第3話:笑顔の裏のストリート
夜の海沿いに停められた車内では、キャメルがもらったばかりのラムネを大切そうに、一粒ずつ口に運んでいた。
セブンは、いつも通り黙々とキーボードを叩いているが、その指先の動きは、先ほどよりもどこか柔らかい。
「なあ、ボス。さっきセブンに俺たちの出会いも話そうかって言ってたろ?本当は、俺のドジな初対面をバラして笑いたいだけじゃないのか?」
キャメルが苦笑いしながら、コーラの缶を転がした。
ホープは紅茶のカップを置き、笑った。
「あはは…まさか。君の変装の才能が、あのときすでに天才的だったという真実を話すだけだよ。少し詰めが甘かったのも、そのときから変わらないけれどね」
「やっぱりからかってんじゃん!」
キャメルが声を上げる。
そのやり取りを背中で聞きながら、セブンはタイピングの手を止め、わずかに耳を傾けた。
いつも陽気で、失敗ばかりする大人の男。
彼がどうしてホープの相棒になったのか、セブンは少しだけ興味があった。
ホープは窓の外を見つめながら、昔の記憶の話し始めた。
ホープが、まだ一人で怪盗として活動していた頃のある夜、港湾一帯を支配する冷酷なマフィア「ガルシア・ファミリー」の密輸船に潜入していた。
ガルシアは、裏で武器や違法な薬品を取引し、逆らう者を容赦なく海に沈める極悪人だった。
ホープの目的は、彼らが次の取引に使う予定の、大金が詰まったアタッシュケースを奪うこと。
そして、その資金源を断つことだった。
ホープは持ち前の身軽さで、密輸船の船倉へと忍び込んだ。
だが、目的の保管庫の前にたどり着いたとき、ホープは奇妙な光景を目撃した。
「おい、お前たち。西館の勝手口で不審な物音がした。ここはいい。お前たちで様子を見てこい」
保管庫の前にいた二人の見張り役に、一人の男が鋭い口調で命令を下していた。
その男の顔、体型、仕立ての良いスーツ、あるいは威圧的な雰囲気。
どこからどう見ても、この組織のボスである「ガルシア」そのものだった。
「は、はい!ただちに!」
見張りたちは怯えた表情で、慌てて階段を駆け上がっていった。
ホープは物陰からその様子を見て、眉をひそめた。
なぜなら、本物のガルシアは今、船の最上階にあるVIPルームで幹部たちとワインを飲んでいるはずだからだ。
誰もいなくなると、ボスの姿をしたその男は、突然ふにゃりと緊張を解いた。
「よしよし、大成功だぜ。ボスの顔を作んのは苦労したけど、これで見張りは片付いたな」
声が変わった。
ガルシアの低いダミ声ではなく、若くて少し軽い、陽気な男の声だ。
男は懐から使い古された針金を取り出すと、保管庫の厳重な鍵穴に差し込み、慣れない手つきでガチャガチャと回し始めた。
それが、キャメルだった。
彼はマフィアのボスに変装し、たった一人で組織の金を盗み出そうとしていたのだ。
ホープは物陰から感心していた。
変装の技術自体は完璧だった。
皮膚の質感、髭の生え方、服の着こなしに至るまで、本物とまったく見分けがつかない。
声帯の模写も見事だった。
しかし、怪盗としての技術は、お世辞にもプロとは言えなかった。
キャメルは焦るあまり、針金を鍵穴の中で思いきり曲げてしまい、ポキリと折ってしまったのだ。
「あ、痛っ! 嘘だろ、折れちゃったよ! 予備は、うわ、忘れてきた!」
キャメルは自分の頭を抱えて、その場でうろたえ始めた。
詰めが甘い。
完璧な変装という最高の武器を持ちながら、侵入の道具やプランBを何も用意していないのだ。
そのとき、通路から、無数の重い足音が響いてきた。
「おい、下に侵入者がいるぞ!」
「ボスに変装した生意気な泥棒だ! 捕まえろ!」
先ほどキャメルが騙して追い払った見張りたちが、本物のガルシアに見つかり、騙されたことに気づいて戻ってきたのだ。
キャメルは完全に退路を断たれた。
「待て待て、冗談だろ!? 囲まれるの早すぎだって!」
キャメルは慌てて逃げようとしたが、床に置いてあった自分の工具箱に足を引っ掛け、派手に転んでしまった。
その隙に、十数人の武装したマフィアたちが一斉に襲いかかり、キャメルは床に押さえつけられてしまった。
ドカッ、バキッ、と鈍い音が響く。
キャメルは抵抗する間もなく袋叩きにされ、変装のシリコンマスクが剥ぎ取られた。
中から現れたのは、恐怖に顔を歪ませた、青年の素顔だった。
通路の奥から、本物のガルシアが冷酷な笑みを浮かべて歩いてきた。
「俺の顔を使って泥棒か。いい度胸だ、若造。その生意気な顔ごと、海の底で魚の餌にしてやる」
ガルシアが手下の男に合図を送る。
男は太いロープを取り出し、キャメルの体を椅子に縛り付けた。
足元には、重いコンクリートの塊が結びつけられている。
このまま海に放り込まれれば、確実に命はない。
「いや、ちょっと待て! 命だけは! お金は返すから、っていうかまだ盗んでないし!」
キャメルは必死に叫んだが、マフィアたちに笑い飛ばされるだけだった。
絶体絶命。
誰もが青年の死を確信した、その瞬間だった。
バチンッ!
