第2話:沈黙の少女と電子の檻
夜の静寂に包まれたキャンピングカーの車内。
激しい逃走劇から数時間が経ち、室内には落ち着いた空気が戻っていた。
だが、テーブルの上に置かれた青いダイヤモンド「永遠の光」の輝きとは対照的に、三人の間にはどこか重苦しい沈黙が流れていた。
原因は、パソコンの前に座るセブンの様子だった。
彼女は先ほどから、キーボードを叩く音がいつもより激しい。
カチャカチャ、と鋭い音が狭い車内に響き渡る。
キャメルが冷蔵庫からコーラを取り出し、気まずそうに頭を掻いた。
「あのさ、セブン。さっきは本当に悪かったって。わざと台座に足をぶつけたわけじゃないんだ。煙で前が見えなくてさ」
キャメルは精一杯の笑顔で謝った。
しかし、セブンは画面を見つめたまま、振り返りもしない。
ただ、キーボードを叩く速度がさらに上がっただけだった。
「別に」
しばらくして、セブンはぽつりと一言だけ呟いた。
その声は信じられないほど冷たく、突き放すようだった。
キャメルはそれ以上言葉をかけることができず、肩を落としてソファに深く腰掛けた。
会話が完全に途切れてしまう。
ホープは二人の様子を静かに見守っていた。
彼は手元にあった温かい紅茶のカップを、セブンのパソコンの脇にそっと置いた。
「セブン、少し休憩にしようか」
ホープが優しく微笑みかける。
セブンは一瞬だけキーボードの手を止め、カップを見つめた。
そして、小さく息を吐くと、それ以上は何も言わずに、キャンピングカーを降りた。
キャメルがため息をつく。
「なあ、ボス。俺、あの子に嫌われてんのかな。いつもあんな感じで、まともに話もしてくれない。仕事の時は完璧な指示をくれるのに、普段は壁があるっていうかさ」
コーラの缶を握りしめるキャメルの顔は、いつもの陽気さが消え、本気で悩んでいるようだった。
ホープは紅茶を一口すすり、口を開いた。
「嫌っているわけじゃないよ、キャメル。彼女はただ、人との距離の取り方がわからないだけなんだ。僕が出会った頃の彼女は、今よりもっと頑なだった」
「出会った頃?」
キャメルが目を見開く。
ホープは遠い目をしながら、三年前の記憶を静かに語り始めた。
三年前。ホープはまだ一人で活動していた。
ある夜、ホープは裏社会で高名な闇の情報屋「一ノ瀬家」の屋敷に潜入していた。
一ノ瀬家は代々、世界中の機密データを盗み出してはテロ組織や大企業に売る、冷酷なデータブローカーだった。
ホープの目的は、彼らが不正に集めた顧客リストを盗み出し、彼らの悪事を止めることだった。
しかし、屋敷に忍び込んだホープは驚愕した。
伝説の怪盗の血を引く自分でさえ、一歩も進めなくなるほどの完璧なセキュリティシステムが張り巡らされていたからだ。
レーザーセンサー、音声認識、熱感知。
それらが複雑に絡み合い、まるで生き物のようにホープの行く手を阻む。
「僕の侵入を予測していたのか? いや、違う。これは」
ホープは直感した。
このシステムは、誰かを防ぐためではなく、中にいる「何か」を絶対に外へ出さないために作られた、電子の檻だと。
ホープは持てる技術のすべてを尽くし、数時間をかけてそのシステムの網の目を潜り抜けた。
たどり着いたのは、屋敷の最深部にある、窓一つない暗い地下室だった。
重い鉄の扉を開けた先で、ホープが見たのは、巨大なモニター群と、その前に座る一人の小さな少女の姿だった。
当時、まだ十五歳だったセブンだ。
彼女はボロボロのパーカーを着て、狂ったような速さで画面に並ぶ暗号を解読していた。
「誰?」
セブンはホープの気配を察知し、振り返った。
その瞳には、強い警戒心と、深い孤独が宿っていた。
ホープは両手を上げて、敵意がないことを示した。
「驚かせてごめんね。僕はホープ。この屋敷のデータをいただきに参上した。だけど、この素晴らしいシステムは、君が作ったのかい?」
セブンは答えなかった。
急に現れた不審者を前にして、彼女の体は小刻みに震え始めた。
口を開こうとするが、言葉が喉に詰まって出てこない。
呼吸が荒くなり、パニックを起こしかけていた。
