第46話 静けさの帳
光也は、静かに目を覚ました。
窓の外にはまだ薄青い朝の光がにじみ、庭の木々は微かに揺れている。
ラガン邸で目覚めるのにも、だいぶ慣れてきた。
それでも、どこか夢の中にいるような気分が抜けないのは、この世界に来てからずっと続く感覚だ。
寝台から身を起こし、足元に置かれた小さな本を手に取る。
クラリスから借りた歴史書だった。
最初は読んでもさっぱり意味がわからなかったが、最近はほんの少し、文脈がつながるようになってきた。
「……今日は、何しようかな」
ひとりごちて立ち上がる。
まだ使用人たちも活動を始める前の時間だ。
静かな廊下を抜け、庭に出た。
朝露に濡れた芝を踏むと、しっとりとした感触が素足に伝わる。
光也は深く息を吸った。
そのときだった。
「早起きね、あなた」
振り返ると、石造りの柱の陰からクラリスが現れた。
まだ髪を整える前らしく、緩やかなカールが少し乱れていた。
「おはようございます。クラリスさんも……」
「ええ。朝の空気が好きなの。誰もいないみたいで」
光也は、どこかほっとしたように微笑んだ。
クラリスもまた、声は冷たいようでいて、その表情には険がなかった。
「昨日借りた本、少しずつ読めるようになってきました。ありがとうございます」
「……ふうん。まだ難しいはずよ、あの書は」
「でも、少しずつ……読むのが楽しいんです」
「……そう」
クラリスは、朝日に染まる庭を見渡した。
沈黙が流れる。
やがて彼女は、ぽつりと呟いた。
「……もうすぐ、春が終わるわね」
光也は、その言葉の意味を測りかねた。
けれど、そのとき彼の胸にわずかに走ったざわめきが、まるでこれから起こることを予感しているようで──
「はい」と、短く返した声が、少しだけ掠れていた。
*
夜の帳がラガン邸を静かに包み込むころ、書斎には暖炉の火が柔らかく灯り、分厚いカーテンの隙間から月明かりが漏れていた。
ラガン伯爵は深く椅子にもたれ、机上に広げた書簡に目を通していた。
指先で顎を撫でながら、眉間に刻まれた皺が、静かにその深さを増していく。
「……どうにも、臭うな」
ぽつりと呟いたその声に応えるように、ノックの音が木扉を叩いた。
「入れ」
音もなく開いた扉の向こうから現れたのは、長年仕えてきた老執事だった。
背筋は真っ直ぐだが、その目には慎重さと、ほんのわずかな疲労の色が見え隠れしている。
「本日、南の門を見回っていた若い者から報告がございます」
伯爵は頷き、続きを促す。
「"見慣れぬ顔"が、数日続けて邸の近くをうろついているとのこと。貴族の従者にしては質素すぎ、旅の商人にしては目線が鋭すぎると」
「ふむ。王都からの使いか、それとも……"試す目"か」
伯爵は指を組み、沈思の色を浮かべたまま立ち上がった。
書棚の奥、隠すように置かれていた一通の書状を取り出し、老執事に差し出す。
それは、数日前に"監察局"の名で届けられた公式文書だった。
「公爵家からの視察が"偶然"続く。さらに監察官が"風土調査"を理由に屋敷の台帳を求めてきた。これらが全て偶然のはずがあるまい」
老執事は書状を目で追いながら、顔を曇らせた。
「……公には尋問の類いではございませんが、これは既に"疑念"の域にございますな」
「いずれ"任意の尋問"が入るだろう。貴族の屋敷は守りが厚い。ゆえに真っ先に疑われる。"隠せる場所"としてな」
ラガン伯爵の声音には、疲労ではなく、冷えた警戒が滲んでいた。
「光也少年は、何も知らず、ただここに"居るだけ"だ。だが"理に合わぬ存在"という印象を持たれれば、それだけで火種になる」
「では……近く、送り出すおつもりで?」
「いや、こちらから退くのではない。あくまで、"必要に応じて動かざるを得なかった"体裁にする。敵を作る気はないが、守るべきものは守る」
火の灯る暖炉の前、伯爵はカーテンを押し分け、夜の庭を見下ろした。
揺れる木々の影が、まるで耳を澄ませるように静まり返っている。
「……この邸が、彼にとって安らぎの場であり続けられるのは、もうそう長くはないのかもしれんな」
老執事は無言で頷いた。
邸の静けさが、どこか重く、張り詰めた弦のように思えた。
その夜、屋敷の誰もが知らぬところで、一枚の決断が静かに、だが確かに切り出された。
*
使用人たちは早々に灯りを落とし、屋敷の中は暖炉の残り火の揺らめきだけが、細い赤を壁に踊らせていた。
だがその晩、光也のまぶたは一向に下りなかった。
寝台の上、何度も寝返りを打ってみたものの、心の奥に貼り付いたざらついた不安がどうしても剥がれなかった。
「……ちょっと、外の空気でも」
囁くように自分に言い聞かせて、そっと寝間着のまま部屋を抜け出した。
屋敷の廊下には誰の気配もなく、しんとした静寂が天井から降りてきているようだった。
足音を立てぬよう、履物のまま踵を引きずるように歩きながら、裏口の小扉を開けた。
外の空気は、ほんの少しだけ冷たかった。
中庭を抜け、裏門の塀に近づくと、遠くからフクロウの鳴く声が一度だけ響いた。
澄んだ夜の声は、この世界における「現実」の輪郭を引き直してくれるようで、光也はゆっくりと息を吐いた。
そのときだった。
(——あれは……?)
塀の外、ほんの数メートル先に、黒い影があった。
いや、「いた」と思った。
月の光に照らされた塀の向こう、木の陰に立っていたのは、黒衣をまとった男だった。
ローブの裾は風もないのにわずかに揺れ、顔はフードに隠されていた。
だがその目だけは、確かに光也を見ていた。
無言のまま、息をするように自然に、鋭く、観察するように。
呼吸が止まりそうになった。
(誰……?)
目を瞬いたその刹那、男の姿は掻き消えた。
煙のように——ではない。
元からそこに存在しなかったかのように、ふいと空気に溶けたのだ。
光也は慌てて塀の近くに駆け寄った。
塀越しに顔を出してみたが、人の気配はどこにもない。
ただ夜の風が微かに草を撫でているだけ。
そのとき、どこからか小さな耳鳴りのような音がした。
(……誰かに、見られてる?)
ふいに背筋が冷たくなる。
振り向いたが、後ろにいるのは夜の闇だけだった。
やがて、遠くの方で警備の兵士たちの足音が聞こえてきた。
光也は急いで身を隠し、誰にも見つからないように、静かに中庭へ戻る。




