12話 戦場の前夜
眠れない夜だった。
陣の中に、音はあった。兵が寝返りを打つ音。馬が鼻を鳴らす音。時折、見張りの足音が砂利を踏む。だが、それらの音はすべて小さく、夜の底に沈んでいた。
アレスは幕を出た。
空には星があった。月は薄い雲にかかって、半分だけ見えていた。南の空に、まだ敵の篝火が灯っている。昨夜より近い。明日には、あの火がもっと近くなる。
陣の中を歩いた。
◇
最初に目に入ったのは、トーマだった。
槍を抱えて、地面に座り込んでいた。眠ってはいない。目を開けて、南の闇を見ていた。
アレスは隣に座った。
「眠れないか」
トーマは少し驚いた。暗がりの中で、主君が横に座るとは思っていなかったのだろう。
「は……はい。眠れません」
「明日のことか」
「……はい。初めてなので」
「そうか」
二人で南を見た。篝火が、地平線の上にぽつぽつと並んでいる。
「殿は……眠れますか」
「眠れない」
トーマが少し驚いた顔をした。
「殿も、ですか」
「当たり前だ。明日死ぬかもしれないのに、眠れる方がおかしい」
トーマは少し黙った。それから、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「……少し、安心しました」
「安心するところではないが」
「いえ、殿も眠れないんだと思ったら……俺だけじゃないんだと」
アレスは何も言わなかった。立ち上がって、トーマの肩を一度だけ叩いた。
「眠れなくてもいい。横になっておけ。体だけは休めろ」
「……はい」
◇
少し歩くと、篝火の近くにバードがいた。
地図を広げて、石で四隅を押さえていた。火の明かりで、地形を確認しているようだった。
「バード」
「殿。眠れませんか」
「そなたも眠れないようだな」
「年を取ると、戦の前は眠れなくなります。若い頃は眠れたんですが」バードは少し苦笑した。「今は、考えることが多すぎて」
「何を考えている」
「明日の布陣の確認です。ガルト殿の配置は堅実ですが、敵がこの丘の東から回り込んだ場合の対応が少し薄い」
「エルドの窪みに二十人を伏せた」
「はい、それは聞いています。ただ、二十人で足りるかどうか」バードは地図を指した。「敵が百以上で来た場合、二十人では止められない。遅らせることはできますが」
「遅らせれば十分だ。本隊が向き直す時間を稼げればいい」
「……そうですな」バードは頷いた。「殿、一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「エルドは、明日、どこに置くつもりですか」
「私の横だ」
バードは少し間を置いた。
「……横、ですか」
「私の横で、戦場を見てもらう。見たものを、私に伝えてもらう」
「声が出なかった場合は」
「紙に書く。それを私が読む」
「戦場で紙を読む時間がありますか」
「ない時もある。ある時もある。その判断は、私がする」
バードは地図を見たまま、しばらく考えていた。
「……分かりました。殿がそう決めたのなら。ただ、一つだけ。エルドの横に、誰か一人つけた方がいい。紙を受け取って走る者が。殿ご自身がエルドの紙を読んでいたら、前が見えなくなります」
「良い提案だ。誰がいい」
「タムがいいかと。足が速い。それに、エルドと一番長く一緒にいる」
「タムに聞いてみる」
バードは頷いた。年かさの家臣が、静かに仕事をしている。こういう人間がいるから、家は回る。
◇
陣の中を歩き続けた。
篝火の周りに、兵たちが固まっている。眠っている者。起きている者。小声で話している者。一人の若い兵が、火の前で短刀を研いでいた。刃が篝火を反射して、赤く光る。隣の兵は、目を閉じて何かを唱えていた。祈りか、まじないか。
別の篝火では、年かさの兵が三人、黙って酒を回していた。一人が杯を口に運んで、隣に渡す。隣がまた飲んで、また渡す。言葉はなかった。三人の間に、言葉を超えた何かが流れていた。長く一緒にいる者同士にしか分からない空気だった。
アレスはその横を通り過ぎながら、千八百という数を考えていた。
