第1話 俺へ。思い出すな
冷たい、と思った。
背中の下にあるのは石だった。ざらりとした平らな石で、長いあいだ誰にも触れられていなかったような底の知れない冷たさがしみてくる。目を開けると、薄暗い天井が見えた。岩をくり抜いて作ったらしい丸い天井だ。隙間から細い光が一本だけ差しこんで、舞っている埃をきらきらと照らしていた。
体を起こす。関節がぎしりと鳴った。ずいぶん長く寝ていた気がする。一晩や二晩ではなく、もっとずっと長く。
「……ここ、どこだ」
声はかすれていた。自分の声のはずなのに、他人の声を聞いているようだった。
あたりを見回す。六畳ほどの石室だった。壁には見たことのない文字がびっしりと刻まれていて、その文字がうっすらと青く光っている。光は俺が体を起こしたのに合わせるようにゆっくりと消えていった。まるで役目を終えたとでもいうように。
俺は自分の手を見た。二十代くらいの男の手だ。指は細くて、爪は短く切りそろえてある。右手の中指の横にペンだこがあった。
そこで、ようやく気づいた。
俺は誰だ。
名前を思い出そうとすると、ひとつだけ言葉が浮かんだ。レイ。たぶん、それが俺の名前だ。けれど、それ以外が何も出てこない。どこで生まれたのか。親の顔。友達の名前。昨日の晩めしに何を食べたのか。全部、白い霧の向こうにある。
不思議なことに言葉や知識はちゃんと残っていた。石室という言葉も埃という言葉も分かる。天井から差す光が朝の光だということも分かる。ただ、「自分」についての記憶だけがきれいに抜け落ちていた。
「記憶喪失、ってやつか……」
口に出してみると、妙に落ち着いた。慌ててもしかたがない、という諦めのようなものが体の奥に染みついている気がした。
着ているものを確かめる。灰色のローブを羽織っていて、その下は白いシャツだった。襟が少しくたびれている。ローブの内ポケットに手を入れると、指先に紙が触れた。
取り出してみる。四つ折りの紙だった。端が黒く焼け焦げていて、あちこちが炭のように崩れかけている。そっと開くと、そこには文字が並んでいた。
ほとんどは焦げて読めない。読めたのはいちばん上の一行だけだった。
――俺へ。思い出すな。
息が止まった。
読めたことに驚いたのではない。その字に見覚えがあったからだ。右上がりのくせ。とめとはねを省く急いで書いたような崩し方。手が勝手に動いて、指で宙に同じ字をなぞっていた。ぴったり重なる。
これは俺の字だ。
「……自分に手紙って。しかも思い出すな、って」
普通は逆だろう。記憶をなくした自分に向けて書くなら、「お前の名前は何々だ」とか「ここに行け」とか、そういうことを書くはずだ。なのに、この手紙の書き手は――つまり過去の俺ははっきりと「思い出すな」と言っている。
思い出されたら困る何かがある、ということだ。
背筋がひやりとした。俺は紙をもう一度たたんで、ポケットの奥にしまった。考えても答えは出ない。まずはここがどこなのかを知る方が先だ。
立ち上がろうとして、ふと、目の前に何かが浮かんでいるのに気づいた。
半透明の板だった。薄い青色で縁が淡く光っている。手を伸ばすと、指がすり抜けた。触れないのに、そこにある。板には文字が並んでいた。
【名前】レイ
【種族】人族(?)
