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百川海に帰す  作者: 干支ピリカ


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第五章 実践躬行 4.

4.


 洛陽炎上の報を聞いてから、数日がたった。その間、役所に新しい情報は入ってこなかった。

 三日目の夜、戦の見聞を依頼して以来、音沙汰のなかった汀が文若を訪ねて来た。

 私室の窓から忍び込む細い姿を、文若は諸手を挙げて迎えた。


「待ちかねたぞ、汀!」


 躊躇せず、文若は駆け寄って呼び掛けた。

 叩頭する汀も、文若が己を待ち侘びていた理由を承知していた。


「ご存知なんですね? 戦の顛末を」

「ああ。長安に落ちようとする董卓の軍を、孟徳殿の軍のみで追った、という話が流れてきたが……」


 真実であって欲しかった。孟徳軍だけは志を貫いたのだ、と。

 だが、噂が真実だとしたら……十万対五千、勝ち目などあるはずはない。

 孟徳の間諜は、余計なことを言わなかった。


「ご無事です。孟徳殿は生きておられます」


 きっぱりとした言葉に、文若はほっと一息ついたが、またすぐに汀に向き直る。


「一緒に戦った人々は? 妙才……夏侯淵殿や夏侯惇殿は?」


 いつか聞いた、『戻って来い』と笑う声が、耳の奥で甦る。


「ご無事ですよ。無傷とまではいきませんが、あの方たちも、他の側近の方々も皆」


 汀の声は、どこか普段より柔らかい響きを伴っていた。

 今度こそ本当に、文若の全身から強張った力が抜けた。

 文若がすとんと椅子に腰を下ろすと、汀はその場で膝をついた。


「何から、ご報告致しましょうか?」

「途中で口を挟むと思うが、初めから頼む」


 汀は頷いて、語り始めた。


「大きな戦にならなかった経緯は、既にご存知かと思います……」


 互いに足を引き合い、攻めあぐねた連合軍。

 硬直した戦場。

 呂布の台頭。

 孫堅の剛勇。

 戦場に起こった事象を、汀は手際よく紡いだ。


「董卓軍は呂布に尽きるようだが、汀が見ていて、諸侯の中ではどうだ? 目立った働きのあった軍や将はいたか?」


 少し間を置いて、汀は南の将軍の名をあげた。


「やはり孫堅殿でしょう。指揮ぶりも率いていた手勢も、群を抜いておりました。袁術殿の妨害がなければ、洛陽が焼かれることもなかったかと思います」


 それはどうかな? と文若は思う。

 おそらく董卓は、孫堅が城門に迫った時点で、洛陽に火を放つ準備をしていたはずだ。

 遷都する以上、洛陽の価値を破壊していくのは必須事項だろう。


「それと今一人、と言いますか、一群、目を惹いた方々がいらっしゃいました」

「一群れ? どんな奴らだ?」

公孫賛こうそんさん殿の軍に、客将として招かれていた劉備という男と、その配下の関羽、張飛という武人です」

「どこか聞き覚えがあるな」


 文若は頭を後ろに反らし、僅かの間記憶を辿った。


「劉備に関羽……黄巾賊の討伐軍に、いたんじゃないか?」

「はい。乱の後、功を認められ、一度は官職に就いていたようですが、現在は放浪中だとか」

「だったら、まともな人物かもな」


 今の世は、道義を貫こうとすれば、役人は続けられない。

 孟徳も、何度が官職に就いたが、その都度、決まって上と悶着を起こし、職を辞していた。

 汀は、少し口の端を上げた。


「劉備殿ご自身は、中山靖王の末裔とのことです」


 文若は視線を泳がせ、こめかみを掻いた。


「中山靖王劉勝殿は、子供が百人以上いたって話だからなあ……つまり、ありふれた出自って訳か」

「一応、天子の系図にも繋がる家系を、『ありふれた』で片付けられますか」


 汀の言葉は、笑い混じりだったが、棘も入っていた。


「天子にするっていうなら別だが、それ以外の人間は、出自なんてどうでも良い」

「それは、御身が、名門氏族の直系だから、言えるお話では?」


 ずけずけと自身があげつらわれても、文若は全く意に介さなかった。


「眼前に迫った刃は、系図では防げんぞ……とはいえ、利用できる時もあるがな」


 文若は皮肉な笑みを口に浮かべ、問い返す。


「お前から見て、どうだった? 名門袁家のご長男、袁紹殿は。立派に盟主の大役を果たされていたか?」


 袁紹は、まさしく袁家という『名』を利用するため、孟徳が盟主とした男である。

 実のところ、諸侯連合を計画立案し、実行したのは孟徳だった。

 ショウでは、妙才と調練の傍ら、孟徳の手伝いもしていた関係で、文若もいきさつを幾らか知っていた。


「尊大で慎重。押し出しが良く、実に見栄えのする盟主殿でした」


 汀は笑顔で、袁紹の外側だけの評価を、辛辣に下した。

 文若は、そんなものだろうなと半分は納得し、もう半分では失望した。


「お飾りには充分か。孟徳殿の目は確かだな。友若兄上の目は相変わらずだったか……」


 次兄の名を出した文若を、興味深そうに汀は見つめてきた。


「後で話す。汀にも手伝ってもらいたいしな」

「なんなりと、ご用命下さい」


 胸に手を当てて、汀はうやうやしく頭を下げた。

 袁紹が汀の話通りの人物なら、この先必ず、荀諶と自分との間に確執が起こる……いささか、うんざりした気分が蘇ってきた文若に、汀は思い出したように付け加えた。


「孟徳様の側近の中に、命に別状はないのですが、重いお怪我をされた方がおりまして……」


 文若は、はっと顔を上げた。


「夏侯惇殿ですが」


 その名から、文若は僅かな記憶を探る。妙才の従兄で、妙才よりも、ずっと落ち着いた印象の武人だった。


「左眼に矢が刺さったそうです」


 想像していた以上の、厳しい状態だった。

 だが、顔を曇らせた文若に、汀は反応に迷う話をした。


「何でも夏侯惇殿は、その場で、ご自分の眼ごと矢を引き抜かれたとか。また、矢に串刺しにされていた眼を、そのまま食べてしまわれたとかいう噂が、戦場を巡っておりました」

「それは……また、剛毅な話だな」


 孟徳や妙才の言葉の端々から、想像していた夏侯惇の人柄と、今聞いた荒々しい武勇伝は、どこかそぐわなかった。


(確かに、剛胆そうな人物には見えたが)


 あるいは、戦場での勇猛さを語り継ぐ際に、作られた逸話かもしれない。

 含み笑いを浮かべている汀の口元を見ていると、案外的外れな推測でもなさそうだ。

 まあ皆生きていて、それなりに元気そうなのは喜ばしいと、文若は椅子の背にもたれた。





――――――――――――――――――


…『中山靖王』は子と孫合わせて100人以上いたそうです。

…当時、この人の落胤といっておけば確かめようがなかったそうです。

…公孫賛=公孫瓚こうそんさんは次章で結構出てきます。

…劉備とは同門の先輩後輩の関係です。

…白馬の王子様という逸話が残ってます(笑)



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