千八百。一人一人に名前がある。家族がある。帰る場所がある。明日、そのうちの何人が帰れないのか。百か。二百か。もっとか。
数字で考えると、胸が潰れそうになる。だが、数字で考えなければ、戦はできない。
ガルトが「三日が限度」と言った。三日で決着をつけなければ、砦が落ちる。砦が落ちれば、退路が断たれる。退路が断たれれば、千八百の全員が死ぬ。
三日。
三日の間に、エルドの目が開くか。ガルトの声が届くか。丘陵の地形が味方するか。全てが噛み合えば、勝てる。一つでも外れれば、崩れる。
賭けだ。ガルトにそう言った。今も変わらない。ただ、あの時より、賭けの重さが具体的になっている。篝火の前で祈っている兵の顔を見ると、重さが数字ではなく顔になる。
◇
陣の端に、ガルトがいた。
一人で座って、酒を飲んでいた。小さな杯に、小さな瓶。城で飲んだ時と同じものだった。
「持ってきたのか」
「戦の前に飲まぬ者は信用できません」
アレスは隣に座った。ガルトが杯を差し出した。受け取って、一口飲んだ。辛かった。
しばらく無言だった。南の篝火を二人で見ていた。
「ガルト」
「はい」
「三十年で、何度戦に出た」
「五度です」
「五度の中で、一番怖かった戦はどれだ」
ガルトは少し考えた。
「二度目です」
「なぜ」
「一度目は何も分かっていなかったので、怖さも分かっていなかった。二度目は、怖さが分かった上で出なければならなかった。分かっていて出る方が、ずっと怖い」
「今回は」
「六度目です」ガルトは杯を傾けた。「怖さはもう分かっています。ただ、今回は少し違う」
「何が違う」
「これまでは、先代の判断に従って出ていました。先代の判断を信じていたから、怖くても動けた。今回は——」
ガルトは少し言葉を切った。
「今回は、アレス様の判断です。アレス様の判断が正しいかどうか、私にはまだ分からない。分からないまま出る。それが、二度目とは違う怖さです」
アレスは黙って聞いていた。
「ですが」ガルトは続けた。「分からないまま出ることは、悪いことではないのかもしれません。先代の時は、信じて出ていた。信じていたから、考えなかった。今回は、分からないから、考えている。考えている方が、間違えた時に立て直せる」
「そなたらしい考え方だ」
「現実主義者ですから」
少し笑った。二人とも。戦の前夜に笑えたのは、これが最後かもしれなかった。
ガルトが立ち上がった。
「もう一つだけ」
「何だ」
「明日、エルドが声を出せなかったら。私が代わりに怒鳴ります。エルドが見たものを、私が声にします。紙を読んで、私が叫ぶ。それなら、兵にも届く」
アレスは少し驚いた。
「そなたが、エルドの声になると」
「声だけです。目はあの男の方がいい。それは認めます」
「……ガルト」
「何ですか」
「ありがとう」
「礼を言われることではありません。勝つために必要なことをしているだけです」
ガルトは頭を下げて、自分の幕へ戻っていった。
アレスはしばらくその背中を見ていた。三十年この家に仕えた男が、エルドの声になると言った。切れと言っていた男が。認めるが馬鹿にすると言っていた男が。
変わったのだろうか。変わったのではないかもしれない。ガルトは最初から、正しいと思ったことをする男だった。エルドを切ることが正しいと思えば切れと言い、エルドの目が使えると思えば声になる。一貫している。一貫しているからこそ、怖い相手であり、頼もしい相手だった。
◇
タムを見つけた。
幕の前で、武具の手入れをしていた。
「タム」
「殿。お休みにならないのですか」
「眠れない。そなたもだろう」
「……はい」
「明日、そなたに頼みたいことがある」
「何でしょう」
「エルドの横にいてくれ。エルドが紙に書いたものを、走って私に届ける役だ」
タムは少し考えた。
「エルドの横に、ずっとですか」
「ずっとだ。戦の間、離れるな」
「……分かりました。ただ、殿」
「何だ」
「エルドが紙を書いている間、俺は何をすればいいですか」
「待て」
「待つ」
「そうだ。エルドが書き終わるまで待て。急かすな。書けたら走れ。書けなかったら、書けるまで待て」
