第十五話
私は結局、イングリットさんのことをヨルンに話せませんでした。
彼女はきっと陰ながら息子の成長を見守っているのでしょう。
そのことを部外者である私の口からヨルンに伝えることはできません。イングリットさんが自分の口で伝えるべきです。
それからしばらくして、私は発情期を迎えました。
最初はやけに身体が熱っぽく、だるいので、何かの病気かと思いましたが、違いました。
幸いヨルンは長期間の仕事で留守なので、あらかじめワイスさんからもらっておいたドラゴン用の抑制剤と睡眠薬を飲んでなんとかやり過ごすことができました。ただし薬の副作用で、起きた時は二日酔いみたいになっていて、吐き気と頭痛で死にそうになりました。傍から見れば、いつものようにゴロゴロしているようにしか見えないので、誰にもこの苦しみを理解してもらえないのが辛いところです。
そして「天災は忘れたころにやってくる」という言葉通り、彼がやってきました。
翌朝、地響きのような音で目を覚ました私は、何かに呼ばれた気がして、フラフラと外へ出ていきました。
するとそこには、私よりも一回り大きいドラゴンがいて、本能的な恐怖を覚えました。
艶やかな漆黒の鱗に、宝石のような新緑の目、獰猛そうなかぎ爪に、大きな口にびっしりと生えた牙が、噛みつくぞとばかりに見え隠れしています。
ザイオンだと、匂いで分かりました。
彼は私に気づくと、頭を高くして近づいてきます。
興奮状態の目に知性はなく、ただ一心に私を見つめ、すんすんっと鼻を鳴らします。
猫の世界では、雄は雌の発情期に合わせて発情しますが、ドラゴンの世界も同じなのでしょうか。
私はすぐさま彼を避けて外へ飛び出すと、空を飛んで逃げようとしました。
目を爛々とさせ、言葉なく近づいてくる彼に恐怖を覚えたからです。
いっそ雲の中に飛び込んで身を隠すつもりでしたが、上昇途中で見えない壁のようなものに弾かれてしまい、下へ落されてしまいます。おそらく魔獣除けの結界が張られているのでしょう。六年前、敷地内に魔獣が迷いこんだ一件で、守りが強化されたようです。
ということはザイオンは、その結界を突き破って侵入してきたことになります。
私にはとてもできない芸当なので、雲の中に避難するのはあきらめ、低飛行で逃げ続けます。
これでも全速力で飛んでいるつもりなのですが、あっという間にザイオンに追いつかれてしまいました。
あっさりと頭上をとられ、猛禽類のような大きな両足で背中を掴まれてしまい、そのまま地面に押さえつけられてしまいます。
私は必死に暴れてなんとか拘束から逃れると、正面から彼に向き合いました。
逃げられないのなら、戦うしかありません。
私は軽く飛翔し、高い位置からザイオン目かけて炎の玉を浴びせました。
ちょうど風邪気味だったので、くしゃみならいくらでも出せます。
はっくっしゅんっ、はっくっしゅんっ……はくちゅっ。
瞬く間に辺り一面が炎に包まれました。樹木が次々に倒れていき、黒煙が立ち上ります。
野生動物が逃げまどう姿を見て、私は慌てて口を閉じました。
これ以上、無関係な動物たちを巻き込むわけにはいきません。
少しくらいダメージを与えられるかと期待したのですが、ザイオンは無傷でした。
私の攻撃は全て魔法の障壁で受け流されてしまったようです。
ドラゴンの姿をしていたので、彼が魔法使いであることを忘れていました。
おかげで火はますます燃え広がり、地面は削られ、周辺は大惨事です。
ザイオンが口を開きました。
ドラゴン語で何やらブツブツ呟いています。
その隙にまた逃げようとしましたが、身体が動きません。
魔法の力で拘束され、飛ぶこともくしゃみをすることもできなくなりました。
繁殖期になると、動物たちは死に物狂いで子孫を残そうとします。
まさかそのことを身をもって知る羽目になろうとは……。
あきらめかけたその時でした、
「イオっ」
ヨルンの声が聞こえたかと思ったら、急に身体が動くようになりました。
どうやら彼がザイオンの魔法を解いてくれたようです。
「ここは任せて。君は先生のところへ」
私はすぐさまヨルンの指示に従いました。
いそいでワイスさんの匂いがする方向へ向かいます。少し離れた場所に彼はいました。
空中に浮かんで、こちらを見下ろしています。
のんきに傍観するつもりでしょうか。
ザイオンはすかさず私を追ってきましたが、ヨルンが彼の周囲に結界を張って足止めしてくれました。
それだけでなく、結界内で絶えず爆発音が鳴り響きます。
ヨルンが同時に二つの魔法を使っているようでした。
魔法を二つ以上同時に発動することができる魔術師は、上級魔術師と呼ばれ、この国ではワイスさんを含めて、たったの五人だけ――そう授業で習ったのですが、今や六人に増えたようです。
そしてヨルンの強みはそれだけではありません。
力技で結界を突き破って出てきたザイオンにも動じず、彼は素早く杖を弓にもち変えました。
使われる矢には全て強力な魔力がこめられていて、硬い岩肌を貫通するほどの威力があります。
放たれた矢はあっさりと魔法の障壁を貫くと、そのままザイオンの固い皮膚に突き刺さりました。
悲鳴こそ上げませんでしたが、ザイオンは痛みでようやく我に返ったようです。
私を追いかけるのを中断し、ヨルンに注意を向けました。
ようやく彼の存在を認識したらしく、唸り声を上げて威嚇します。
「よく見ておくのじゃよ、イオくん。これぞ、雌をめぐる雄同志の戦いじゃ」