【レベル】――(測定不能)
【称号】■■■■(閲覧不可)
【魔法適性】全属性
【スキル】剣術LvMAX/魔法LvMAX/鑑定LvMAX/料理LvMAX/交渉LvMAX/隠密LvMAX/……
休息Lv1
忘却魔法――(使用不可)
「……ステータス画面?」
ゲームで見るようなやつだ。なぜゲームを知っているのかは分からないが、知っている。
スキルの欄は下に指を動かすと延々と続いた。剣術、槍術、弓術、魔法、錬金、鍛冶、料理、裁縫、交渉、鑑定。どこまでいってもMAXの文字が並んでいる。数えるのがばからしくなるほどだった。
その中で一行だけ浮いていた。
休息、Lv1。
「なんでそこだけ一なんだよ」
思わず声が出た。全部の技能が極まっているのに、休むことだけが初心者。どういう人生を送ったら、こんなことになるのか。記憶はないのに、なぜか胸のあたりがちくりと痛んだ。心当たりがある、と体が言っている気がした。
称号の欄は黒く塗りつぶされていた。四つの黒い四角。指でなぞっても、何も変わらない。その下の「忘却魔法」という文字だけが灰色に沈んでいた。
とりあえず、外に出よう。
石室の奥に石の扉があった。押すと、意外なほど軽く動いた。ごごご、と重たい音がして、まぶしい光が流れこんでくる。
森だった。
背の高い木々がどこまでも続いていて、葉の隙間から朝日がこぼれている。鳥の声がする。土と草の匂いが、胸いっぱいに入ってきた。石室は小さな丘の斜面に埋まるように作られていて、入り口は苔と蔦にすっかり覆われていた。
「……いい空気だな」
深呼吸をした。それだけで体のこわばりが少しほどけていく。
そのときだった。
正面の茂みががさりと揺れた。
出てきたのは熊だった。ただし、俺の知っている熊の三倍はある。灰色の毛に覆われた巨体で肩の高さが俺の背丈を軽く超えている。口の端からはよだれが垂れていて、赤い目がまっすぐこちらを見ていた。
目の前の半透明の板が勝手に切り替わった。
【灰色熊】
【危険度】B
【備考】森の主。成人男性を一撃で殺す。
「一撃で殺す、って」
書き方が雑すぎないか、と思う暇もなかった。熊が吠えた。地面が震えるような声だった。巨体が信じられない速さで突っこんでくる。
逃げなきゃ、と頭では思った。
なのに、体は勝手に動いていた。右手が前に出る。手のひらに熱が集まる。どうやればいいのか、考える前に分かっていた。呼吸をするのと同じくらい当たり前のこととして。
いちばん簡単なやつでいい。いちばん小さな初級の火の玉。
「――火球」
手のひらからビー玉くらいの火の粒が飛んだ。
小さい。これで大丈夫か、と一瞬思った。
火の粒が熊の鼻先に触れた瞬間、世界が白くなった。
音が遅れてやってきた。どおん、という腹の底を殴られるような音。熱い風が顔に吹きつけて、ローブの裾がばたばたと暴れる。俺は腕で顔をかばって、踏ん張った。
風がおさまって、腕を下ろす。
熊はいなかった。
熊がいた場所からその後ろの木々、さらにその奥にあった小山の斜面までまっすぐに地面がえぐれていた。えぐれた跡は黒く焦げて、ところどころでまだ煙が上がっている。小山の斜面には、トンネルのような大穴がぽっかりと空いていた。向こう側の青空が穴を通して見えている。
俺は自分の右手を見た。
それから、穴の向こうの空を見た。
「……俺、もしかして結構強い?」
誰も答えなかった。鳥たちはいつの間にか一羽残らず飛び去っていた。
目の前にまた半透明の板が浮かぶ。
【灰色熊を討伐しました】
【レベルは上がりませんでした(上限に達しています)】
「上限、かあ」
乾いた笑いが出た。どうやら過去の俺はとんでもない人間だったらしい。そして、そのとんでもない人間が自分に向けて「思い出すな」と書き残した。
ポケットの上から手紙に触れる。
強さの理由も思い出すなの理由もきっと同じところにある。そんな気がした。
えぐれた地面の上に、空に向かって白い魔力の柱が細く立ちのぼっていた。俺の撃った火球の余波だろう。それはゆっくりと薄れて、やがて朝の空に溶けていった。
――その光を遠く離れた場所で見上げている者がいた。
大陸の東の果て。窓のない塔の最上階で銀縁の眼鏡をかけた男が、水晶の中に映る白い柱をじっと見つめていた。男は長いあいだ動かなかった。それから、震える指で眼鏡を押し上げた。
「百年ぶりだ」
男の声は、泣いているようにも笑っているようにも聞こえた。
「百年ぶりのあの方の魔力だ。――ようやく、お目覚めになられましたか」
第1話 了
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