「痩せた大地」
春の雨が、三日続いた。
レーヴェン家の屋敷では、朝から慌ただしく人が行き交っていた。
廊下を走る使用人の足音。
書斎へ運び込まれる、泥のついた書簡。
そして、いつもなら食卓に響く父の笑い声が、今朝はなかった。
「南の村で、また畑が流されたそうだ」
食堂に入ってきたグレゴールが、重い声で告げた。
母エレナが顔を上げる。
「被害は?」
「今のところ、怪我人はいない。だが、麦の芽がかなりやられたらしい」
アルヴィスは、スプーンを持つ手を止めた。
南の村。
三年前、父に尋ねたことがある。
川があるのに、なぜ畑が少ないのか。
その答えは、痩せた土地と春の氾濫だった。
「今年も、ですか」
次兄ユリウスが心配そうに言った。
「ああ。昨年より悪いかもしれん」
グレゴールは椅子に腰を下ろした。
「備蓄を確認させている。必要なら領主の倉から食糧を出す」
「それで足りるの?」
アルヴィスが尋ねた。
父は苦笑した。
「足りるようにするのが、私の仕事だ」
だが、その顔には疲れが見えた。
アルヴィスは黙って食事を続けた。
前世で幾度となく経験した、兵糧の不足。
食糧がなければ、どれほど強い軍勢も戦えない。
それは領地でも同じことだった。
だが、今朝の父が案じているのは、兵ではない。
畑を失った農民たちだった。
*
「南の村へ行きたい?」
父は、思い切り眉をひそめた。
昼食の後、アルヴィスが書斎を訪れて申し出ると、グレゴールは即座に首を横に振った。
「駄目だ。川が増水している」
「川には近づかないよ」
「そういう問題ではない」
「だったら、兄上と一緒なら?」
グレゴールは腕を組んだ。
「……なぜ、そこまで行きたい?」
アルヴィスは少し考えた。
本当の理由をそのまま話すわけにはいかない。
かつて天下を治めようとした者として、領地の困窮を自分の目で確かめたい。
そんなことを言えば、父は医者を呼ぶだろう。
「本で読むだけじゃ、分からないことがあるから」
グレゴールの表情が変わった。
「……それは、そうだな」
しばらく沈黙が続いた。
やがて父は、ため息をついた。
「川には絶対に近づかないこと。ラインハルトの指示に従うこと。それが条件だ」
「ありがとう、お父様」
「まったく。誰に似たのやら」
書斎を出ると、扉の向こうから母の声が聞こえた。
「あなたに決まっているでしょう」
アルヴィスは、思わず笑った。
*
翌日。
雨が弱まるのを待って、一行は南の村へ向かった。
馬車にはアルヴィスとラインハルト、護衛の兵が二人。
そして、領地の記録を取るため、ユリウスも同行していた。
「足元に気をつけろよ、アル」
ラインハルトが言った。
「分かってる」
「お前の『分かってる』は信用できない」
「どうして?」
「この前、書庫の棚に登ってマルタを怒らせただろ」
「……あれは本を取ろうとしただけだよ」
ユリウスが小さく笑った。
馬車はやがて、低い丘を越えた。
その向こうに、南の村が見えた。
アルヴィスは息を呑んだ。
畑の一部が、泥に覆われていた。
まだ青かった麦の芽が、倒れている。
水の引いた場所には、石や流木が散らばっていた。
村の入口では、一人の女が濡れた麦束を抱えていた。
その傍らに、小さな男の子が立っている。
「お母さん、これも捨てちゃうの?」
女は、すぐには答えなかった。
泥に汚れた麦を見つめ、それから子供の頭を撫でた。
「……乾かしてみようね」
だが、その声には力がなかった。
アルヴィスは、思わず足を止めた。
麦は、ただの作物ではない。
この親子にとっては、冬を越すための食糧だった。
「……ひどいな」
ラインハルトが呟いた。
アルヴィスは馬車を降りた。
濡れた土の匂いがした。
近くでは、一人の老人が折れた柵を直していた。
「領主様のご子息方ですか」
老人は慌てて頭を下げた。
「楽にしてくれ」
ラインハルトが言った。
「被害を見に来た。困っていることがあれば聞かせてほしい」
老人は、しばらく迷った後、口を開いた。
「川の水が引いても、畑が元に戻るわけではありません」
「そうだろうな」
「種を蒔き直すにも、蓄えが要ります。今年は、冬を越せるかどうか……」
老人の視線が、泥に埋もれた畑へ向いた。
「若い者は、町へ働きに出ると言っております。ですが、働き手が減れば、残った畑を耕すことも難しくなります」
アルヴィスは、その言葉を聞いていた。
一枚の畑が失われる。
すると、食糧が減る。
人が土地を離れる。
働き手が減り、さらに畑が荒れる。
困窮は、一度始まれば連鎖していく。
前世でも、幾度となく見た光景だった。
だが、あの頃の自分は、そこからどれだけ年貢を集められるかを先に考えていたこともある。
今、目の前にいる老人は、年貢を納めるために生きているのではない。
ここで暮らし、家族を養うために、土を耕している。
当たり前のことだった。
それなのに、妙に胸に残った。
*
アルヴィスは、畑の端にしゃがみ込んだ。
指先で土を少し掬う。
泥が、指の間から落ちた。
「この畑、いつも水に浸かるの?」
老人は驚いたように少年を見た。
「ええ。春になると、決まって」
「じゃあ、どうして同じ場所に麦を植えるの?」
その問いに、老人は困った顔をした。
