第五話「ごめんねの後に……」〈4〉
部屋着にしているカーゴパンツを七分丈のチノパンに履き替え、上半身には胸に赤いラインの入った黒地のポロシャツを着込んでいた。
開かれたポロシャツの胸元からは、深緑色のタンクトップが見切れている。ベージュのチノパンも合わせ、無難な装いだ。
簡単な昼食を済ませた希人は、ほんの三ヶ月前まで自分が暮らしていた町に来ていた。
だらけきった体に夏の陽射しはきついのだろう。彼の頭には、いつぞやとある女性に「似合っている」と誉められたデニム生地のキャップが被せられていた。後にある程度親しくなる彼女と最初に出会ったのもこの町である。
駅の改札を抜けて降り立った彼の前に広がっていたは、ほんの少し前まで日常の中にあった景色。それは確かに見慣れたはずの景色なのだが、彼の胸中には言いようのない違和感がざわついていた。
希人は違和感の正体を捜し求め、駅の外へと踏み出して行く。
緩やかに続く坂道。道端の街路樹は日陰を作り、夏の陽射しから道行く人々を守っていた。気象台が観測する気温よりも涼しい木陰を歩きながら、希人は違和感の在り処を探し求める。
希人が向ける視線の先、その答えは直ぐに見付った。
坂道の脇には高台がある。そこにはいくつもの民家が立ち並んでいた。
歩道より高い位置建てられた家々は、見上げなければ視界に入らない。家々が建つ高台の斜面は、土砂崩れを防ぐためにコンクリートで覆われている。
コンクリートで覆われただけの簡素な擁壁。かつてその無機質な灰色は、ここまで露になっていなかった。
……三ヶ月前、希人がこの町の住人だった頃、この擁壁は緑に覆われていた。
何も、全面を緑色の塗料で塗っていた訳ではない。
三ヶ月前どころかそれよりずっと以前から、この擁壁はツタ植物で覆われていた。
俗に『アイビー』と総称される事もあるヘデラ属の木本。壁面緑化の素材として多く使用されるこの植物は日本にも自生種が存在している。常緑性の葉は、季節を問わず緑色に輝いていた。
しかしそのツタ植物が、今はどこにも見当たらない。こうなってしまった理由を、希人は知っていた。
「……そりゃ消し炭になっちゃったよな」
剥き出しになったコンクリートを見つめ、彼は独り呟く。
あの日、この町には邪竜が出現した。
あらゆる動植物、更には石油燃料までをも糧とし、既存の生態系を破壊する侵略者の様な巨大生物。彼らが巣くう場所の大地は丸裸になり、やせ細り枯れてゆく。
もしかしたらかつての人類も同じような存在だったのかもしれない。
しかし現在の人類は、この地球上で最も脅威となる害獣に対抗する、唯一の手段を持つ生物として邪竜と戦っていた。
……もっとも、その最前線で本当に邪竜に立ち向かうのは、人類自身ではないが。
あの日出現した邪竜を葬る事に、人類は成功した。一頭の恐竜と、坂の下に生きるもの全てを道連れにしながらではあったが意義のある行為だ。
だが、その後に残された風景は酷く残酷で物悲しいものだった。
邪竜を焼き殺す為に巻き添えになった命の数は少ないとは言えない。街路樹も雑草も、空を飛んでいた鳥たちでさえ、消し炭となり死んでいった。
「…………」
黙ったままの希人は立ち止まり、街路樹を見上げる。風に揺れている葉が、その街路樹の名が『ヤナギ』だと言う事を彼に教えてくれた。推測するまでもなく、この樹はマイクロ波フィールドを使用した後に植樹されたものだろう。
あれから三ヶ月も経った。流石にこのヤナギも今はしっかりと根付き、歩道の端にある狭小な地面の上に立っている。
もちろん三ヶ月前まで根付いていたヤナギとは違う個体だ。しかしその立ち姿を見て、「これはあのヤナギと違う」と言い張れる程、この樹の事も前に根付いていた樹の事も、希人は意識してはいなかった。
無意味な干渉に浸ってしまったと、彼は少し後悔していた。考えていても仕方がないし、何よりずっとこの場で立ち止まっていては不審者に見えなくもない。
希人は再び歩き出す。足を踏み出す前、何となく目の前の擁壁に触れてみた。
