(18)氷のお姫様
――幼い頃のわたしは、何も興味が持てなかった。
周りの子たちはみんな光を持っているのに、わたしの世界はいつも灰色だった。
みんながそれぞれの世界で輝いているなか、その眩しさの中で、わたしの心だけが凍りついていた。
――薄情なのか、人に興味が持てなくて、友達ができない。
――無気力なのか、物事に興味がなくて、趣味を作れない。
このまま一生、楽しさとも愛情とも無縁の人生を送るのだと思っていた。
――わたしはずっと、自分がつまらない人間なのだと諦めていた。
だけど、幼稚園と小学校で、それぞれ一度だけ手に取ったものがあった。
幼稚園のときは絵本。
小学生のときは少女漫画。
どちらにも共通していたのは、『お姫様と王子様』が出てくることだった。
それは〝興味〟というほどはっきりしたものじゃなかったけれど――どうしてか、絵本も漫画も、そのページだけは閉じられなかった。
物語の世界にも、登場人物にも、心を動かされることはなかった。
それでも、ページをめくるたびに、胸のどこかがかすかに揺れたような気がして。
――結局最後まで、その本やキャラクターに興味を持つことはできなかったけど。
王子様に恋して、結ばれて、幸せそうな女の子のことは――なぜだか、少しだけ羨ましいと思った。
けど、わたしはそんなふうにはなれない。
わたしの世界はいつだって氷っていて、いつだって黒いから。
唯一手に取った本の登場人物すら好きになれないわたしが、誰かを好きになれる日なんて――くるはずがない。
――そう思っていた。
だけど、王子様は突然現れた。
その日の朝も、窓から差し込む光は褪せて見えた。
お父さんに呼ばれてリビングへ行くと、見知らぬ人が二人いた。
一人は、背の高い女の人。
もう一人はその人の隣に立っていて、わたしより少し年上の男の子だった。
「黒羽。この人が、これからお前の新しいお母さんになる人だ」
お父さんがわたしに何かを説明している。
結婚すること。これからその新しいお母さんと同じ家で暮らすこと。隣にいる男の子が、わたしのお兄さんになること。
言ってることの意味は分かった。
けれど、胸の中には何も浮かばなかった。
知らない女の人がお母さんになっても、知らない男の子がお兄さんになっても、昨日までと何が変わるのか分からない。
わたしはソファの端に座ったまま、膝の上に置いた絵本へ視線を落とした。
偶然本棚から取り出した、王子様とお姫様の物語。
開かれていたページの中では、白い馬から降りた王子様が、お姫様に手を差し伸べていた。
「初めまして、黒羽ちゃん」
女の人が笑いかけてくる。
優しそうな声だったけれど、わたしは何も返さなかった。
だって、返したい言葉がなかったから。
笑顔を向けられても、同じように笑う方法も、その意味も分からない。
「――おい、黒羽。挨拶くらいしなさい」
わたしの反応を見て、お父さんの声が少しだけ低くなった。
叱られていることは分かっても、やはり口は動かなかった。
どうして知らない人に、嬉しそうな顔をしなければならないのだろう。
――そんな、いつもと変わらないことを考えていたとき。
「いいですよ」
静かな声が、お父さんの言葉を遮った。
わたしは、おもわず顔を上げた。
さっきまで女の人の隣にいた男の子が、わたしを見ていた。
「急に家族が増えるって言われたら、困るのは当たり前ですから」
その声には、怒っている様子も、わたしを可哀想だと思っているような響きもなかった。
ただ、本当に当然のことを言っているようだった。
「でも、黒羽は……」
「挨拶くらい、したくなった時でいいんじゃないですか?」
男の子はそう言ってから、わたしの前に少しだけ腰を落とした。
近づきすぎない場所で、視線の高さだけを合わせてくる。
その動作に驚いて、膝の上の絵本を持つ指に力が入った。
「俺は雪透。氷川、雪透」
透き通った声で、男の子は自分の名前を告げた。
「今日から君の兄になるらしいけど、すぐに兄だと思わなくてもいいよ」
わたしの顔を覗き込もうとはせず、無理に返事を求めることもしない。
ただ、わたしが言葉を見つけるまで待つように、そこにいてくれた。
「でも、困ったことがあったらいつでも言ってくれ。俺にできることなら手伝うから」
そう言って、雪透さんはほんの少しだけ笑った。
「これからよろしく、黒羽」
――その瞬間。
胸の奥で、何かが大きく鳴った。
今まで一度も聞いたことのない音だった。
息を吸ったはずなのに、空気が喉の途中で止まる。絵本を握っていた指先と、彼の声を聴いていた耳が急に熱くなって、目を逸らしたいのに、雪透さんの顔から視線を外せない。
それまで人の顔なんて、どれも同じだった。