船倉の照明が一斉に消え、あたりが完全な暗闇に包まれた。
マフィアたちがパニックを起こす。
「なんだ!?停電か!?」
暗闇の中を、一筋の影が風のように駆け抜けた。
ホープだ。
ホープは暗視ゴーグルを装着し、音もなくキャメルの背後に回り込むと、特殊なカッターでロープを一瞬で切り裂いた。
「え、誰?」
「お喋りは後だ。僕の手を掴んで」
ホープはキャメルの腕を引き、驚異的な身体能力でマフィアたちの隙間をすり抜けた。
闇の中でピストルの発砲音が何度も響くが、ホープの計算された動きには、届かない。
二人は船の甲板へと飛び出した。
激しい夜風が吹き荒れる中、ホープはキャメルを連れて、あらかじめ用意していた小型のボートへと飛び移った。
モーターが爆音を上げ、密輸船から猛スピードで離れていく。
夜の海へ逃げ出したボートを追う術はなかった。
安全な廃港にたどり着き、二人は息を整えた。
キャメルはまだガタガタと震えながら、命を救ってくれた謎の少年に頭を下げた。
「助かった、本当にありがとう。あんた、一体何者なんだ?」
「僕はホープ。怪盗さ」
ホープは静かに微笑み、自分の正体を明かした。
キャメルは驚いて目を見開いた後、自嘲気味に笑った。
「あんたも怪盗か。ははぁ、俺もだ。けど、見ての通り、最悪だ。せっかくの変装も台無し、鍵は壊すし、足は引っ掛けるし。やっぱり、俺なんかじゃ、大金なんて盗めっこないんだよ」
キャメルは膝を抱え、深く落ち込んだ。
彼は孤独な孤児として育ち、生きるために変装を覚えたが、いつも最後の最後で失敗し、誰からも認められたことがなかった。
だが、ホープはそんなキャメルの肩に手を置いた。
「君の変装は完璧だった。僕は本気で驚いたよ。あのガルシアの立ち振る舞い、声、空気感、あれを完全に再現できる人間は、世界を探しても君しかいない」
「え?」
「君に必要なのは、完璧なプランと、不得意なことを補う仲間だ」
ホープはまっすぐにキャメルを見つめた。
「僕のプランなら、君のその『不得意』も、補える。君のその素晴らしい才能を、僕に貸してくれないかい?一緒に、本物の怪盗になろう」
キャメルは呆然とホープの顔を見た。
自分の失敗を責めるのではなく、その裏にある才能を、初めて誰かが本気で褒めてくれたのだ。
青年の目に、じわりと涙が浮かんだ。
「あんた、本当に変わった奴だな」
キャメルは顔を拭い、照れくさそうに笑った。
「わかったよ、ボス。あんたのプランに、俺の命を預ける。その代わり、俺のドジのケツは、毎回しっかり拭いてくれよな!」
二人は固く握手を交わした。
「あと、大金の詰まったアタッシュケースは既に、盗み終わってる」
「えっ?マジかよ」
キャメルは呆気にとられた顔をしたあと、「すげーな」と言って笑った。
それが、二人の始まりだった。
「というわけさ。昔から、キャメルは変わらないよ」
ホープが話を締めくくると、車内に静かな笑いが戻った。
キャメルは照れくさそうに頭を掻き、コーラを一口飲んだ。
「へへ、何度聞いても恥ずかしい話だぜ。でもさ、ボスと出会えて、俺の人生は救われたんだ」
その時、セブンが静かに振り返った。
彼女の視線は、キャメルの顔にまっすぐ向けられていた。
「変装の技術、だけは、認める」
セブンは短く、途切れ途切れに言った。
それは彼女にとって、最大限の褒め言葉だった。
キャメルは一瞬驚いた後、今までにないほど嬉しそうな、満面の笑みを浮かべた。
「おう! ありがとな、セブン! 次の現場でも、最高の変装を見せてやるから期待してな!」
雨の音の向こうで、三人の心がまた一つ、強く結びついた。
実際のところ、キャメルの変装術はチームにとって不可欠な武器だった。
この一年後、二人は一ノ瀬家への潜入作戦を行った。
あのときホープが地下室へ一人で潜入できたのは、キャメルが外で完璧に役割を果たしていたからだった。
キャメルは一ノ瀬家の警備責任者に変装し、表の警備部隊を丸ごと騙して足止めする大役をこなしていたのだ。
相棒が外の目を完全に引きつけてくれたからこそ、ホープは誰にも邪魔されずに最深部の地下室へとたどり着き、セブンを救い出すことができたのだった。
ホープは満足そうに微笑みながら、手元の資料をめくった。




