(19)十二月、相合傘
十二月、最初の月曜日。
カレンダーを一枚めくっただけだというのに、朝の空気は十一月よりも一段と冷たくなった気がした。
玄関の扉を開けると、冷気が頬を撫でる。
吐き出した息は白く曇り、すぐに冬空へ溶けていった。
「……寒いな」
呟いて、隣を見る。
黒羽は制服の上からコートを羽織り、その首元には白いマフラーを巻いていた。
それは何年か前に誕生日に俺が贈ったもので、冬になると毎年使ってくれている。
「そのマフラー、今年も使ってくれてるんだな」
「……暖かいから」
黒羽はそれだけ答えて、再びマフラーへ口元を埋めた。
(~~っ、朝から気づいてくれるの!?♡ 当たり前だよぉ、雪透さんにもらったものなんだから一生使うに決まってるでしょ……!! 暖かいとかどうでもいいもん!! いや実際暖かいけど!! もはや雪透さんからのぬくもりが残ってる気がするし……!! はぁ、お兄さんからのプレゼントってだけで真夏でも巻ける♡)
「そっか。随分前に買ったものだし、もし傷んできたら言ってくれ。また新しいの買ってやるから」
「……いい。まだ全然使えるから」
「ならいいけど」
(何言ってるの!? 新しいのも貰ったら嬉しいけど、だとしてもこれは捨てないよ!?!? だってお兄さんから初めてもらったマフラーだよ!? 棺桶まで持っていく予定なんだけど!!)
黒羽がマフラーをぎゅっと掴んだ。
……そんなに気に入ってくれているのだろうか。
それなら、贈った側としては嬉しいものだ。
そのまま、一定の間隔を空けつつも並んで歩く。
空は朝から厚い雲に覆われていた。
雨の匂いがするような気もするが、今のところ降ってはいない。
「……そうだ、黒羽。今日は大学の講義が少し遅くまであるから、帰りは迎えに行けないんだよな」
「……そうなんだ」
黒羽が僅かに視線を落とす。
「悪い。終わったら連絡するよ」
「……うん。分かった」
(…………そっかぁ。今日はお迎えないんだ……雪透さんのお迎えがあるから毎日学校も頑張れてるのに)
(……)
(…………)
(……じゃあ、私がお迎え行けばいいのでは?)
黒羽が不意に鞄の持ち手を握り直した。
「?」
「……なんでもない」
いつも通りの無表情で、黒羽は少しだけ歩調を速める。
俺はそれに合わせて歩きながら、昨日見た黒羽の笑顔を思い出していた。
あんなふうに笑う黒羽を見たのは、随分久しぶりだった気がする。
いや――もしかすると、初めてだったかもしれない。
今日の黒羽は既にいつもの無表情へ戻っている。
それでも、なんとなく。
以前より、その奥にあるものが少しだけ近くなったような気がしていた。
(♡♥)
午後から、予想通り雨が降り始めた。
大学の講義室の窓を、細かな雨粒が絶え間なく叩いている。
(……やっぱり降ったか)
今朝は傘を持ってこなかった。
天気予報くらい確認しておけばよかったな、と今更ながら思う。
まあ、多少待てば止むかもしれない。
教授の話へ意識を戻し、残りの講義を聞く。
……。
それから一時間ほど経ち。
「――今日はここまで」
教授が資料を閉じるのと同時に講義室の空気が緩み、学生たちが次々に席を立ち始める。
窓の外を見ると、雨は止むどころか、先ほどよりも強くなっていた。
これを見る限り、数分そこらでは止んでくれそうにはない。
「……仕方ないな」
駅まで走るか。
そう考えながら鞄を肩に掛け、大学の正門へ向かった。
校舎を出たところで、湿った冬の空気が顔へ触れる。
軒下から外を見ると、灰色の空から細い雨が絶え間なく落ちていた。
物語の情景として見る雨は、嫌いではない。
窓を打つ音も、濡れた街に滲む光も、描き方次第ではそれだけで一つの場面になる。
――とはいえ、自分がその中を歩くとなれば話は別だ。
普通に、面倒である。
傘を広げた学生たちが、次々に正門へ流れていく。
小さく溜息を吐いたあと、俺も走り出そうとして――。
「……雪透さん」
聞き慣れた声に、足が止まった。
「――ん?」
雨の向こう。
正門の少し手前に、一人の少女が立っている。
白い傘に、制服。
――そして、見慣れた白いマフラー。
「……黒羽?」
見間違えるはずもない、黒羽だった。
傘の下からこちらを見つけると、いつもと変わらない足取りで近づいてくる。
その周囲では、何人かの大学生が黒羽を振り返っていた。
ただでさえ目立つ容姿なのだから、女子高の制服姿で大学にいれば当然だろう。
「どうしたんだ? こんなところまで」
「……授業、兄さんより早く終わったから」
俺の前まで来た黒羽が、傘を少し持ち上げる。
「雨降ってたし……迎えに来ただけ」
「――」
思わず言葉が止まった。
今まで俺が黒羽を迎えに行くことは何度もあった。
けれど、黒羽が俺を迎えに来たのは初めてだ。
「……ありがとうな」
自然と笑みが零れた。
「わざわざ来てくれたのか。嬉しいよ」
「……別に。私も帰るところだったから」
(はい、嘘です!!!! 学校からここまで完全に逆方向です!!!! 絶対バレてるけど開き直ってます!!!!)
