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百川海に帰す  作者: 干支ピリカ


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第五章 実践躬行 3.

3.


 文若は役所に持ち込まれた、訴状の記録を読んでいた。

 竹簡は削って再び利用されるので、あまり古い物は残っていない。

 それでも、ここ十年位の物があれば、州内の大方の様子が推察できる。

 不意に、誰かに呼ばれたような気がして、文若はふっと顔を上げた。

 誰もいない部屋に、暮れかけた長い光の帯が伸びているのが見えた。


(もう日暮れか……)


 集中すると、時間の感覚が失せるのはいつものことだった。

 灯りの用意をと立ち上がると、荀衍が灯りを持って、部屋の入口に姿を現した。


「あまりに暗いので、いないかと思いましたよ」

「そろそろ灯りを点けようと思っていたところです。お心遣い有難うございます」


 いつも穏やかな物腰の荀衍にしては、どこか落ち着かない様子だった。ただ灯りを持ってきただけではないらしい。


「兄上、何かありましたか?」


 水を向けると、荀衍はためらいがちに口を開いた。


「都の様子が、伝わってきまして……」


 文若はガタっと音を立てて椅子を除けると、荀衍の前へ出た。


「それで、何か進展はありましたか?」


 逸る気持ちを抑え、文若が表面上穏やかに尋ねると、荀衍は眉間の皺を深くした。


「なんでも、董卓将軍は長安へ移ったとか。しかもその際……」


 火を…と、つぶやく荀衍の唇はわずかに震えていた。


「洛陽の都に、火をつけたそうです」

「洛陽を、焼いた!?」


 余りの暴挙に、董卓の残虐さを知る文若でさえ、しばし呆然となった。

 だが、文若はすぐに、別のことに気付いた。


「遷都……ですよね。では、天子は現在、長安にいらっしゃるのですか?」

「そのようです」


 荀衍が、暗い顔をして頷いた。

 長安は董卓の領地なので、ない話ではないと思うが、あそこは……


「昔は都が置かれていた場所ですし、確かに西方では一番の街です。しかし今では、度重なる異民族の侵攻により、かなり荒廃しているとも聞きます」


 文若の言葉に、荀衍は口元に手をやった。


「ええ。実に、痛ましいことです……」


(狙いは、何だ――?)


 荀衍の慨嘆の声を聞きながらも、文若の頭の中では、必要な情報が引き出され、様々な角度から問答が進められていく。


(洛陽を、包囲されたからか?)


 いや、城壁の中にいれば一年や二年は楽に食い繋げる。

 しかも、連合軍の士気は、その間ずっと保つとは思われない。恐らく一年を待たずに、内部から瓦解するはずだ。

 あの董卓が、それくらいの展開を見抜けぬ訳がない。


(領地が、心配だったか?)


 それはあるだろう。

 元々、董卓はあの国境の街で、辺境の部族を退けたり、融合することで強く、大きくなっていった。

 まだまだ長安周辺では様々な異民族が、漢への侵入の機会を狙っている。


(だが洛陽を取れば……天子を手中にしていれば、そんな辺境の利益、旨みなぞ、些細なものではないか?)


 それでも董卓は、『洛陽』より、『長安』を取った。


「そうか……」

「文若殿?」


 思わず小さく声を上げた文若を、荀衍が気遣う。


「いえ、何でもありません」


 文若は微笑でごまかし、当り障りのない言葉を返しながら、頭を動かし続けた。


 たとえ、今回の連合軍が瓦解しようと、洛陽に天子がいる限り、また何度も、諸侯は彼の地を得ようと機会を窺うだろう。

 それに、玉座を力で制圧した董卓を、宮廷の官吏も洛陽の民も表面上では従っているが、決して底では認めていまい。


(確かに、洛陽は内も外も、董卓には煩わし過ぎる)


 歴代の王墓が並ぶ、漢王朝の都。

 幾ら秩序が破壊されようと、洛陽が持つ歴史の重みは消しようもない。

 街のあちらこちらに、また人々の心の中にも、歴代の呪縛は深く巣食っているだろう。


(今回、諸侯が当然のように、洛陽奪還を目指したように)


 だが、ただ一人、董卓にとっては、重厚で華美な王宮も、整備され賑わう街並も、何の意味もないだけでなく邪魔なだけだろう。

 だから……全く新しい場所に都を移し、歴代の呪縛を断ち切る。


(洛陽を焼いたのは、人々に対する見せしめと……もう帰る場所がない現実を、天子や側に侍る者たちに、思い知らせるためだろう)


 加えて、新しい都を、己の慣れ親しんだ長安にすることで、人々を今度は、董卓の呪縛に嵌めることが出来る。


(しかも、これから作るという都には、当然、まだ何の重みもない)


 歴史もない。豪華絢爛な宮城があるわけでもない。

 そんな、有難みの薄い辺境の地にある都では、天子を救い出すためと言っても、そう易々と人は集まるまい。


(それでも、権威が失墜しているとはいえ、天子は天子だ……)


