エピローグ
独立リーグ元監督の田安さんは、この試合でも監督の役目だった。
私とクルミ夫人は、前列のベンチに腰かけて観戦していたが、監督はベンチから少し出た位置でずっと立ちながら、選手たちに声をかけたり手を叩いたり、ムードメーカー的な存在。これは昔と全く同じスタイルである。
そんな中、不意に発せられた夫人の言葉。
「主人はきっとホームランを打ちます」
「えっ?」
一瞬私は耳を疑った。
凛とした態度で、それでいて穏やかな表情で、真正面のグランドを見据えながら高藤クルミが言ってのけた。
私はそれに対してどう受け答えするべきなのかわからず、
「そうですね。だといいですよね…」
くらいしか言葉に出なかった。
盲目の人は聴覚をはじめ、その場の空気を読み取る感覚が研ぎ澄まされている。
そんな私の心ない同調が見事に見透かされた。
「東郷さんは無理だと思ってるでしょ?」
核心を突かれてたじろいだ私。
「いえその…無理とかじゃくて、そうなってくれたら最高なのにと…」
「いいんです。普通なら誰でも無理だと思います。68のおじいちゃんにホームランを打つ力はないってね」
「・・・・」
私は肯定も否定もできないまま、閉口するしかなかった。
そんな空気の中、クルミ夫人は静かにグランドに目を向けながら、やんわりとした口調でな話し出す。
それは私にとって、何とも不思議な話でもあった。
「実は、主人が現役選手だった年数と、引退してからの年数が今年で並んだのです」
「えっ?…あぁ、そう言えばそうですよね」
「そんな年に今日初めて開催された××年卒のOBイベント。そして卒業から50年も経っているのに一人も欠けずに全員がこの場に揃った。しかも相手のピッチャーまでもがあの時の羽柴さんなのです。これってある意味奇跡だと思いません?」
確かにそう思えた。普通ならこんなに歳月が流れると、住んでいる場所も全国散り散り、事情で来れなかったり、あるいは病気だったり、悪く言えばお亡くなりになっているメンバーがいてもおかしくない。
更に言えば、このようなイベントが行われること自体、予想だにしなかったこと。
「そうですね。不思議というか…奇跡かもしれませんね」
「私、思うんです。変な言い方かもしれませんが、この場面はまさに用意されたものだって」
「用意された…というと?」
ここからは少しスピリチュアルな話になった。
「50年前、9回裏二死満塁逆転サヨナラの場面で、あの人は完璧なホームラン性の当たりをセンターの神業的なファインプレーで捕られて敗北しました」
「はい…昔の記事で読みました。その場にいれたらどんなに良かったかと思ったものです」
「主人はあの意味を私に尽くすため、私を忘れないために与えられた人間としての義務であり、宿命だと解釈しました」
「……はい。。」
「あの人の持つ宿命というものが私に尽くすことなら、この25年間、主人はその役目を充分に果たしてくれました。現役時代と同じように、同じ年数をずっと私のために…」
言葉に詰まったクルミ夫人の目には、光るものがあった。
「私はたった今、直感したのです。もしそれが…その宿命が本当の事なら…これが天に用意された場面であるならば、この場面には必ず終止符が打たれるはず…」
「終止符…?」
「ええ…つまり、ここはホームランしかないんです!」
こうきっぱり言い切るクルミ夫人に、私は動揺した。
もし高藤の結果がそうでなかった場合、彼女は言い訳のしようがない。
だからと言って決して彼女を責める気もないが、隣にいる私としては、どんな言葉を用意したら良いのかと、内心穏やかではなくなっていた。
「奥さん…高藤選手は素晴らしいバッターでした。今でも破られていない彼の持つ偉大な記録が物語っています。彼はすでに生きた伝説です」
「ありがとうございます。随分主人を褒めて下さるのね」
「はぁ…しかしです。しかしですよ、お言葉ですが彼は現在、年齢的にも肉体的にもオーバーフェンスを狙うのはさすがに厳しいかと思いますよ」
「・・・・」
クルミ夫人は黙っていた。私は気が引けて仕方なかったが、先にこうでも言っておかないと、後に出る結果のフォローが余計辛くなるからだ。
「奥さん、ホームランとはいかないまでも、打球がライン際を抜ければ、一気に同点のチャンスも…」
と、その時だった。
────カキイイィィィーーーーン!!!────
「えっ!??」
「まさか!!」
思わずこう叫んだのが私と田安監督。
左バッターの高藤雄一が思いきり引っ張った打球───
それはライトスタンド上段まで運ぶ大ホームランだったのである。
「す…すごい!とても68歳の打球とは思えない…」
まさに私と田安監督は度胆を抜かれた。
「奥さん、ホ、ホームランです。逆転サヨナラホームランです!」
そう言って夫人の方へ振り向くと、彼女はすでにベンチから立ち上がり、自分の胸の前で合わせた両手を握りしめていた。
ダイヤモンドを1周し、敵からも味方からも全員に祝福された高藤雄一は、ベンチ前にいるクルミ夫人の前まで駆け足でやって来た。
「クルミ……終わったよ。あの日の9回裏が…やっと今日でね」
「ええ…そうね」
「この試合はこのメンバーじゃなきゃできなかったことだと思う」
「わかるわ。これはあなただけの試合じゃない。青春台のミラクルは、あのときの選手全員から始まった。全員が主人公だものね…」
「あぁ…その通り」
私は衝撃を覚えた。この夫婦は何もかも、全く同じことを考えていたのだ。
老年になっても、こんなに心がしっかりと通じ合っている揺るぎない夫婦の絆。
野球人としての尊敬はもちろんの事、夫婦のあり方、人間のあり方についても頭が下がる思いでいっぱいだった。
この二人にとって、終わっていなかったあの9回裏が、50年の歳月を経て、ここに幕を閉じたのである。
そして、その後の高藤夫妻と言えば、バッタリとメディアからはナリを潜め、慎ましやかではあるが、楽しい余生を過ごしていると聞く。
私にはまたひとつの興味が持ち上がった。
高藤雄一が引退してから、クルミ夫人を支えた25年間の沈黙の時代はどのようであったのか。
これを知るカギは私自身への今後の課題として、自分の足で取材することにしようと思う。
以上で私の補足したあとがきは終了するが、読者の皆様方には理解していただけただろうか?
この補足分を執筆しなければ、この本は完成とは言えないことを。
そしてこれを機に、折を見て高藤雄一という伝説の野球人について、その人生や功績にわずかながらでも触れていただければ幸いに存ずる。
東郷淳平
(完)
余談ですが、登場人物の姓名は全て、戦国武将と幕末の薩長軍、幕府軍を利用させていただきましたが、特に意味はありません(^_^;)
最後まで読んで下さった読者の皆様には心より感謝致します。ありがとうございました。
できればほんの一言でも感想をいただけたら嬉しく思います。