(02)いつもと少し違う朝
朝、大学へ行く準備を済ませて玄関に向かうと、黒羽が後ろから声をかけてきた。
「兄さん、これ。……お弁当作っといたから。要らなかったら捨てて」
相変わらずの無表情で冷たくそう言うと、黒羽は小さな動作で弁当を差し出してくる。
いつも、朝に家を出るのは俺の方が少し早い。
……そして、こんな物言いをしている黒羽だが、黒羽が朝に弁当を渡してこなかったことは一度もない。
俺がどんなに早く家を出る時でも、黒羽は必ずそれより先に弁当を用意して渡してくれる。
そう。平日の昼はお互い学校があるので家で食卓に着くことはないが、黒羽はわざわざ早起きしてまで朝飯と昼飯を二人分用意してくれているのだ。
(……やっぱり嫌われてはないんだよな。
そして、純粋にいい子すぎる)
「捨てるわけないだろ。いつもありがとう、頂くよ」
俺は少し微笑んで、黒羽の弁当を受け取る。
受け渡しの時、黒羽の指が一瞬ぴくっと動いた気がする。
黒羽は少しの間の後、「……ん」と小さく短い返事を返してリビングに戻っていった。
受け取った弁当を鞄にしまい、玄関のドアに手を伸ばす。
――しかし、俺はあることを思い出した。
昨日の夜、スマホのニュースアプリで近辺のニュースを見た時、近場で通り魔事件があったらしい。
被害者が犯人と揉み合いになった際、近くに人がいて助けを求めたため大事には至らなかったそうだが……襲われるのがか弱い女子だとしたら、取り返しのつかないことになるかもしれない。
朝は比較的安全とはいえ、最近は物騒な世の中だ。安心は一切できない。
「よし、決めた」
――そう。仮にこれが杞憂だとしても、結果的に何もなければそれでいいのだから。
思春期の妹に「一緒に登校しよう」と誘うことはそれなりにハードルが高いが――それで多少なりウザがられるとしても、そんな自己保身よりも黒羽の方が遥かに大切だ。
すぐに考えがまとまった俺は、靴を脱いでリビングへと向かった。
「黒羽」
「っ!?」
俺が声をかけると、黒羽はびくっと肩を震わせた。
慌てた様子で口元を押さえる。
……普通の声量だったと思うが、そんなに驚かせてしまっただろうか?
「ご、ごめんなんでもない……なに?」
(――え、さっきお弁当渡した時に触れた指の匂い嗅いでたのバレたかな!?
でもさすがに舐めようとしてたところまでは見られてないよね!?!?)
※これは黒羽の心の中のため、雪透には一切聞こえていません。
「ああ……ふと、昨日のニュースでこの辺りで物騒な事件があったらしいのを思い出してな。
心配だから、しばらくは学校まで送り迎えするよ」
「……」
(……えっ!?!? それって私のこと心配してくれてるの!? ていうか今『心配』ってはっきり言ったよね!?!? けどそれにしても近所で事件があっただけで送り迎えしてくれるくらい私のこと心配なの……!?!?
あああああもうむり、これ以上優しくされたら雪透さんのこと襲っちゃうよ!! え襲っていいのかな!?!? いやそんな勇気ないけど!!!!
……ってそうじゃないでしょ私!!! 雪透さんが私の身を案じてくれてるのに、それを無下にするなんて絶対できないよ……! 恥ずかしくてもここは勇気を出して甘えなきゃ!!)
「……うん。ありがとう」
…………。
(あああああ私のばか!!! なんで私は『心配してくれて嬉しい』って素直に言えないの!?!?)
黒羽が顔を逸らしながら小さく礼を言う。
どうやら、抵抗はあるが俺の心配を受け入れてくれたということらしい。
「ん。行こうか」
「……はい」
(はぁ、でも……お兄さんに朝から優しくしてもらえて幸せ……♡
――っていうか、これってよく考えたら登校のお誘い……!?!? 心配されたのが嬉しすぎて全然気付かなかったけど、よく考えたら初のお誘いじゃん!! いやそりゃ小さい頃は一緒に行くこともあったけど、最近恥ずかしすぎてすぐ逃げちゃってたし!! やばい嬉しすぎる、私意識保てるかな……♡
それに一緒のおうちから出て登校とかなにそれ恋人通り越して夫婦じゃん……つまり学生結婚ってこと?? もちろん私は大歓迎ですけど!!!
