第45話 伯爵の静謀
ラガン邸は今日も静かだった。
穏やかな陽光が中庭を照らし、白い石畳には風に揺れる花の影が落ちている。
けれどその静けさの奥では、確かに小さな波紋が広がっていた。
*
「ねえ、聞いた? あの子……スキルが、ないんですって」
「ほんとに? 嘘でしょう。」
「でもマリス様が、わざわざ直々にお連れしたんですのよ。しかも……王都から逃れてきたって噂も」
「……なにか、いわくつきなんじゃない?」
食器の片付けをしながら、廊下の隅で、若い侍女たちがひそひそと声を交わす。
その声は、扉一枚向こう——ちょうど廊下を歩いていた光也の耳には届かなかったが、その張りつめた空気の感覚だけは、確かに彼の心に染み込んだ。
笑い声はあっても、それが完全に無垢なものではないと、どこかで彼は察していた。
*
伯爵の書斎にて
ラガン邸の奥まった一角。
重厚な書斎の扉が、軋むような音を立てて閉じられる。
「……お入りなさい」
呼ばれて入ったのは、側近の老執事だった。
ラガン伯爵は書斎の机に向かい、分厚い本を何冊も広げていた。
「異世界召喚者について、王都の大学から古い記録を取り寄せた。半分は神話、もう半分は政治的脚色だ。だが……そのどちらでもない"空白"がある」
「空白、でございますか?」
「そう。"スキルなし"の召喚者という記録は存在しない。少なくとも、公には」
伯爵は銀縁の眼鏡を外し、静かに息を吐いた。
その目には、ただの好奇心ではなく、どこか暗く深い憂慮が浮かんでいた。
「通常、異世界の者は何らかの強大な力を与えられて来る。剣聖、癒術士、賢者……少なくとも"称号"に匹敵するものを得る。だがあの少年には、それがない。どころか一般人でも持っているような、ありふれたスキルさえも。まるで、意図的に……」
「……排除されたかのように、でございますか?」
「あるいは、"拒まれた"とも言えるだろう」
伯爵は立ち上がり、書棚からさらに古い文書を取り出した。
そこには朽ちかけた羊皮紙に、細かく文字が刻まれていた。
「これは、百年前に召喚されたとされる"異端の来訪者"の記録だ。名前は抹消され、存在も封印されているが……興味深い記述がある」
『この者、理を帯びずして理を乱す。ゆえに理はその者を拒み、世界の外に立たせしめた』
「まるで、光也少年のことを記しているかのようだな」
老執事は黙して頷いた。
伯爵の背筋に、どこかの神殿よりもずっと深い畏れが宿る。
*
その夜、ラガン邸の応接室に、再びマリスが姿を見せた。
淡い月明かりの下、火灯のゆらめきが天井に揺らめく影を投げている。
「……あなたの見立てを、聞きたい」
ラガン伯爵は、声を潜めながら切り出した。
「光也少年は……本当に"スキルなし"なのか? それとも、まだ"目覚めていない"だけなのか」
マリスは静かに紅茶を口に運んだ。
「見た目や能力の問題ではありません。……彼は、この世界の枠組みに最初から属していない。スキルは、世界と魂の接点で生まれるもの。けれど、彼にはその"接点"が存在しないのです」
「つまり、根本的に"この世界の理"と噛み合っていない?」
「ええ。そしてそれは、もしかしたら……誰かが意図して、そうした可能性もある」
ラガン伯爵は眉間に皺を寄せた。
「……王都の連中は、彼が"危険な情報を知っている"から追っているのではなく、"その存在自体が異端"だから消そうとしているのでは?」
マリスは何も言わなかった。
ただその目だけが、すべてを肯定していた。
「だとすれば……彼の存在は、政治的な爆弾になりうる。だが、同時に──」
伯爵はゆっくりと視線を上げた。
「世界を揺るがす、"鍵"になるかもしれない」
*
その頃、光也は庭のベンチに腰掛け、夕暮れを眺めていた。
誰もいない時間を見計らって、一人で考える時間を持とうとしていた。
どれだけ勉強しても、どれだけクラリスと心を通わせても。
ミナに抱きつかれても、温かい食卓を囲んでも——ふとした拍子に、心の奥底に"透明な壁"のようなものを感じる。
「……僕って、やっぱり"変"なんだろうな」
その呟きは誰にも届かず、ただ夜風に流されていった。
けれど。
邸の書斎では、すでにひとつの決意が固まっていた。
「この子が世界の理を越えた存在であるならば、なおのこと……見届ける義務がある」
ラガン伯爵は、封蝋で封された一通の手紙を開いた。
その宛先は、王都のとある隠された学会——「叡智の環」。
世界の"理"を問い直す者たちが集う場所。
そして、そこに"理に属さぬ存在"が加わったとき、何が起きるのか。
伯爵は、知りたかった。