幸福の重さ
ガシャン!
物が割れた音に敏感に反応してしまうのは、侍女の職業柄だろうか。
モリーは、手にしていたトレーを近くの棚の上に置いて、廊下の先に走り出した。
街に出ていても、似たような音を聞くとつい、そちらを振り向いていたりする。
今の音は明らかに、居間の方で何かが割れた音だった。
「お嬢様!ぼっちゃま!お怪我はございませんか!」
急いで居間に飛び込んでみると、家族用に設られた簡素な、けれど居心地のいい居間の中心で、黒髪の少女と、茶色の髪の少年が、途方に暮れたように床に蹲っているのが見えた。
「モリー……ごめんなさい」
怪我でもしたのかと、悪い想像をしながら駆け寄るモリーに、姉である少女が指差した先には。
「お母様の、たいせつな壺が……」
絨毯に広がる黒い染みと、一面に投げ出された艶やかな白百合。
そして、無惨に割れた、淡い緑青色の壺があった。
子供達の身体のどこにも傷がないことを、念入りに確認しながら話を聞くと、どうやらこの室内で、先日父親から贈られたボールを投げ合っていたらしい。
粉々になった破片を眺めながら、子供達に大事がなくてよかったと、ひとまずモリーは安堵の息を吐いた。
「どうしようモリー、お母様の、お母様の壺が」
幼い少女の茶色の目に浮かぶ涙は、今にも零れ落ちそうだった。
いつもはすぐに泣き出す弟君も、青い目に悲愴な色を浮かべて、姉のドレスの裾を握りしめている。
「大丈夫ですよ、お二方。ちゃんと謝れば、奥様は許してくださいますよ」
「でもこの壺、お母様が結婚する前から、大事にしていたものでしょう?」
幼子達の肩を抱きながら、少女の言葉にモリーは目を瞬かせる。
遠い昔、自分の主人が、この少女よりも少しばかり年上の令嬢であった頃。
ひょんなことから手に入れた、この壺の来歴を知っているのは、主人夫婦を除けば、あの頃も今もモリーだけだった。
(旦那様との、出会いの切っ掛けには違いないでしょうけれど)
けれど、主人であるアーシェは恐らく、壺が割れたことを嘆いたりはしないだろう。
割れた破片に残る黄ばんだ色は、取りきれなかった内側の汚れだろうか。
見た目には、欠けも傷みもなかったが、それだけの年月を重ねてきた証だった。
(もう十年以上経つかしら……思えば、随分長く使い続けたものだわ)
近づいてくるメイドたちの足音を聞きながら、モリーはそっと、今やただの破片となった壺を見つめる。
この壺に纏わる、個人的な苦い記憶を噛み締めるように。
ちょっと、痛い目に遭うのもいいだろうと思ったのだ。
「モリー本当にありがとう。貴女のお陰よ」
そう言ってこちらの手をぎゅっと握る少女は、ここしばらくの鬱々とした表情が嘘のように、晴れやかな笑顔を浮かべている。
このリルハイン子爵家で、もう何年も仕えている末娘のアーシェに、モリーは内心の居心地の悪さを隠して、いつものように微笑みかけた。
「憂いが晴れたようでよかったです、お嬢様」
一週間ほど前の事だった。
夕食後、自室に戻ったアーシェの、そのいつになく思い詰めた様子に、何事かと声を掛けた。
観念した顔でアーシェが、衣装部屋の隙間から取り出して見せたのは、どこかぼんやりとした印象の、冴えない緑青色の壺だった。
聞けばその日の午後、婚約者に婚約を破棄された帰り道、路上で得体の知れぬ商人から、売りつけられてしまったのだと言う。
モリーは、しょげきった主人を叱咤して、子爵家の馴染みの商人に繋ぎをつけると、よくよく相談するようにと言い含めて、ひっそりと少女を送り出した。
けれど、本当は知っていたのだ。
王都では、辻売りは御法度である。
然るべき先にアーシェが届け出れば、そんな契約、簡単に無効になるだろうということを。
モリーの生家は、没落した男爵家だった。
手掛けていた事業が回らなくなり、爵位を返上し、家族がバラバラになったのは、もう何年も前のことだった。
幸い、モリーは運に恵まれていた。
得意先の一つだったリルハイン子爵家で、侍女見習いとして雇ってもらえたのだから。
リルハイン家では、実直な夫妻の人柄を反映してか、使用人達も皆、穏やかで真面目な者達ばかりだった。
不慣れなモリーにも、理不尽に声を荒げるような者は一人としていなかった。