誰が笑っていても、誰が泣いていても、わたしには何の違いもなかった。
けれど、雪透さんの目も、声も、笑った時にわずかに緩んだ口元も――なぜか一つも見逃したくないと思った。
そんなことを考えている間に、雪透さんが立ち上がろうとする。
……わたしの前から離れてしまう。
そう思った途端、身体が勝手に動いていた。
「……」
伸ばした手が、雪透さんの服の袖を掴む。
自分が、何をしているのか分からなかった。
ただ、この人が遠くへ行ってしまうことだけが、どうしようもなく嫌だった。
雪透さんは驚いたように足を止めたけれど、袖を掴んだわたしの手を振り払わなかった。
「どうした? 黒羽」
また、優しい声でわたしの名前を呼ぶ。
何かを言わなくてはいけない。
そう思うのに、胸の中に生まれたものは大きすぎて、言葉にする方法が分からない。
唇を何度か動かして、ようやく出せたのは――
「……ゆきと、さん」
さっき教えられたばかりの名前だけだった。
それでも雪透さんは、嬉しそうに目を細めた。
「ああ。ちゃんと覚えてくれたんだな」
雪透さんの手が、わたしの頭へ伸びる。
逃げることも忘れて固まっていると、大きな手のひらが、髪の上にそっと触れた。
「ありがとう、黒羽」
初めて触れた雪透さんの手は、温かかった。
あの時まで、わたしは世界に色があることを知らなかった。
カーテンが薄い水色だったことも、テーブルの木目が淡い茶色だったことも、開いた絵本のお姫様が桃色のドレスを着ていたことも。
全部、あの日に初めて見つけた。
世界のすべてが変わったわけではない。
お父さんにも、新しいお母さんにも、学校にも、相変わらず何の興味も持てなかった。
――ただ一人。
雪透さんだけが、わたしの灰色の世界に色を持っていた。
そしてあの日から、もう一つ変わったことがある。
お父さんが再婚したから変わっただけの、名字。
きっと、他の人にとってはそれだけのことなんだろう。
だけど、わたしにとっては違った。
雪透さんと同じ名前をもらったあの日、初めて自分の名前を好きになれたから。
――わたしはあの日から、氷川黒羽になった。
あれが一目惚れだったのだと、今なら分かる。
そのあともずっと優しくしてくれたことも。
いつでもわたしを守ってくれたことも。
わたしのために小説家になって、たった一人で養ってくれたことも。
今の気持ちをこんなに大きくした理由なら、いくらでも挙げられる。
けれど、それは全部、恋をした後に積み重なったもので――きっと、後付けの理由に過ぎない。
わたしは雪透さんがどんな人なのかを知るより先に、もう恋に落ちていた。
きっと、どんな出会い方をしても同じだった。
だって、わたしの目も、鼻も、耳も、指先も、心臓も、全てがあの人に反応してしまったから。
雪透さん〝だけ〟に。
――お姫様が王子様に恋をする瞬間に、理由なんていらない。
わたしにとっては、あの日がそうだった。
中学に上がってからは、私を『氷のお姫様』なんて呼ぶ人もいた。
〝お姫様〟はよく分からないけど、〝氷〟のほうはよくわかる。
私は生まれた時から、心も、表情も、全てが凍りついていたから。
けれど、本当の氷は、あのときに溶けている。
今の私に張っている氷は、あの人への感情を隠すための作り物。
――それは、あの人が触れただけで簡単に溶けてしまうけど。
それくらい、この気持ちはわたしにとって絶対で――
――私の世界は、あの人だけを中心に回っている。
(♡♥)
「黒羽、じっとしてどうしたんだ?」
俺は、隣で動きを止めた彼女に声を掛けた。
黒羽は、アルバムの上に指を置いたまま、しばらく動かない。
光を受けた髪がわずかに揺れて、伏せた瞳に影が落ちていた。
「…………」
顔を上げた黒羽が、ゆっくりとこちらを見る。
その表情には、どこか遠くを見ていたような静けさがあった。
「……ううん。なんでもないよ」
(……雪透さんと出会えなかったら……私は一生、氷の中に閉じ込められたお姫様のままだったんだろうな)
そう言って目を閉じた彼女の横顔を、ただ見つめる。
ページの端が風にめくられて、写真の上を光が滑った。
――。
「……私、雪透さんと出会えて良かった」
一瞬、時が止まった気がした。
(……今はこれくらいしか言えないし、心の中で妄想することしかできないけど……いつか、絶対に)
さっき見ていたアルバムの中の黒羽は、今よりも瞳の灰が強く見えた。
けれど、いま俺の瞳に映る少女の瞳は――。
光が差し込む窓の向こうで、風がやわらかくカーテンを揺らす。
――黒羽が一度だけ、はっきりと微笑んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
18話で、書籍一巻想定ではラストの回となります。




