第53話 微かな風を追って
花の香りが、まるで別れを告げるように消えていく。
光也は最後にもう一度だけ石台を見たが、そこには何の変化もなかった。
足音を立てぬよう慎重に、ルミナリスの一行は横穴へと進んでいった。洞窟の道幅は狭く、岩肌が肩をかすめるたび、ひやりとした冷気が肌を撫でた。
「ティナ、風の流れは?」
マリスが囁くと、ティナは目を細めて洞窟の空気を味わうように鼻を鳴らした。
「……間違いない。このまま北西に緩やかに登ってる。外気じゃないけど、湿度が少しだけ違う。出口に繋がってる確率は高いと思う」
「よし。慎重に進むぞ。万が一、魔物の巣に出る可能性もある」
「やめてくれ……さっきので心臓縮んだばっかりなんだから……」
グレンナがため息混じりにぼやきながらも、大盾を前に構えて進む。
エルメラは、まだ顔色が冴えなかったが、光也の隣にしっかり立っていた。
ときおり魔力の小さな波動が彼女から溢れる。
回復は進んでいるようだ。
光也はというと、未だ胸の奥に残る違和感を言葉にできずにいた。
祭壇で見た“影”の祈り、それが何を意味するのか、なぜ自分にだけ見えたのか。問いは尽きない。
けれど――
(……今は、生きて、地上に戻る。それが先だ)
そう心に決め、仲間たちの背中を見据えながら足を進める。
*
数分ほど進んだ頃、前方の視界がゆるやかに開けた。
「……分岐点。三方向に通路がある」
ティナが立ち止まり、指でそれぞれの道を示す。
右は下り坂になっており、水の流れる音がかすかに聞こえた。
おそらく地下水の溜まり場。
左は湿気が強く、風の流れもほとんど感じられない。
「中央。ここだな」
マリスが確信を持ったように言う。
「登ってる。壁の苔も乾き気味だ。風が通るのは間違いなく中央だ」
「こっちからも変な匂いはしないし、魔物の気配もない。行くなら今のうちだね」
ティナの報告に、全員が同意する。光也も拳を小さく握って頷いた。
「……出口、見つけよう」
*
登り坂は、思ったより長かった。
天井も低く、ところどころで屈まなければ進めない場所もある。
しかし、次第に風が強くなる。空気に混じる湿り気が、次第に“地上の空気”へと変わっていく。
「……あれ、見て」
エルメラがぽつりと言った。
その指差す先。
――黒い岩肌の間に、淡く光る“縦の線”があった。
「……外光!」
マリスの声が少しだけ高くなる。
グレンナが走り出し、大盾で岩を押し広げるようにこじ開けた。
ザラリ――と岩が崩れ、日光が差し込んだ。
「っはぁあ、眩しっ! ……でも、これでようやく外だな」
グレンナが嬉しそうに笑う。
そこは、山肌の断崖に開いた小さな裂け目だった。
気をつけてよじ登れば、すぐに外へ出られそうだ。
「光也、先に」
マリスの指示で、光也が一番にその裂け目を登る。
岩の縁に手をかけ、太陽の光をまともに浴びた瞬間、彼は思わず目を細めた。
「……ああ、風が……」
それは、温かかった。
冷たくない、世界の風。
続いてグレンナ、ティナ、マリス、最後にエルメラが這い出て、五人全員が地上に戻ることができた。
「ここ……斜面の裏手か。もう少し歩けば、獣道に戻れる」
ティナが周囲を確認しながら言う。
「時間は……午後も後半ってところかしら。予定より遅れたけど、無事ならそれでいい」
マリスの言葉に、皆が頷いた。
光也は地面に腰を下ろし、青空を見上げた。
ほんの少し、白い雲が浮かんでいた。
(あの洞窟。祭壇の跡、そして……影)
何もかもが夢のようだった。
けれど現実だ。
確かに、自分は“そこ”にいた。
そして彼らは、再び歩き出した。
*
地上に出てしばらく歩き、ようやく元の獣道に戻った頃。
グレンナが、ふと立ち止まって眉をひそめた。
「……そういやさ、私たち……馬車、置いてきたよな」
「!」
全員が固まる。
「そうだ……!」
ティナが青ざめた顔で頭を抱える。
「馬……逃げてないといいけど」
エルメラが不安げに呟く。
マリスはすぐさま地図と方位磁針を取り出し、地形を確認しながら言った。
「ここが斜面の北側なら、転移前の位置までは、ぐるっと回って数時間か……」
「戻ろう。馬車がなきゃ、この先ディアルまで歩くことになる」
光也が真顔で言うと、グレンナが思わず吹き出した。
「お、らしくなってきたじゃねぇか。……よし、行くか。馬たちが呑気に草でも食って待ってると信じてな」
マリスも頷いた。
「慎重にね。あの場所はまだ完全に安全とは限らない」
「了解〜。じゃ、馬回収ミッション発動だね!」ティナが軽やかに歩き出す。
そして再び、五人は歩き出した――今度は、馬車を迎えに。




