あの日、彼女は僕の目の前に現れた
これみよがしにタバコが落ちてる。黒い箱に銀色の模様。見た事無いタバコの箱だ。新品みたいだけど、この辺りにコンビニなんか無いし、ポケットから落としたんだろうか。
見て見ぬフリをするべきだ。僕はまだ十五の子供で、タバコなんて吸っちゃ駄目な年齢。持ってる所を誰かに見られたら、大変な事になるのは目に見えている。
一本。一本くらいなら。後で吸ってみて、ティッシュに包んで捨てれば、バレない。
思わぬ出来事で足止めを喰らったが、まだ時間には余裕がある。父さんは僕がコンビニ行ってると信じてるだろうし、アイツも家に帰ってきてないみたいだ。
ポケットからライターを取り出し、火が点くかもう一度確認した。今日は夜風も無いし、一発で火が点く。
あとは―――
「あら? どちらさん?」
「ッ!?」
急いでライターを袖の中に隠し、振り向いた。アイツの母親だろうか。家の前に見知らぬ人がいると、僕を少し不審がってる。
「……もしかして、うちのヨウスケがまた何か?」
「い、いえ。あの、ごめんなさい。間違えました。その、家を間違いました」
僕は逃げ出した。とにかく遠くへ逃げようと、走るだけ走った。
息も絶え絶えになって、見かけたバス停前のベンチに倒れこんだ。汗と激しい心臓の鼓動。それが収まってくると、今度は苦しくなった。決心ついて実行まで移ったはいいものの、それを強行する事が出来なかった不甲斐なさ。下手な嘘をついて逃げ出した事。アイツの母親を見て、罪悪感が湧いてしまった。
全部が全部、上手くいかなかった。その事にホッと安心してる自分が情けない。結局、どれだけ同情しても、所詮は他人事なんだ。
ベンチに座り直し、袖の中に隠していたライターを取り出そうとした。けれど、袖の中にも、服の何処にもライターは無かった。走ってる最中、何処かで落としてしまったようだ。
「はぁ……」
ポケットに入れていた携帯で時刻を確認しようとした時、携帯とは違う感触をした何かがあった。取り出してみると、それはアイツの家に向かう途中、一本だけ盗んだタバコだった。
盗んだ時はちゃんと見れてなかったけど、よく見れば変なタバコだ。タバコって白い紙に包まれた物だけど、これは茶色い。臭いも……香水みたいな甘い匂いがする。
「火がなきゃ吸えないよ」
顔を上げると、そこには薄笑いを浮かべた女の人が僕の前に立っていた。ヘルメットを被ってないのに、バイクのゴーグルを頭に着けてる。
「ちょっと咥えてみて」
「え?」
「感じだけだから」
言われるがままタバコを口に咥えると、彼女はニッと笑みをこぼし、僕が無くしたライターを取り出してタバコの先端に火を点けた。
「ッ!? ゴッホ!? ゲホッ、ゲホッ……!」
「ありゃりゃ。落としちゃ駄目でしょ。もったいないなー」
「か、感じだけって……!」
「嘘に決まってんじゃん。アタシのタバコを盗んだって事は、吸いたくて盗んだんでしょ?」
彼女は落ちたタバコを拾い上げると、咥える部分を指で擦った後、躊躇いなく咥えた。すぐにむせた僕なんかと違って、吸った煙をすぐに吐き出さずにいた。その慣れた感じが大人っぽくて―――
「フゥー」
「ッ!? ゴッホ!? ゲホッ、ゲホッ……!」
「アハハハ! 大袈裟!」
「な、なんで僕に向けて煙を―――」
「君の事、気に入ったよ」
彼女の手が僕の頬に触れた。冷たい指先で首まで撫でられていくと、急に首を掴んだ。
「君の命。今からアタシの物だから!」
突発的に覚えた正義感の脆さ。あと一歩が踏み出せない情けなさ。その二つが分かっただけでも濃い一日だったけど、この人との出会いは、僕の人生を大きく変える転換期だった。それこそ、僕という人間が変わる瞬間。
だけどこの時の僕は、ただただ、彼女の狂気に押し負けていた。