 天子を手中にしている限り、董卓は正式に国家を代表できる。

 諸侯が董卓の存在を、認めるか認めないかは別としても、勅命を出せる立場というのは大きい。

 なにせ諸侯に、その『諸侯』たる地位を与えたのは、『漢帝国の天子』なのだ。

 国を新しく建てでもしない限り、諸侯は天子を――実質的には『天子を有する董卓』を蔑ろにはできない。


(つまり董卓は、入れ物より中身を取ったのだ)


 この考え方は、すとんと文若の腑に落ちた。


「董卓は連合軍を恐れて、長安に退いたという話ではないか!」


 突然、甲高い声が響き、文若の思考は中断させられた。

 顔を上げると、いつのまにか荀諶が部屋に入って来て、得意げに荀衍に話し掛けていた。


「連合軍はほとんど無傷で、洛陽入場を果たしたと聞いたぞ」


(天子のいない『都』に入ったとて、諸侯に何の意味があるというのだ?)


 眉を顰める文若に気付かず、荀諶は上機嫌で続けた。


「さすが袁紹殿だ。無駄なことは為さらない」


 袁紹らが何のために挙兵したのかを、この兄は忘れているのだろうかと、文若は鼻白む。

 だが荀諶の言葉によって、疑問が一つ、文若の頭に浮かんで来た。


「友若兄上。今無傷と仰いましたが、都を出る際、董卓軍は、城外に陣を張っていた連合軍と、少なくとも一度は交戦したはずでは? 彼らが無傷だったとは、その時連合側は圧倒的優位だったんでしょうか?」


 圧倒的優位で逃げられるのもおかしな話だが……いぶかしむ文若を荀諶がにらんだ。

 話を途中で遮られて不快そうだったが、しぶしぶ荀諶は説明した。


「連合軍を恐れた董卓は、夜中を待って、連合軍が陣を張っていたのと別の門から、こそこそと逃げ出したのだ」

「ですが、あれだけの大軍が、まるで気づかれずに、長安まで逃げ切れるとも思えません」


 街に火を放ったなら尚更、連合軍が董卓の逃亡に気づくまでに、それ程の時間が掛かったとは思えない。


「無駄な戦はしないと、たった今言ったのを、聞いてなかったか?」

「は?」


 文若は本気で、荀諶が何を言っているのか分からなかった。

 物分かりの悪い弟を諭す兄のように、荀諶は文若に告げた。


「追撃はしなかった、ということだ」


 何だと?――耳に入った言葉が信じられず、もう少しで文若は、荀諶の胸倉に手を伸ばすところだった。


「逃げ出す時の兵士は死に物狂いだ。それに、せっかく辺境に引っ込むというのに、追う必要がどこにある?」


 死兵を相手にするなぞ……と、分かったようなことを話している荀諶の言葉を、文若はもうまともに聞いていなかった。


(『天子を助けて秩序を正す』という名目で集まった軍が、その天子が連れ去られるのを黙って見送ったのか……!)


 文若は、全身を包んだ怒りが、徐々に冷たい絶望へと変わっていくのを感じていた。


(最早、この国は終りだ……)


 各地の一揆や反乱は、ますます激しくなるだろう。

 非道をただす者が、この大地の何処にもいないことを、今回の戦が大々的に天下に知らしめたのだから。


「……ああ、一人いたらしいぞ。追撃した将が」


 失意に打ちひしがれた文若の耳に、荀諶の言葉は、不思議とはっきり届いた。


「たった五千騎で、十万の大軍に突っ込んで行ったらしい」


 愚かなことだ――との呟きを、文若はどこか遠くで聞いた。

 五千騎…? まさか…!


「友若兄上……追撃したという将軍の名は、お分かりか?」

「ああ? 確か曹……孟徳とか言っていたな」


 呼吸が一瞬、すっと止まった気がした。


「一時は、西園八校尉の一人として、袁紹殿と並ぶ程の武人だったと聞いたが、状況判断もできぬとはな」


『嘆かわしい』との、呟きを繰り返す荀諶の口に、手にした竹簡を詰めたら静かになるだろうかと、どこかで考えていたが、幸い実行に移すまでには至らなかった。

 文若にとっては孟徳らの安否の方が、強い気がかりだった。

 だが、荀諶は知らないだろう。

 そんな無茶を、やらかした輩が生きていると、そもそも思ってもいないだろう。


(否――孟徳殿は、絶対に生きている)


 十一で『荀家』の当主と定められた文若を、時に凌駕するほどの見解を持ち、群雄割拠のこの世に、武で名を成せるだけの勇猛さも持っている。


(しかも絶望的状況にあって、信念を貫き通せる男だ)


 孟徳になら、この乱世が収められるかも知れない。

 天下平定の可能性を持つ人間を、天がまだ召す訳がない。


(だが、十万対五千だ)


 文若は震える右手を、左手で押さえつけた。


(俺は、何でこんな場所にいるんだ……)


 戦場では大した役にも立たないが、今なら出来る仕事がたくさんあるだろうに……文若は唇を噛んだ。


 無事だと信じてはいたものの鼓動は激しく、彼らの戦場から遠く離れた場所にいる文若を、責めるように響いていた。




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