「ほかに、植えられる土地がないのです」
アルヴィスは顔を上げた。
周囲には、畑になっていない土地が広がっている。
だが、そこには石が多く、草もまばらだった。
「向こうの土地は?」
「痩せすぎております。何を植えても、ろくに育ちません」
「土を入れ替えることは?」
「とても、とても。そんな人手も金もありません」
アルヴィスは黙った。
水が多すぎる土地。
水が足りず、作物も育ちにくい土地。
その二つが、隣り合っている。
――ならば。
頭の中で、一つの考えが形を取り始めた。
だが、すぐに首を振った。
地図の上で考えるのと、実際の土地では違う。
父が言っていた。
できることと、できないことを見極めろ、と。
「ユリウス兄上」
「何だい?」
「この辺りの地図、持ってる?」
「あるよ」
ユリウスは鞄から紙を取り出した。
アルヴィスは、村と川の位置を見比べた。
地図に描かれた線。
目の前に広がる畑。
そして、遠くの低い丘。
「……少し、調べたいことがある」
「何を?」
「この畑と、向こうの土地。どっちが低いのかな」
ユリウスは地図を覗き込んだ。
「正確には分からないな。古い測量記録なら、屋敷にあるかもしれない」
「見てみたい」
「分かった。帰ったら探してみよう」
アルヴィスは頷いた。
前世で信長が見てきたもの。
堤。
水路。
田畑。
城下町。
それらは、決して一人の力で造られたものではなかった。
この世界にも、土地を変える方法はあるはずだ。
だが、それが村人の暮らしを本当に良くするかは、まだ分からない。
「まずは、話を聞こう」
アルヴィスは言った。
「この村のことを、もっと知りたい」
*
村を出る前、アルヴィスはもう一度、あの親子を見かけた。
母親は、家の前に麦を広げていた。
男の子は、小さな手で泥を落としている。
その姿を見て、アルヴィスは立ち止まった。
「兄上」
「どうした?」
「領主の倉から食糧を出すって、父上が言ってたよね」
「ああ」
「それは、いつ届くの?」
ラインハルトは少し考えた。
「被害の確認が終わり次第だろう。急ぐよう、父上に伝えておく」
アルヴィスは頷いた。
だが、心のどこかに引っかかるものがあった。
食糧を配れば、今年は救えるかもしれない。
しかし、来年も同じことが起きたら。
再来年も、また畑が流されたら。
領主の倉にも、限りがある。
「……それだけじゃ、駄目なんだ」
思わず呟いた。
ラインハルトが振り返る。
「何か言ったか?」
「ううん」
アルヴィスは首を振った。
まだ、答えはない。
だが、問題だけは見え始めていた。
*
帰り道。
馬車の中で、ラインハルトが尋ねた。
「何か分かったか?」
「少しだけ」
「何だ?」
「水が悪いんじゃない」
アルヴィスは窓の外を見た。
「水の通り道が、悪いのかもしれない」
ユリウスが地図を覗き込む。
「川を変えるつもり?」
「まだ分からない。でも、何もしなければ来年も同じことになる」
ラインハルトは黙った。
やがて、静かに言った。
「父上にも、そう話してみろ」
アルヴィスは頷いた。
小さな領地だった。
前世で治めた国々に比べれば、取るに足らないほど小さい。
だが。
そこには、冬を越せるかどうかを心配する人々がいた。
その顔を見てしまった以上、もう地図の上の問題ではなかった。
*
その夜。
アルヴィスは、書庫で一冊の古い記録を開いていた。
ユリウスが見つけてくれた、領内の測量記録だった。
紙は黄ばみ、ところどころ文字がかすれている。
だが、川と畑の位置は読み取れた。
「……やはり」
アルヴィスは、指で線をなぞった。
南の村の畑。
その隣に広がる荒れ地。
そして、少し離れた場所にある低い窪地。
記録が正しければ、畑より低い場所がある。
そこへ水を逃がせば、畑が水に浸かる時間を減らせるかもしれない。
もちろん、簡単ではない。
水を流せば、別の場所に被害が出る可能性もある。
土を掘るにも、人手がいる。
費用もかかる。
だが。
「……試す価値は、ある」
アルヴィスは、机の上に紙を広げた。
一本の線を引く。
畑から、窪地へ。
それは、まだ何の根拠もない線だった。
本当に水が流れるかも分からない。
それでも。
今まで、ただの荒れ地にしか見えなかった場所が、別の意味を持ち始めていた。
前世の自分なら、命じただろう。
水路を造れ。
人を集めろ。
できぬなら、できる者を連れてこい。
だが、今は違う。
失敗すれば、困るのは村人たちだ。
父が守ろうとしている暮らしを、自分の思いつきで壊すわけにはいかない。
「……まずは、確かめねばな」
アルヴィスは、線の横に小さく印をつけた。
測量。
土の状態。
水の流れ。
そして、必要な人手。
調べることは、山ほどある。
それでも、不思議と胸が高鳴った。
天下を取るための策ではない。
敵を倒すための策でもない。
ただ、一つの村を守るための策。
「……面白い」
アルヴィスは、小さく笑った。
翌朝、父に話してみよう。
そう決めて、机の上の地図を畳んだ。
窓の外では、雨上がりの雲の切れ間から、淡い月明かりが差し込んでいた。
少年が引いた、たった一本の線。
それが、やがてレーヴェン領の未来を変える最初の一歩になるかもしれないことを。
まだ、誰も知らなかった。