タムは少し笑った。
「殿がいつもやっていることですね」
「そうだ。それを、そなたにも頼む」
「承りました」
タムは頭を下げた。軽い男だが、頼んだことはやる。そういう人間だった。
◇
陣の外れに、エルドがいた。
篝火から離れた場所に、一人で座っていた。膝の上に紙を広げて、暗がりの中で何かを書いている。月の光だけで書いていた。
アレスは近づいて、隣に座った。
「見えるのか、この暗さで」
「……め、が……なれ、ました」
「何を書いている」
「……あした、の……ことを」
「明日のこと」
「……てき、が……どこ、から……くるか。ど、こで……とまるか。ど、こで……まがるか。それ、を……かんがえて、います」
アレスは紙を覗き込んだ。暗くてよく見えなかったが、線が何本か引かれていた。
「エルド」
「……は、い」
「明日、そなたの横にタムをつける。そなたが紙に書いたものを、タムが走って私に届ける。声が出なくても、それでいい」
「……タム、が」
「そうだ。それと、もう一つ。ガルトが、そなたの紙を読んで声に出すと言った」
エルドの手が止まった。
「……ガ、ルト……どのが」
「そうだ。そなたの目で見て、ガルトの声で伝える。それなら、兵にも届く」
エルドはしばらく黙っていた。
「……ガ、ルト、どのは……わたし、を……きる、べきだと……いって、いました」
「言っていた」
「……いま、は……こえ、に……なると……いって、くれる、のですか」
「そうだ。人は変わる」
「……か、わった、の……ですか」
「変わったというよりも、見えたものが増えた。そなたの紙を見て、谷の分析を見て、物見が機能するのを見て。見えたものが増えれば、判断が変わる。ガルトは、見えたものに正直な男だ」
エルドはしばらく紙を見ていた。月の光が、白い紙の上に落ちていた。
「……あした……こえ、が……でる、か……わかりません」
「分からなくていい」
「……でも……でたら」
「出たら、そなたの声で言え。出なかったら、書け。書いたものを、ガルトが叫ぶ」
エルドは小さく頷いた。
「……わ、かり……ました」
二人で南を見た。篝火の数は変わらない。だが、その一つ一つが、昨日より少し大きく見えた。近づいている。
明日。
アレスは立ち上がった。
「少しでも寝ろ」
「……ね、られません」
「そうか。なら、書いていろ。ただし、朝までには一度目を閉じろ。目が疲れていると、見えるものも見えなくなる」
「……は、い」
アレスは自分の幕へ戻った。
横になったが、目は閉じなかった。天幕の布越しに、星の光がぼんやりと見えた。
今夜、四人と話した。トーマ、バード、ガルト、エルド。それぞれが、それぞれの怖さを抱えていた。トーマは初めての戦が怖い。バードは計算が合わないことが怖い。ガルトは、主君の判断が分からないことが怖い。エルドは、声が出ないせいで人が死ぬことが怖い。
そして自分は。
自分は、何が怖いか。
負けることか。死ぬことか。エルドの賭けが外れることか。
違う。一番怖いのは、明日の戦が終わった後に、「あの時ああしていれば」と思うことだ。やれることを全部やらなかったと知ることが、一番怖い。
やれることは、やった。エルドを戦場に出す決断をした。ガルトの声を借りる手筈を整えた。タムを伝令に据えた。バードの助言で布陣を調整した。丘陵の地形を使い、窪みに伏兵を置いた。
やれることは、やった。
あとは、明日。
明日、全てが試される。待ってきたものが、正しかったかどうか。賭けたものが、当たるかどうか。
怖い。
だが、怖さの中に、一つだけ確かなものがある。
ガルトがエルドの声になると言った。
あの言葉が、今夜一番の収穫だった。切れと言っていた男が、声になると言った。それは、エルドを認めたということではないかもしれない。勝つために必要だからやる、それだけかもしれない。だが、それでいい。理由が何であれ、明日、ガルトの声がエルドの目を戦場に届ける。
それだけで、賭けの目は少し良くなった。
アレスは目を閉じた。眠れるかどうかは分からない。だが目を閉じた。明日のために。