学校の前でクラスの子とかに見られちゃったらどうしよう……恋人だと思われちゃったりするのかな……!? あっ横顔かっこいい♡♡)
(♡♥)
俺は黒羽と一緒に玄関から出て、黒羽の学校までの通学路を歩く。
彼女が通う高校は、この辺りでは有名なお嬢様学校だ。
黒羽は元々頭の出来が良かったし、出会った頃から勉強も真面目にやっていたようなので、レベルの高い学校でも問題なくやっていけているだろう。
ここでふと、頭に浮かんだ疑問を口にする。一緒に登校する機会などあまりないわけだし、これは黒羽のことを知れるチャンスかもしれない。
「そういえば、黒羽はどうしてわざわざ女子高を選んだんだ? 黒羽の学力なら、今よりさらに偏差値が高い学校でも行けただろうに。受験のかなり前から今の学校に決めてた感じだったよな」
「……別に。他にいい学校がなかっただけ」
……いつも通り冷たく切り返されてしまった。
まあ、嘘を吐くような子ではないし、言う通りで特に深い理由はないのかもしれない。
……。
(えええええええ!? 今のってどういう質問!?!? お兄さん私のこと気になるの!?
ほんとは雪透さん以外の男の子と関わりたくないからだけど!! 中学の時は告白とかされてほんとにめんどくさかったし……この辺じゃ今の学校以外女子高が無かったから選択肢なかったの!! それに雪透さんに真面目だと思われたいから勉強も頑張ってきたし……! うんだから嘘はついてないよね!!!
……あぁ雪透さんに興味持ってもらえるの嬉しいな……♡ 昨日から立て続けに幸せなことが起こりすぎてもう気絶しそう……)
――なんだか、いきなり黒羽の足元がふらふらと不安定になった気がする。
「おい、危ないからあんまり離れないでくれ」
黒羽の腕を掴んで軽く引き寄せる。
不審者だけでなく、車や自転車との接触など、外には様々な危険がある。
安全のために送るのだから、全てのことから守ってやらなくてはいけない。
……黒羽は俺のたった一人の義妹で、かけがえのない存在だ。黒羽にもし何かあれば、俺は死んでも死にきれないほど後悔するだろう。
「……ごめん」
黒羽は素直に謝ると、先程よりも近い距離で歩き始める。
(!?!?!? え、いま腕……腕掴まれたよね? 幻覚じゃないよね……?? 感触残ってるし……離れるなって言われたし……え?? 幻覚じゃないなら夢?? だって現実なら気絶しててもおかしくないし……あっでも私の心臓の音うるさっ……これ現実じゃん……えってことは私たち付き合ってる? えこれもう付き合ってるよね?? そうだ今日はお赤飯炊かなきゃ……あれお赤飯は違うんだっけ、頭がふらふらして何もわかんない……。
…………って、私のバカぁぁ!!! お兄さんは私のこと心配して引っ張ってくれただけなのに何考えて……! お兄さんに心配かけないようにちゃんと歩かなきゃ……!!
……ああでもお兄さんに体触られちゃったのはほんとなんだ……言われなくたって一生離れられないよお……♡♡)
そのまま無言で歩き続け、黒羽が通う高校に到着した。
黒羽の学校は家からかなり近いので、送り迎えも楽である。
――これなら、毎日送っていっても十分自分の大学に間に合いそうだ。
「……送ってくれてありがとう」
(はぁ……今日から毎日お兄さんと一緒に登下校できるなんて……♡ ほんとに生きててよかった……♡
物騒な事件があったおかげで送り迎えしてくれることになったんだし、不謹慎かもだけど犯人の人に感謝しなきゃ……! そのまま一生お姫様みたいに守ってもらお♡♡
一旦離れるのは寂しいけど帰りまた迎えに来てくれるんだよね……♡)
校門の前で、黒羽が小さく礼を言ってくる。
どれだけ返しが冷たくても、やはりなんだかんだで礼儀正しい良い子だな、と改めて思う。
「ん、帰りも校門まで迎えに来るよ。俺こそ弁当ありがとうな」
「……うん。学校終わったら早めに連絡するから」
(こんなかっこいい人が私のお兄様なんて……あぁクラス中の女の子に自慢したいのに、それ以上に誰にも見せたくない……♡ 一生私だけのお兄ちゃんでいて……♡♡)
「ああ。勉強頑張って」
……今日の登校で黒羽の内心を少しでも暴けたとは思えないが、まあ、こうして安全に送り届けられただけでも今朝のところは十分だろう。
学校の玄関へと歩いていく黒羽の背中を最後まで見送って、俺も大学に向かうことにした。
(……あぁ……大好きだよお兄ちゃん……♡)
大学に向かう義兄の後ろ姿を、壁に隠れて熱い視線でじっと見つめている義妹には――雪透を含めて誰も気付かなかった。




