第二話 深淵杯
サイレンが鳴り止んだ頃には、A組の生徒たちは既に移動を始めていた。
長い廊下を抜け、校舎の外へ出る。
朝の空気はまだ少し冷たい。
しかし生徒たちの表情に緊張はなかった。
実戦訓練。
それはこの学園では珍しいものではない。
相手が本物の歪命であることも含めて。
だから誰も怯えない。
誰も足を止めない。
彼らは未来の星衛なのだから。
「朝っぱらから面倒くせぇな」
鬼塚虎牙が肩を回した。
「そう言いながら一番やる気やん」
橘陽菜が笑う。
「うるせぇ」
「図星やん」
いつものやり取り。
その横を蒼井澪が無言で通り過ぎていく。
神崎悠真は苦笑した。
「二人ともほどほどにな」
そんな会話を交わしているうちに、演習場へ到着する。
今回確認されたのは三級歪命。
学園周辺では比較的よく出現する等級だ。
もちろん危険ではある。
一般人ならまず助からない。
だがA組にとっては実力を測るための相手でしかない。
森林区域へ入って十分ほど。
最初に異変を察知したのは澪だった。
「……います」
足を止める。
全員の意識が切り替わった。
空気が変わる。
戦闘前特有の静寂。
木々の隙間。
その奥に黒い巨体が見えた。
獣。
いや、それは獣ではない。
四本の脚。
異様に発達した前腕。
剥き出しの牙。
黒く濁った皮膚。
歪命だった。
相手もこちらに気付く。
次の瞬間。
咆哮。
森が震えた。
「行くぞ!」
虎牙が地面を蹴る。
身体能力が一気に上昇する。
餓虎呪装。
彼の能力だ。
人間離れした速度で歪命へ接近し、そのまま拳を叩き込む。
轟音。
巨体が吹き飛んだ。
だが終わらない。
三級歪命はすぐに立ち上がる。
牙を剥き、再び襲い掛かった。
「こっちや!」
陽菜が指を鳴らす。
光が揺れた。
歪命の視界を覆う複数の幻影。
一瞬の迷い。
それだけで十分だった。
「凍れ」
澪の声。
地面から氷が噴き出す。
歪命の脚を拘束した。
動きが止まる。
そして。
「終わりだ」
神崎の影が地面から飛び出した。
本体と影。
二方向から放たれた斬撃が歪命を切り裂く。
断末魔。
巨体が崩れ落ちた。
静寂が戻る。
森を揺らしていた殺気は消えていた。
「終わったな」
神崎が息を吐く。
「楽勝やったなー」
陽菜が笑う。
「だから言ったろ」
虎牙が鼻を鳴らした。
しかし。
澪だけは倒れた歪命を見つめていた。
なにか引っ掛かる。
だが答えは出ない。
「蒼井?」
神崎が呼ぶ。
澪は視線を外した。
「いえ。なんでもありません」
そうしてA組は学園へ戻った。
◇
翌朝。
二年A組の教室は珍しく騒がしかった。
理由は一つ。
転入生。
昨日から話題になっている人物だった。
「どんな人なんやろな」
陽菜が言う。
「さぁな」
虎牙は興味なさそうに机へ突っ伏した。
窓際では澪が本を読んでいる。
いつも通りの朝。
だが教室の空気だけは少し違った。
やがて始業ベルが鳴る。
同時に扉が開いた。
担任教師が教室へ入ってくる。
その後ろには一人の男子生徒。
教室が静かになった。
教師が言う。
「転入生だ」
少年は教壇へ立つ。
特別目立つ容姿ではない。
だが不思議と落ち着いて見えた。
教室を一度見渡し、口を開く。
「水無瀬朔です」
短い自己紹介だった。
教師が頷く。
「能力名は?」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
水無瀬は迷うことなく答えた。
『深淵杯』




