7月 1
暮れなずむ西の空の…その先から聞こえて来るのはセミの鳴き声。
椿の目の前には、どうどうと音を立てて流れ込む水から溢れるマイナスイオン。夏真っ盛り、気分爽快!…と言いたいところなのだが。
「もしもの事態に備えて海パンを持ってこなかった事は失敗だったなぁ」
「よしんば!持っていたとしても、ぼくは泳ぎはチョットだけ苦手だ。したがってこれから始まるプールの授業も憂鬱だし、藻やら何やらとの悪戦苦闘に思わぬ時間が掛かった所為で、明日の予習時間が大いに削られた事が何より痛い、と言うか疲れたぁ~」
「予習って…今日くらい、先生たちも大目に見てくれるでしょう」
「そんな融通が利くのだったら、特進クラスと言わないだろう。そういう訳なんで、後よろしく」
はぁ、と特大のため息を椿の足元に残し、しょぼくれた背中を向ける事は梨木の勝手かもしれないけど。
「シラけちゃうなぁ。一人で遊んだって詰まんないし、かと言ってこの輝く水面を目の前に帰るなんてあり得ないし」
思いながら見つめる水面は一層キラキラと、当然だろう。なにせ椿たちが、体操着を藻と汗みどろにしてまで…実際問題この深緑色と、今はマヒしてしまった匂いは取れないだろう…磨いたのだ。夕焼けに輝く波紋は気の早い月をおぼろに映し、水色にコートされた水底はいっそう幻想に、ゆらめく情景を脚色している。さながら万華鏡のように、くるくると色を変えてはまるで、椿を誘っているようで…いや!これは間違いなく誘われてる。と、言う事は。
「据え膳食わぬは何とやら、ここで引いては男がすたる!でも、さすがに全裸で飛び込む事は気が引けるから短パンのままで、誰にも気づかれないように、そ~っと、そ~…っと!」
「いけないんだ、プール開きは今日じゃ無いんだろう?ずるいんだ!」
心臓が飛び上がるとはまさにこの事!予期せぬ事態に思わず、準備運動もせずにプールへまっ逆さま。派手に音を立ててしまった!いや、そんな事よりも一体誰が、いつの間に?
大して深くもない所に落ちた事が唯一のラッキーだった。じたばたとパニックになりながらも、水底を蹴っている事に早々に気が付き、何とか気持ちを落ち着かせて両の足を立たせると丁度、肩のあたりまで水の中。見上げるすぐそこに居たのは、まっ白いワンピースを茜に染めた、よく通るソプラノの声にぴったりの、見た事も無い少女だった。
「大きな音立てて、いけないんだ!と言っても。ボクも他高生の分際で侵入してるんだから偉そうな事言えないけど。あ~あ。こんな事ならボクも水着持ってくればよかったな。キミみたいに飛び込む訳に行かないし、こんな恰好じゃぁつま先が精いっぱい。そんなの拷問だよ。ね、椿クンもそう思うだろ?…ふふ、ゼッケンに名前が書いてあるのだ」
「他高、生?が何で」
「キミ、昼ごろ大勢の生徒にここに投げ込まれただろう?帰り道にお祭り騒ぎをやっていたら、そりゃぁ気になるよ。それで、さっき通ったらまだ居る。しかも前身ミドリ色でさ、カッパの高校生だ!って思ったんだ。知ってる?カッパって水かきがあるんだぜ、…本当はまだ疑ってるんだ、キミの事。ね、確認させてよ」
誰が!と言いながらも差し出された手に手を重ねてしまう。少女は急に真面目くさった顔を作り、ウ~ム、と学者気取りで唸ってみせると椿の顔を覗き込み、思いのほかに近かった事にまた、心臓が飛び上がる。
睨みつけるような彼女の目。映る椿の顔は…本当に自分の顔だろうか、こんな表情も出来るのか。こんな…、
「キミの無実は証明されたよ。残念だ、本当に残念。世紀の大発見だと思ったのに」
「ほ、本気で言っているのか?頭冷やした方がいいんじゃ…」
「椿くん?」
と、今度は聞きおぼえがある!てまりの声に思わず頭を水の中へ。が、重ねたままの手の事をすっかり忘れていた!少女は椿に引っ張られる形で大きく音をたてて水の中へ。
一秒、二秒…あぶくばかりが、息をつめた水面を彩る。
……
ざ!と椿の頭めがけて水しぶきを上げて飛び上がり、一度。思いっきり息をしてはゼイゼイと、ジロリと椿を睨みつける。
「椿くん、そこに居るの?あ!…も、もしかして服着てないとか?ご、ごめんなさい。あの、あのね、保険の先生が新しい体操着を貸してくれたの、それとバスタオル。こ、ここに置いておくから、私が出て行ってから取りに来てね、今出てきちゃだめよ、絶対よ!」
言うなり、今日の午前に存分に発揮したばかりの俊足で走り去ってゆく。きっと、いつもどおりに顔を真っ赤に、一人早合点をしては慌てふためいているのだろう。
「にやけちゃって。彼女?」
「え?んん~そんな所かも」
何故か、顔が見れない。…きっと、睨まれたからだ。
一拍置いて、そうっと。音をたてないように水から上がると、てまりの持って来てくれたタオルを拾い上げる。…怒ってるよな、当り前か。でも、顔を見なきゃ。イチ、ニィのサン!
振り返ると、彼女も水から上がりワンピースの裾を絞って、思った通りのしかめっ面。目を逸らしたい、でも…手を伸ばし、目の前に清潔なタオルを差し出す。
「ごめんなさい。びっくりし過ぎて思わず、引きずり込んじゃった。このタオルと着替え…こんなんじゃ、全然お詫びにもならない…よね」
「…全く!ボクもそう思う。でも」
しかめっ面で受け取ったはずのタオルが椿の顔に押し付けられたのが先か、彼女の唇がかすかに触れたのが先か。
「名前、言ってなかったな、浅間さくらだ。この貸しは倍にして返してもらうぞ、椿くん。サラバ!」
早口にまくしたてて走って行ってしまう…その先から聞こえてくるのはセミの鳴き声。
高校初めての、夏がはじまる。