剥き出しになったコンクリートは太陽の陽射しを一手に引き受けていたのだろう。触れると、伝わってくる熱がある。
「……熱っ」
厚い手の皮に少しずつ沁み込み、内側まで届いた温度は高かった。一瞬だけ走った焼け石の様な痛み。火傷とまではいかないものの、その痛みは確かに希人の掌を刺激した。
……しばらく歩いたのだろう。振り返れば、彼が先ほど降り立った駅が小さく見える。
ここに来るまで希人が見た景色は、決して寂しげなものではなかった。
民家の花壇にはきれいな草花が植えられているし、街路樹だっていくつも見た。昼間ではその開いた姿を拝むことはできないが、アサガオが窓を覆い、天然の日除けとしている家庭も沢山ある。
しかし、この季節なら花々の間を飛んでいるだろうアゲハチョウの姿は一度も見ていない。もちろん、春先からこの土地で脱皮を重ねていた幼虫たちは、件の日に蒸し焼きとなったのだろう。だが、他の土地から飛来してきても良さそうなはずなのに、それすら見当たらない。
「まぁこんな場所、事故物件みたいなものだからな……」
希人が呟いた独り言は、強ち的外れでもないのだろう。
具体的なメカニズムが解析された訳ではないが、マイクロ波フィールドを使用した土地に産卵する昆虫の数は激減するらしい。その土地に住んでいた昆虫が死滅するのだから、当然と言えば当然なのだが、それほど単純な問題でもなかったようだ。
高い移動能力を持ち、分布を拡大する事に有利な体質を持つイナゴですら、件の土地での生息数は減ってしまうらしい。
この年の六月に発表された論文に記述されていた内容を、希人は思い出す。
また、パンゲアで働いている彼は、それとは別の事柄も新たな知識として得ていた。
〝マイクロ波フィールドを使用した後、その土地の植生はほぼ全て焼き尽きてしまう。その為、使用後の土地に住む人間で植物を育てる者には、緑化を推進するものとして助成金が分配される〟
今まで希人は考えもしなかったのだが、園芸が趣味の人間の間では割と知られた事らしい。
実際、希人が住んでいた頃よりも多くの家の軒先が色鮮やかになっている。サルビアの赤にヒマワリの黄色、紫色をしたラベンダー。
それぞれ家主や家族の好みのままに植えられた草花は、強烈な夏の陽光に負けることなく鮮やかに咲き誇っている。
草花を慈しむ事は悪いことではないだろうし、需要が生まれる事でホームセンターや園芸店が潤うなら経済活動を促進することにもなるだろう。それに植物が光合成する事で二酸化炭素は減り、少なからず空気も浄化される。
坂を上りきった希人は、振り返り町を一望する。
緑化を促進するために助成金を分配すると言った政策は成功だったのだろう。一望した数々の民家には、色とりどりの花が植えられている。
人の好みで植えられた赤、黄色、紫、ピンク、青……様々な色が鮮やかさを競い合っている様だ。それらが作り出す光景は賑やかで絢爛である。
……だがその光景には、自然の植生が持つ一体感は感じられない。
ほんの少し、寂しい気持ちになった。
視覚に強く訴えかけてくる原色の洪水は申し分ない程に鮮やかなのだが、それ故にどこか息苦しさを感じさせる。
――まるで無くしたものを取り戻す為に必死になっているみたいだな。
坂から見下ろす下町を見つめ、希人は小さく溜め息をつく。
鮮やかに色づく町に背を向け、彼は高台の一本道の奥へ進んでいった。
新幹線の線路を遥か下に見下ろせる高台。
視線の先に広がるのは夏らしい大きくて広い青空と、平地に密集した小さな民家の数々。所々に大型のショッピングビルもちらほら見えるが、高台から臨む光景の中では大して大きくも感じない。
希人が進む一本道を抜ければ、青空を一望できる公園がある。
少し歩き疲れてきたこともあり、ベンチに腰掛けて休もうと公園に入る。既に先客が居たらしい。平日の昼間から、こんな便の悪い立地の公園に来る物好きは自分だけだと思っていた希人は、先客が居た事自体に面食らってしまう。
振り向いたその顔がよく見知った人物なら尚更の事だった。