その時、地下室のスピーカーから、冷酷な男の声が響いた。
セブンの父親の声だった。
『お前は本当に使えないゴミだな、セブン』
部屋のモニターの一つに、父親の顔が映し出される。
『顧客との交渉の場で一言も喋れず、商談を台無しにしおって。お前がいくら天才的なハッキング能力を持っていようが、意思疎通もできない人間は我が家には不要だ。家業を継ぐ資格などない』
父親の言葉は、実の娘に向けるものとは思えないほど冷酷だった。
『侵入者を防げなかったのもお前の責任だ。お前はもう用済みだ。明日、別の組織にその能力ごと売り渡すことにした。そこで一生、喋る必要のない奴隷として働くがいい』
通信が切れる。
セブンは頭を抱え、床にうずくまった。
彼女は生まれつき、他人との対話が極端に苦手だった。
何を話せばいいのかわからない。
相手の視線が怖い。
自分の気持ちを言葉にできない。
その不器用さのせいで、家族からも見捨てられ、トラブルメーカーとして檻に閉じ込められていたのだ。
セブンは震える手でキーボードにしがみつき、ホープに向けて画面に文字を表示させた。
【殺すなら、早くして】
彼女はすべてを諦めていた。
自分には価値がない。
生きている意味がない。
そう思い込んでいた。
ホープは静かにセブンの前に歩み寄り、その小さな手の前に、一箱のラムネを置いた。
セブンが驚いて顔を上げる。
「無理に人と話さなくていい」
ホープは優しく、しかし確かな強さを持った声で言った。
「君の言葉は、そのキーボードの音だ。僕はそれを全部、聞き取ってみせるよ」
「え?」
セブンは初めて小さな声を漏らした。
「一ノ瀬家は、君の技術を悪事に使い、君自身を道具として扱った。だけど、僕のチームには君のその力が必要だ。僕と一緒に、世界をあっと言わせる怪盗団を作らないかい? 言葉はいらない。君の指先で、僕たちの道を切り開いてほしい」
ホープは右手を差し出した。
セブンはその手をじっと見つめた。
今まで、自分を人間として見てくれる大人は一人もいなかった。
話せない自分を、そのまま受け入れてくれる人なんて、存在しないと思っていた。
セブンは震える手を伸ばし、ホープの手を握り返した。
その日、一ノ瀬家の電子の檻は破られ、天才ハッカー「セブン」が誕生した。
「そんなことがあったんだな」
ホープの話を聞き終えたキャメルは、コーラの缶をテーブルに置き、静かに涙を拭っていた。
「俺、何も知らなくてさ。あの子がただ冷たい奴だと思ってた。不器用なだけだったんだな」
「そうだよ。彼女が仕事中に『大馬鹿』とか『急いで』と短い言葉しか言わないのは、あれが彼女なりの必死のコミュニケーションだからなんだ。完璧な指示を出せるのは、それだけ僕たちのことを画面越しに必死に見守ってくれている証拠さ」
ホープが微笑む。
その時、キャンピングカーのドアが静かに開いた。
セブンだ。
彼女はキャメルの方を見ようとせず、ぶっきらぼうに指定席に座り、そして、ポケットから新しいラムネの箱を取り出すと、それをキャメルの前にコト、と置いた。
「あげる」
セブンはそれだけ言うと、すぐに耳まで真っ赤にして、またパソコンと向き合ってしまった。
キャメルは呆然とした後、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「へへ、ありがとな、セブン! これ、大事に食べるよ!」
キャメルが大きな声で笑うと、セブンはキーボードを叩きながら、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩めた。
その光景を見て、ホープは満足そうに頷いた。
お互いの弱さを知ることで、チームの絆は少しずつ、だが確実に強くなっていく。
ホープは再びパソコンの画面を指し示した。
「さあ、絆が深まったところで、次の作戦に移ろう。いや、その前に、キャメル。君と僕がどうやって出会ったか、セブンにも話しておこうか」
「おいおい、ボスの昔の失敗談もセットなら、話してもいいぜ?」
キャメルがからかうように言う。
三人の笑い声が、夜の車内に響き渡った。




