以上のことしてるのに……」
佳菜子の言うことがその通りなのは千尋もクラスメイトたちの噂話などで知っている。だから何も言えない。
「あたしに魅力がなくて、手も出す気になれないなら……、あたしのこと何とも思ってないなら……、そう言ってくれて構わないよ。千尋の邪魔にはなりたくない……。だから……」
後半は涙声で聞き取りにくくなる。佳菜子の目から涙がひとすじこぼれた。
「佳菜子……。なんでそんなこと言うんだよ? 俺は、佳菜子と付き合いたいから付き合ってるよ」
「なら、どうして何もしてくれないの? ひどいよ、あたし、こんなに千尋のこと好きなのに……。千尋の声を聞いただけでドキドキして、千尋の顔を見ると嬉しくて……、いつもいつも千尋のこと考えてて……。ずるいよ、あたしばっかり千尋のこと好きで……」
「佳菜子……」
佳菜子は俯いて泣きじゃくった。彼女の気持ちは、千尋にもよくわかる。千尋だって佳菜子が好きで、いつも彼女のことを考えてる。気持ちは同じだ。
「千尋は……あたしのこと、女として見てないんでしょ? あたしより、一ノ瀬さんのほうが好きなんでしょ? 彼女にはキスできるのに、あたしには……」
「違う!」
思わず大声が出る。彼女は、控室前の廊下での、あの出来事を見ていたのか。
佳菜子が目を上げて千尋を見ると、彼の顔は、今まで見たことがないほど真剣だった。
「一ノ瀬とキスなんかしてない。佳菜子は……、佳菜子は俺の一番大切な女の子だよ。だから他の子とキスなんかしない」
「うそ……」
「うそじゃない。ほんとだ」
千尋の瞳が街灯の光を浴びてキラリと輝く。佳菜子はその緑の瞳を見つめ、彼の心の奥を探ろうとした。彼の言葉が本当なら、自分を拒む理由はない筈だ。
「ほんとなら……、キスして」
千尋の顔が歪む。彼には、佳菜子に手を出せない理由があった。佳菜子が望むなら、佳菜子が喜ぶなら、それを叶えてやりたい。だけど……。
彼は瞬時に自分の頭と心をフル活動させて考えた。
自分が今まで佳菜子に手を出さずに我慢してきたのと同じように、佳菜子も我慢してきたのだろう。今日は手を繋いでくれるだろうか、明日はキスしてくれるだろうか、と期待しながら。それは、付き合っていると言うなら当たり前に抱く気持ちだ。自分をコントロールすることしか頭になくて、佳菜子の寂しい気持ちに気づいてやれなかった。今までそのことについて何も言わず、笑顔で隣にいてくれた佳菜子に可哀想なことをした。
そう思った瞬間、今まで感じたことのない佳菜子への愛しさが湧き上がった。いつもの彼女の笑顔を見たい。こんなにも自分のことを好きでいてくれる彼女の望みを受け入れてやりたい……。
千尋はコンクリートの壁に片手をつき、もう片手を佳菜子の頬に触れ、彼女の顔に自分の顔を近付けた。唇が佳菜子の柔らかな唇に触れる。愛しい……。
次の瞬間、千尋は無意識に自分の心に強くブレーキを掛け、唇を離した。
「願いは叶えたぜ。だけど、これ以上のことはしてやれない。望むんなら他の男を探すんだな」
言って、彼は佳菜子に背を向けた。
それから二日間、佳菜子からの連絡はなかった。千尋もあえて彼女にコンタクトはとらなかった。
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