モリーのように、様々な事情から貴族家で働く侍女達が、互いに拘う機会はあまりない。
それでも、茶会や夜会で用意された使用人の控えの間で、顔を合わせることが少なくはなかった。
どんなによく躾けられた侍女であっても、多感な年頃の少女たちである。
上級使用人が場を離れた隙に、立場の近しい者同士、口が軽くなるのはままあることだった。
『うちのお嬢様、気に入らないことがあると臍を曲げるのよ。そうなったら最後、着るものも食べるものも、全部拒否!それも使用人にだけ文句を言うのよ。やんなっちゃう』
『うちなんか癇癪を起こすと物が飛んでくるわよ。この間、鋏を投げられた時には、流石に肝が冷えたわ。直接じゃないけど、割れたお皿で怪我をした侍女だっているのよ』
美しい所作で茶会を囲んでいる令嬢たちの、知られざる姿に憤ったり嘆いたりして見せながら、モリーは、自分が側付きとなった少女を思い浮かべていた。
子爵令嬢であるアーシェは、取り立てて目立つところのない、いたって普通の令嬢だった。
容姿も、勉強も、さほど秀でた能力もなく、打ち込む趣味や、華やかな付き合いも持っていない。
それを家族も本人も分かっていて、けれど嘆くようなこともなく、そんなものだと納得している様子だった。
時折、姿見の前で、『私って平凡よね』と溢すことはあったけれど。
そんなアーシェに、モリーは一度として理不尽な目に遭わされたことはない。
物を投げられたこともなければ、当てつけに怒鳴られたこともない。
リルハイン家では、待遇や給金こそ、王宮の侍女たちのようにはいかないが、背丈の成長に合わせて侍女服を仕立て直してもらえたし、祝祭日には、屋敷中の者に、特別な料理と菓子が振る舞われるのが慣例だった。
そういう色んなことが。
他家に比べても、十分に恵まれた、有難いことであるか。
モリーは、ずっと分かっているつもりだった。
けれど、そんな慎ましく穏やかなリルハイン家の日常が。
家族が屋敷が、側にあることが当たり前で、自分が“平凡”だと思っているアーシェが。
モリーにはずっと、腹立たしかったのだった。
だから、ほんのちょっと、思い知ればいいと思ったのだ。
アーシェは決して平凡などではなく、どれだけ恵まれているのかということを。
ちょっとばかり騙されて、変な壺をつかまされるくらいのこと。
婚約は失ったかもしれないが、家族も屋敷も、沢山のものがまだ、その手には残っているだろうと。
(……でも)
「先払いしたお金もね、少し時間はかかるかもしれないけど、返ってきそうなの。契約書があったことで、逆に、関わりが証明できるからって」
緊張が解けたのだろう、いつになく饒舌に、アーシェが言葉を紡いでいる。
その目元に、涙の跡があった。
目元を赤く腫らしたままの茶色の目が、モリーを真っ直ぐに見つめて言う。
「本当に、モリーのお陰よ。面談の手配も、馬車も、本当にありがとう」
(私……何をしているのかしら)
こんな、まだ大人とも言えないような少女に。
男爵家の事業が傾き始め、仕入れ先からも碌に相手にされなくなった頃。
それでもモリーの父は、長年の得意先に、値段を釣り上げたり、粗悪品を売りつけるようなことはしなかった。
真面目に生きている人達が割を食うような、そんな真似は最後までしなかった。
(それで、全て失って……恨んだことが無いわけではないけれど)
高潔さで人は生きてはいけない。
けれど、爵位を失っても、父と母が守ってくれたものまで、モリーが自分で踏み躙ってはいけなかった。
目の前の、善良な少女にこの苛立ちをぶつけたところで。
ただ自分を、惨めにするだけだった。
「……お嬢様がご自分で、解決されたんですよ。緊張されたでしょう。着いていけなくて申し訳ありません」
「いいえ、自分が軽率だったと反省したわ。それにね、婚約破棄も案外、堪えていたみたい」
それでね。
言いながらアーシェが、足元から、布に包まれた包みを引き寄せる。
「これ、引き取ってきたの。処分してくれるって言ってくださったんだけど……戒めとして」
恨み事を言うでもなく、感情をぶつけることもなく、ただ、自分自身の後悔を引き受けるアーシェが、モリーには眩しかった。
