第52話 静寂の供物
洞窟の奥は、思いのほか静かだった。
どこかで滴る水音だけが、時折、岩肌を伝って響く。
苔むした壁、ぬかるんだ足元。
空気は冷たく、けれど澄んでいた。
ティナが小声で言う。
「風、こっちから来てる……たぶん出口はあっち」
彼女が指すのは、右手奥に続く横穴。
幅は二、三メートルほど。
自然にできたと思しきその道は、曲がりくねりながらも先へと続いているようだった。
「じゃあ、慎重に進もう。エルメラの魔力が回復するまでに、出口を見つけておきたい」
マリスがそう言い、先頭に立つ。
全員が頷き、ゆっくりと歩みを再開する。
岩壁の起伏に注意を払いながら進んだ先——ふいに、ティナが足を止めた。
「……待って。あれ、なんかおかしくない?」
その視線の先には、小さな窪みがあった。
周囲より一段下がった、半円形の空間。
天井も他より少し高い。
自然にできたには不自然な、妙に整った造形だった。
その中央に、それはあった。
「……石台?」
グレンナが眉をひそめながらつぶやく。
確かに、石を積んで作られた四角い"台座"がそこにあった。
人の膝ほどの高さで、表面はなめらかに磨かれている。
そして、その上に置かれていたのは——
「……花?」
それは、乾ききって形も崩れかけた植物の残骸だった。
色は抜け落ち、触れれば崩れそうなほどにもろい。
けれど、不思議なことに——ほんの微かに、香りが残っていた。
「……おかしいな。こんなに朽ちてるのに、匂いがする」
グレンナが顔をしかめる。
だがそれは、不快ではなかった。
むしろ、どこか懐かしくさえ感じる。
「陶片……焦げ跡もある」
マリスがしゃがみ、石台の横に散らばる破片を拾い上げる。
薄く焼かれた素焼きの陶器の一部のようだ。
手のひらほどの欠片には、何か模様のようなものがあったが、もう読み取ることはできなかった。
その隣には、黒ずんだ煤の跡。誰かが火を灯したのか、あるいは何かを焼いた痕か。
「……これ、誰かが祈ってたの?」
エルメラが、ぽつりとそう呟く。
マリスは短く答えた。
「墓標……かもしれない。もしくは供物台。いずれにしても、通りがかりの旅人が置いていくような代物じゃない。ここには、誰かが"思い"を残していった」
その言葉を聞いた瞬間だった。
光也の視界が、わずかに——揺れた。
時間が、世界が、ふっと沈黙の膜に包まれる。
「……っ?」
視界の隅、石台の前に"何か"が立っていた。
ぼやけた輪郭。
黒い影。
人のようで、人ではない。
男か女かも分からず、表情も見えない。
ただ、その姿は"手を合わせていた"。
何に?
——台座に。供物に。ここにあった、何かに。
音はなかった。
空気もなかった。
あるのは、祈りの気配だけ。
静寂。
ひとつの祈り。誰かを送る仕草。
それが、目の前に在った。
「……誰かが、ここで……"さよなら"を言ってたんだ」
光也がぽつりと呟いた。
その声に、全員が振り向いた。
「え? 何か見えたの?」
ティナが警戒の色を帯びた目で辺りを見回す。
「ううん……なんでも、ない」
光也はかぶりを振った。
影は、もう消えていた。
その気配の余韻だけが、空間に残っている。
「……でも、ここって、ただの通路じゃないんだろうね。誰かにとっては、特別な場所だったんだと思う」
その言葉に、しばしの沈黙が訪れた。
グレンナが鼻を鳴らす。
「……なんか妙だな。この花、さっきより香りが濃くなってないか?」
「空気が変わった。ここだけ、まるで……時が止まってるみたい」
ティナが囁くように言う。
「静かに通ろう。この場所に、何かを捧げた人がいたのなら……私たちも、敬意を表すべきよ」
エルメラが小さく手を合わせた。
まるで、それが自然な動作のように。
マリスが頷き、石台に背を向ける。
「行こう。……風の方角は変わっていない。先へ進む」
光也も、再び歩き出す。
だが、その背後——石台の上。
何も置かれていないはずのその空間に、"誰か"がいたような気配が、いつまでも残っていた。
そして光也は振り返り、小さく呟いた。
「……僕に、何かを見せようとしていたのかな……」
その言葉は、誰の耳にも届かなかった。
ただ、乾いた花の香りだけが、一瞬だけ強くなったような気がした。