(でも雪透さん嬉しいって!! 嬉しいって言ってくれたぁ……♡♡ 来てよかったぁぁ……!! 授業終わってから全力で家まで帰ってダッシュしてきてよかったよぉ……!!)
黒羽は顔を逸らしながら、マフラーへ口元を隠した。
その耳は、少し赤い。
雨の中を歩いてきて冷えたのだろう。
「それで……俺の傘まで持ってきてくれたのか?」
「…………」
黒羽が止まった。
「黒羽?」
「……忘れた」
「ん?」
「雪透さんの分、持ってくるの……忘れた」
そう言って、手元の傘を見上げる。
「だから、これ一本しかない」
「そうなのか?」
(……ほんとは忘れてません)
(ごめんなさい雪透さん、ほんとは玄関に二本並んでたし、持ってこようと思えば普通に持ってこられました、うん)
(……でも二本持ってきたら別々に傘差すことになるじゃん!! それはだめなの!!)
(だって雨の日に好きな人を迎えに行くんだよ!? そんなの相合傘確定でしょ!?!?)
黒羽は澄ました顔のまま傘を握っている。
(……珍しいな)
黒羽はかなりしっかりしている方なので、物を忘れることなど滅多にない。
つまり、それだけ俺のために急いでくれたのだろう。
「まあ、なら一緒に入ればいいか」
「…………え」
(……きた)
(きたきたきたきたきたきた!!!!)
(雪透さんから言ってくれたああああああ♡♡♡)
「黒羽が嫌じゃなければだけど」
「……別に、いいよ」
(嫌なわけない!! むしろ私にとって今日という日は相合傘のために存在してるんだから!!!!)
黒羽から傘を受け取る。
俺の方が身長が高いので、その方が黒羽は濡れにくいだろう。
「行こうか」
「……うん」
(きゃあああ!! 何も言ってないのにさりげなく持ってくれた!! 雪透さん紳士的でかっこよすぎる♡♡)
黒羽に歩調を合わせ、一歩雨の中へ出る。
ぱらぱらと傘を打つ雨音が、頭上で近く響いた。
当然だが、一人用の傘に二人で入れば距離は近くなる。
普段なら半歩ほど空いている黒羽との間に、今日はほとんど隙間がない。
歩くたび、コートの袖同士が擦れる。
「…………」
(ち、近いよ雪透さん……っ♡)
横を見ると、黒羽が俯いている。
マフラーに半分隠れた横顔からは、表情が読み取れない。
けれど、歩調がいつもより少しぎこちない気がした。
「歩きづらいか?」
「……大丈夫」
(ごめんなさい、さりげなく密着しようとして失敗してるだけです!! だってくっつけるチャンスだからくっつきたいけど恥ずかしいもん!! ……でも)
黒羽が小さくこちらへ寄る。
……腕と腕が、触れた。
「……」
「……」
会話が止まり、雨音だけが続く。
不思議と、嫌な沈黙ではなかった。
むしろこの狭い傘の下だけ、周囲から切り離されているような感覚があって、それが妙に心地よい。
しばらく歩いたところで、黒羽がこちらを見上げた。
「……雪透さん」
「ん?」
「肩、濡れてる」
言われて見ると、傘から外側にはみ出していた俺の右肩が少し濡れていた。
「ああ、このくらい平気だよ」
「……でも」
「だって、黒羽が濡れるよりいいだろ」
「――っ」
黒羽の足が止まりかける。
「どうした?」
「……なんでもない」
(あああああああああっ!!!!)
(なにそれなにそれなにそれ!!!! 相合傘してるだけでも限界なのにそんなこと言わないでよぉぉぉ♡♡♡)
(私が濡れるよりいいってなに!? 彼氏!? 旦那さん!? 王子様!? いや、全部ですよね!?!?)
黒羽はマフラーに顔をより深く埋めた。
……そして数秒後。
さっきよりさらに一歩、こちらへ寄ってくる。
「……これなら、二人とも濡れないから」
肩がぴたりと触れ合って、そこから小さく体温が移る。
「ああ、そうだな」
「……うん」
それから、黒羽はもう離れなかった。
二人分の足音と、傘を叩く雨音。
それだけを聞きながら、十二月の街を並んで歩いていく。
今日は、黒羽が俺を迎えに来てくれた。
それだけのことなのに――何故だか、いつもの帰り道が少し違って見えた。
ふとまた、隣を見る。
白いマフラーに顔を埋めながら歩く黒羽は、相変わらず無表情だった。
けれど。
触れた肩から伝わる体温は、不思議なくらい温かかった。
(♡♥)
(相合傘した)
(お兄さんと相合傘した!)
(お兄さんと、相合傘、した…………♡)
――その日の夜。
黒羽は当然のように、ベッドの上で悶絶していた。
(うわあああああああああああ♡♡♡ 念願の相合傘!! しかも途中から肩くっつけたままずっと歩いちゃった!!! お兄さん全然離れないでくれたし!! むしろ私が濡れないようにずっと傘こっちに傾けてくれてたし!!!)
(はぁぁぁ……♡ 雨、最高……♡ 合羽がこの世界から無くなりますように……♡)
枕を抱きしめ、そのまま何度もベッドの上を転がる。
(……でも、もう十二月なんだよね)
黒羽はふと動きを止め、窓の外へ目を向けた。
雨粒がガラスを伝い、夜の灯りを細く歪ませている。
(もう少し寒くなったら……これ、雪になるのかな)
――。
(…………雪の日も、傘は一本でいいよね?♡)
十二月は、まだ始まったばかりだった。