もう二度と、誰かに、自分の鬱屈をぶつけるような真似はすまいと。
アーシェの自室に飾られた、青緑色の壺を視界に入れる度に。
それはモリーにとっても、戒めであったのだった。
「……そういった経緯で、お嬢様達が、奥様の為にと、新しい壺をお求めになりたいと仰られています」
「ありがとうモリー。誰にも怪我がないのだから、良かったわ」
夕食用のドレスを脱いだアーシェに、夜のお茶を淹れながら、モリーは今日の騒動を報告していた。
化粧を落としたアーシェの顔は、あの壺を摑まされた頃と変わらない、いたって平凡な、さして人目を引くこともない顔立ちのままだ。
けれどその雰囲気は、随分変わったとモリーは思う。
元男爵家の子息であった夫に嫁ぎ、今は平民となっているアーシェだが、その夫であるレイノルドの商人としての手腕はなかなかのものだった。
人を使うのが上手く、独立して店を任されるようになると、優秀な従業員と店を切り回し、今では貴族にも名の通った商会へと成長している。
結婚して早々に、自分には商売を手伝うだけの才覚はないと諦めたアーシェだが、多忙なレイノルドの替わりに家を切り回し、商売が軌道に乗ってきた頃、二人の子を産んだ。
そして最近では、取引先の婦人達へ、礼儀作法を教える茶会などを開いていて、それがなかなか評判なのだった。
「こんなに長く……あの壺と付き合うことになるとは、思ってもみなかったわね」
嫁入りにあたって、あの壺を荷物に入れたのは、アーシェ自身だっただろうか。
それから十年余り、その間に数度、屋敷を移っても、あの壺はずっと荷物の中に残っていた。
何かを思い出したのだろう、アーシェの口元が綻んで、笑みが溢れる。
「ねぇモリー、貴女と一緒に、何度かあの壺の代わりを探したわね」
「ええ、そうでしたね奥様」
思い切って処分しようと、店や市を回って、代わりの壺を探したことが何度かあった。
爽やかな青磁の壺は、冬の居間に飾るには、少しばかり寒々しかった。
その頃の住まいは、まだ今よりもずっと小さくて、住み込みの使用人を置く場所も余裕もなかった。
赤い花の散った壺は、佇まいは美しかったが、飾る花を選ぶのが困りものだった。
小さな庭で、年老いた庭師に習って、アーシェが手ずから育てた花を飾るには、少し大袈裟で。
青い絵付けの壺は、独立した祝いにと、取引先から贈られたものだった。
職人の意匠と、光が透けるような薄い白磁が美しかったが、子供達がまだ幼く、高価すぎて気後れしてしまったのだった。
思えば、モリーの主人のこの十年は、それなりに裕福な貴族家の令嬢が辿るには、些か平凡とは遠い道のりだったかもしれない。
若い二人の生活が軌道に乗るまで、給金は子爵家が持つから、娘に着いていって欲しい、とリルハイン子爵に頼まれたのは、アーシェの婚礼まであと一月に迫った頃だった。
初めは固辞していたアーシェも、平民としての生活に、やはり心細かったのだろう、最後には自ら頭を下げてきた。
「あの壺、意外と重宝だったわね」
付き合いで遅くなるレイノルドを、遅くまで寝ずに待っていた晩もあった。
店への支払いが間に合わないかもしれないと、まんじりともせずに過ごした夜も。
飾る花がない時も、あの壺は、小卓の上に載っていた。
あのぼんやりとした淡い緑青の色は、どんな花を飾っても、決して邪魔をしないのだった。
(平凡、だから良かった)
最近のアーシェには、ふと目を留めてしまうような、不思議な魅力がある。
それは姿形の美しさではなく、自分の人生に満ち足りている者の、幸福の重さのようなものだった。
「奥様、明日旦那様にお願いをして、幾つか見本を届けていただきましょう。お嬢様達が一緒に選べるように」
かつてあの壺を持ち込んだ先で、アーシェを見染めたレイノルドなら、きっと面白がるに違いない。
毎夜会合で遅くなることも多い彼の、その愛妻家ぶりは社交界でも評判だった。
「なんだか結局、あの壺と似たようなものを選んでしまいそうだわ」
そう言うアーシェは、けれど満ち足りた顔で笑っている。
そんな壺を囲む、平凡な日々こそが。
どんなにか幸福なものであるのかを。
自分たちはもう、ちゃんと知っているのだ。




