第三十四話 子曰、
私が生き字引でライブラリの本を翻訳しているあいだ、リョウは机に積まれた絵本を読んでいた。
リースが選書してくれたものらしく、この世界の文字で書かれてはいるものの、リョウにも少しならば読めるようだった。
ときどき読めない文字があるらしく、私のところに持ってきてこれはなにかと尋ねてくる。
リョウは本来、長時間集中して本を読むタイプではないのだが、リースがライブラリで忙しく仕事をしているせいか、自分も同じように振る舞いたいのだろう。
「面白いかい?」
「うん、ボクもたくさん本を読めるんだよ」
リョウは背筋をピンと伸ばして、誇らしげに絵本を読む。
そんなリョウを横目で見ながら本を一冊翻訳し終え、次の本を手に取ると、その下に和綴じの手製本を見つける。
「これは……」
「ああそれ。以前いっていた漢字の本を持ってきておいた。探すのに苦労したよ」
「これは、論語ですね」
なぜこんなところに漢文の本が蔵書されているのだろう。
右開きのページをめくると、見慣れた「子曰、」から始まる文章が筆文字で書かれていた。
「ヨシエはその本を知っているのかい?」
「私が住んでいた国の隣国の本です。孔子という人が道徳や規範を説いたものをまとめたものですが、これは……、出版された本ではなく写しですね」
「へえ」
「わあ、かんじばっかりだねえ」
「私も詳しくはないのですが、紙質や綴じ方からみるに、そこまで古くないものかも知れません。書道の練習に書かれたものでしょうか。中国か、近隣の韓国か日本で書写されたものかも」
「見ただけでそこまでわかるのか。すごいな」
和紙を紐で綴じるという文化は何百年も前からあるだろう。大学生の頃、和綴じの手製本を作ったことがある。筆で文字を書くことも、現代日本ではたいていの子供が小学校から学んでいる。
紙質は均一で、手漉きのものか工業製品なのか、私には見分けがつかない。綴じられた枚数はそこまで多くないので、冒頭のごく一部を書写したものだろう。
「あの、これはゆっくり調べたいので後回しにしてもいいですか」
「もちろん。自分の専門分野なのならば丁寧に研究するといいよ」
論語が専門分野というわけではないのだが、少なくともここにいるどのライブラリアンよりも、詳しいのは間違いない。
私はこれがライブラリにやって来た道筋を考える。手製本を持ってこの世界に転生してきた人がいるのだ。これが遠い昔のものならば、その人はもう亡くなっているのだろう。
「リース」
背の高いライブラリアンがリースのそばにやってきて、小声で声をかける。
彼は確かトープと呼ばれていた。先日執務室で階下に落ちたせいで足に怪我をしていた。少し引きずってはいるが、骨折まではしていなさそうだ。
おそらくヒロトの仕業なので、申し訳なく思うが謝罪するわけにもいかない。
「どうしたトープ」
「ちょっといいかな」
トープはリースを連れて、ライブラリを出ていってしまった。
アヤも羽ペンのインクが切れてしまったらしく補充に行く。リースがいなくなると、リョウは飽きたのか絵本を閉じてしまった。私も少し休憩をすることにする。
「リョウ、ユウカたちのことだけど」
私は小さな声でリョウに話しかける。
「ユウカ、帰ってこないねえ」
「ママは、ケンイチとユウカを迎えに行こうと思っているの。だけどリースくんが心配するかも知れないから、こっそりね」
「そうか、こっそりだね。ボクもついていく」
「お昼ご飯のあとにこっそり行こう。リースくんが心配しないように、お手紙を書ける?」
「ボク書けるよ。なんて書けばいい?」
「おさんぽにいってきます、とかがいいかな」
「そんな短いのでいいなら今すぐに書ける!」
リョウはランドセルから羽ペンと紙を取り出し、いくつかの文字を書く。
まだ覚えていないこちらの世界の文字があったようで、絵本を見ながら真似して書いている。
「書けた?」
「うん!」
リョウに手渡された手紙を、生き字引で翻訳してみる。「サンポ、イク、リョウ」と訳される。文法が間違っているのかも知れないが、まあ意味は通じるだろう。私は手紙を受け取り、たたんでポケットに入れる。
「お待たせしました。続けましょう」
アヤが羽ペンを持って戻って来る。
「リースくんは?」
「リース様は、急な用件で外出されました」
ならば好都合だと思う。昼食のあと、アヤの目を盗んでこっそりここを抜け出そう。少し早いが絶好のチャンスだ。言い訳はあとからなんとでもなる。今は、なんとかしてケンイチたちの無事を確認しないといけない。
来賓室で食事をとってから、ケープをたたんでベッドの上に置く。
「リョウも、帽子は置いていこうね」
「えー、せっかくリースくんに貸してもらったのに」
「沼地に行くんだから、汚しちゃうと悪いでしょう?」
「そっかー」
リョウは少しがっかりしたように帽子を脱ぎ、私がたたんだケープの上に乗せる。深い緑色の布地に、金縁の装飾が窓から差し込む光で輝いて見える。
もうここに戻ってくることはないかも知れない。
子供が生まれてからはフリーランスの仕事ばかりをしてきたので、組織に所属して働くのは久しぶりで楽しかった。少しばかり名残惜しい心持ちで、私たちは来賓室をそっと抜け出した。




