表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/46

第三十四話 子曰、

 私が生き字引ウォーキングディクショナリーでライブラリの本を翻訳しているあいだ、リョウは机に積まれた絵本を読んでいた。

 リースが選書してくれたものらしく、この世界の文字で書かれてはいるものの、リョウにも少しならば読めるようだった。

 ときどき読めない文字があるらしく、私のところに持ってきてこれはなにかと尋ねてくる。

 リョウは本来、長時間集中して本を読むタイプではないのだが、リースがライブラリで忙しく仕事をしているせいか、自分も同じように振る舞いたいのだろう。


「面白いかい?」

「うん、ボクもたくさん本を読めるんだよ」


 リョウは背筋をピンと伸ばして、誇らしげに絵本を読む。

 そんなリョウを横目で見ながら本を一冊翻訳し終え、次の本を手に取ると、その下に和綴じの手製本を見つける。


「これは……」

「ああそれ。以前いっていた漢字の本を持ってきておいた。探すのに苦労したよ」

「これは、論語ですね」


 なぜこんなところに漢文の本が蔵書されているのだろう。

 右開きのページをめくると、見慣れた「子曰、」から始まる文章が筆文字で書かれていた。


「ヨシエはその本を知っているのかい?」

「私が住んでいた国の隣国の本です。孔子という人が道徳や規範を説いたものをまとめたものですが、これは……、出版された本ではなく写しですね」

「へえ」

「わあ、かんじばっかりだねえ」

「私も詳しくはないのですが、紙質や綴じ方からみるに、そこまで古くないものかも知れません。書道の練習に書かれたものでしょうか。中国か、近隣の韓国か日本で書写されたものかも」

「見ただけでそこまでわかるのか。すごいな」


 和紙を紐で綴じるという文化は何百年も前からあるだろう。大学生の頃、和綴じの手製本を作ったことがある。筆で文字を書くことも、現代日本ではたいていの子供が小学校から学んでいる。

 紙質は均一で、手漉きのものか工業製品なのか、私には見分けがつかない。綴じられた枚数はそこまで多くないので、冒頭のごく一部を書写したものだろう。


「あの、これはゆっくり調べたいので後回しにしてもいいですか」

「もちろん。自分の専門分野なのならば丁寧に研究するといいよ」


 論語が専門分野というわけではないのだが、少なくともここにいるどのライブラリアンよりも、詳しいのは間違いない。

 私はこれがライブラリにやって来た道筋を考える。手製本を持ってこの世界に転生してきた人がいるのだ。これが遠い昔のものならば、その人はもう亡くなっているのだろう。


「リース」


 背の高いライブラリアンがリースのそばにやってきて、小声で声をかける。

 彼は確かトープと呼ばれていた。先日執務室で階下に落ちたせいで足に怪我をしていた。少し引きずってはいるが、骨折まではしていなさそうだ。

 おそらくヒロトの仕業なので、申し訳なく思うが謝罪するわけにもいかない。


「どうしたトープ」

「ちょっといいかな」


 トープはリースを連れて、ライブラリを出ていってしまった。

 アヤも羽ペンのインクが切れてしまったらしく補充に行く。リースがいなくなると、リョウは飽きたのか絵本を閉じてしまった。私も少し休憩をすることにする。


「リョウ、ユウカたちのことだけど」


 私は小さな声でリョウに話しかける。


「ユウカ、帰ってこないねえ」

「ママは、ケンイチとユウカを迎えに行こうと思っているの。だけどリースくんが心配するかも知れないから、こっそりね」

「そうか、こっそりだね。ボクもついていく」

「お昼ご飯のあとにこっそり行こう。リースくんが心配しないように、お手紙を書ける?」

「ボク書けるよ。なんて書けばいい?」

「おさんぽにいってきます、とかがいいかな」

「そんな短いのでいいなら今すぐに書ける!」


 リョウはランドセルから羽ペンと紙を取り出し、いくつかの文字を書く。

 まだ覚えていないこちらの世界の文字があったようで、絵本を見ながら真似して書いている。


「書けた?」

「うん!」


 リョウに手渡された手紙を、生き字引ウォーキングディクショナリーで翻訳してみる。「サンポ、イク、リョウ」と訳される。文法が間違っているのかも知れないが、まあ意味は通じるだろう。私は手紙を受け取り、たたんでポケットに入れる。


「お待たせしました。続けましょう」


 アヤが羽ペンを持って戻って来る。


「リースくんは?」

「リース様は、急な用件で外出されました」


 ならば好都合だと思う。昼食のあと、アヤの目を盗んでこっそりここを抜け出そう。少し早いが絶好のチャンスだ。言い訳はあとからなんとでもなる。今は、なんとかしてケンイチたちの無事を確認しないといけない。


 来賓室で食事をとってから、ケープをたたんでベッドの上に置く。


「リョウも、帽子は置いていこうね」

「えー、せっかくリースくんに貸してもらったのに」

「沼地に行くんだから、汚しちゃうと悪いでしょう?」

「そっかー」


 リョウは少しがっかりしたように帽子を脱ぎ、私がたたんだケープの上に乗せる。深い緑色の布地に、金縁の装飾が窓から差し込む光で輝いて見える。


 もうここに戻ってくることはないかも知れない。

 子供が生まれてからはフリーランスの仕事ばかりをしてきたので、組織に所属して働くのは久しぶりで楽しかった。少しばかり名残惜しい心持ちで、私たちは来賓室をそっと抜け出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