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2.

 そのひとは圧倒的としか言いようのないくらいに大きくて剛毅な人だった。

 彼の大きさとは体躯(たいく)だけに拠るものではなく、剛毅さは刀法の達者である事だけに由来しない。

 見上げる程に大きな体に、もっと大きな何かを湛えたひとだった。ただ傍らに居てくれるだけで安堵できた。絶対の守護を感じられた。

 しゃくりあげながら思い出を手繰る。

 決して器用ではない言葉で、けれど低く優しいあのひとの声で、大丈夫だと言って欲しかった。名前を呼んで欲しかった。あの大きなてのひらが撫でてくれたら、こんな不安なんてすぐに消えてしまうだろうと思った。

 けれど優しい思い出は、逆に心を千々に乱して脆くする。


「……駄目だ」


 強く頭を振る。柄を握り直した。

 あのひとは今、ここには居ないのだ。(すが)りもできなければ、勿論守ってなどもらえない。そもそも庇護を求めてどうする。自分は、あのひとと対等になりたいのじゃなかったのか。


「このままじゃ、駄目」


 もう一度叱咤し、そして考える。一体自分はいつから、こんな泣き虫になったのだろう。



 あの頃は、泣いたりしなかった。記憶の始まりから独りだった彼女は、ただ生きるだけで必死だった。泣く余裕などありはしなかった。砂の町で水は貴重だったし、そんな無駄な時間があるならば少しでも体を休めるか、一仕事するかをして口を(のり)するべきだった。体力がなければ走れない。走れなければ捕まってしまう。

 孤児達が盗みを働く光景はあの街では日常だった。捕まった者が憂さ晴らしに暴行を受けるのも、また。そして痛めつけられた者の末路は決まっている。

 面倒を見るものなど誰もいないのだ、動けなくなれば死ぬ他にない。頼れるのは自分ばかりで、自分だけしか世界にはなくて、世界は自分だけで完結していた。

 生来機敏で身の軽い彼女はうまくやっている方だった。けれど、所詮は子供の浅知恵だ。あの出会いがなければ早晩同じように死んでいただろう。


 そのひとを獲物に狙ったのは、茫洋として見えたからだった。旅慣れているようではあったが、どこか精気のない──弟を亡くしたばかりだったと後で聞いた──印象だった。総身に知恵が回りかねているように思った。きっと佩いた剣だって虚仮威(こけおど)しだろうと判断した。

 師の技量を知った今にして思えば、愚かにも程がある。

 喪心していようと、そのひとが身に宿した修練に偽りはなかった。懐を狙った手は容易くとらえられ、ああ死ぬんだと思った。生きていても何もいい事などなかったのに、死ぬのは怖かった。

 もがきにもがいたが、そのひとの手は離れなかった。暴れ疲れたのと、一向に訪れない暴力に不審を覚えたのとで目を上げると、


「腹が減っているのか」


 そう問われた。途端にすとんと、毒気が抜けてしまったのを覚えている。


 ──そうだ。


 彼女は自問の答えに辿り着く。彼に拾われてからだ。

 誰かと一緒に居る事を覚えて、それが当然のようになって、それを失くしたくないと思うようになってからだ。世界に自分ひとりではないと知って、人に頼る事を学んで、それで泣くようになったのだ。

 ならば、これは甘えだ。

 自分は知っているはずだ。知っていたはずだ。泣いてどうにかなる事なんて、世の中にありはしない。


「強くならなきゃ。もっと、強く」


 身も、心も。口に出してそう呟く。

 師もまた、戦いの最中のはずだった。別離の前の晩、彼は言っていたのだ。一度は逃げ出した戦いを再び始めるのだ、と。

 あの大きなひとが、逃げ出したくなるようなもの。

 それが何であったのかを、彼女は知らない。だがそのひとは、言えば必ず為す人間だった。だから今、彼は全身全霊で戦っているはずだった。

 ならば不肖とはいえあのひとの弟子が、このくらいで挫けていいはずがなかった。


 泥を払って、刀身を構える。

 振り下ろす。心気を込めて。

 刃風が鳴って、大気と雨粒とを斬り捨てる。

 それは一番最初の形。師にせがんで覚えた初めの一歩。言うなれば彼女という人間の原形だった。

 最初から、もう一度基本から始めよう。そう思う。


 やがて単純なだった動きに、足捌きが加わる。

 彼女の武器は速度だった。そして敏捷性を生かそうと考えるなら、平らな床での稽古になど意味はない。地形を、ありとあらゆる障害物を、高低差を。そうした全てを慮内に入れて、地の利として扱わねばならない。


「俺を真似る必要はない」


 かつて、師に言われた。

 その大きな体からも知れる通り、彼の戦い方の一角には、無双の強力(ごうりき)があった。

 よしんば彼の一刀を受ける事に成功しても、その受けごと薙ぎ払われ、切り伏せられる。ただ一刀のみならず、暴風のように打ち続く二の太刀三の太刀を(さば)(すべ)など皆無に見えた。

 だがそれは彼独自の刀法として昇華、洗練されたものであり、彼女の細腕に相応しいものではなかった。


「勝利を終着点と定めたとして、そこへ辿り着く道はひとつではない。何故勝ちたいかの理由がひとつではないように」


 それでもと意地を張って真似続ける彼女を、彼はそう諭した。


「お前は身の軽さに秀でる。そこを伸ばせばいい。俺には俺の、お前にはお前の答えがある。それに優劣はない」


 信じる。私は、あのひとを信じる。

 もう一度見つめ直そう。そして私の答えを研ぎ直すのだ。二度と負けないように。今度こそ守り抜けるように。

 意を決したその横顔は、けれど同時に危うさをも(はら)むようだった。

 剛性の高い刃は、耐え得る以上の力を受ければ呆気なく折れてしまう。危うさとは、例えるならばそれだった。

 その強さは、溺れた者が藁に縋る力に似ていた。

 少しずつ激しさを増す雨の中、彼女は動き続ける。一瞬だけ水面に閃く魚影の鋭さで、低く高く、軽やかに、しなやかに。速く、更に速く。

 一心のその姿は、今はただ雨に(けぶ)る。

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