(17)前日の余韻と記憶のアルバム
日曜日の朝、黒羽はいつもより少し遅めの時間に目を覚ました。
上半身を起こすと、ベッド脇に並んだ二つの紙袋が目に入る。
寝る前に何度も眺めては触れたせいで、袋はくしゃくしゃになっていた。
軽く髪を整えて部屋を出る。階段を下りる途中、包丁がまな板を叩く音が聞こえた。
湯気の混じっただしの香りが、廊下の奥まで届いてくる。
そのまま下りると、リビングの手前で足を止め、壁の陰からそっと顔を出して覗く。
――エプロンを掛けた雪透が、フライパンを傾けて卵を返していた。
手首の返しが軽く、口元はほんのりと緩んでいて、普段の無表情な横顔が少し柔らかく見える。
よく観察していると、息に紛れて小さな鼻歌が漏れているのが分かった。
「……?」
(お兄さんご機嫌なのかな……? 珍しい!! なんでか分からないけど、お兄さんが元気だと私も嬉しい……!! ていうか小さく鼻歌歌ってるお兄さん可愛すぎるんだけど!!♡♡)
(……あ、でももし彼女できたとかだったら死のう……。……いやでもこの前約束してくれたからそれだけは絶対ない!!)
壁の陰から一歩出て、リビングに入る。
足音に気づいた雪透が、顔を上げた。
「あ、黒羽おはよう」
雪透の声に、黒羽は小さく息を吸ってから、
「……おはようございます」
(きゃああ目の前で見ると相変わらずかっこよすぎて目がつぶれそう♡♡昨日あんなことしたあとだから余計にドキドキしちゃう……!! あっしかも昨日初デートだし……!! 幸せの情報量が多いよぉっ……!!)
胸の奥で暴れる鼓動を押さえながら、平静を装って挨拶を返した。
声の高さが普段より少し上ずった気がして、黒羽は慌てて視線を落とす。
「……寝坊してごめんなさい。朝食、作ってくれたんだ」
まだ眠気の残る響きの声に、雪透は一度手を止めた。
目が合うと、雪透は穏やかに微笑んだ。
「久しぶりの外出で疲れたんだろ、気にしなくていいよ。すぐに出来るから座って待っててくれ」
その声があまりに優しくて、黒羽は顔のにやけを誤魔化すように視線をそらした。
「……ん」
黒羽は頷き、足元を見ながらテーブルへ向かう。
椅子の背を軽く引くと、脚が床を擦って短い音を立てた。
テーブルには箸が二膳、カップは二つ置かれている。
腰を下ろした黒羽の前に、雪透が皿を順に並べていく。並びの整った光景には、雪透の几帳面さが滲んでいる。
卵焼きと焼き鮭、白米を並べ、最後に味噌汁を置いてから向かいの席に座った。
それぞれのカップに、ココアとコーヒーが注がれる。湯気が立ち上り、朝の空気に甘さと香ばしさが混じった。
「いただきます」
「……いただきます」
箸先が静かに動き、茶碗を置くたびに小さく音が重なる。
黒羽は姿勢を保ったまま、視線を落として料理を口に運んでいく。
雪透はいつもと変わらぬ速さで箸を進めながら、向かいの黒羽を見た。
その落ち着いた仕草に、昨夜の出来事がふと頭をよぎる。
(……昨日見たアレは、見間違いだったのだろうか)
箸を止めたのはほんの一瞬。
その小さな疑問は、すぐに朝の穏やかな時間に流された。
そのまま会話もなく、食事は落ち着いた速度で進んだ。
食器が空になったのを見て、黒羽が先に席を立つ。
「洗い物、やっておくから」
「ありがとう。任せるよ」
雪透の言葉に軽く頷いた後、湯呑みを重ねて流しへ運んだ。
蛇口をひねると、水音が一定のリズムで響く。スポンジを取り、順に皿を洗い始める。
雪透は洗面所で身支度を整えたあと、自室に戻ってコートを手に取る。
玄関に向かう前に、リビングの入り口で黒羽に声を掛けた。
「少しジムに行ってくる。昼頃には戻るよ」
「……行ってらっしゃい」
扉が閉まり、鍵の音が短く響く。
――数分後。
洗い物を終えた黒羽はシンクの水を止め、布巾で手を拭いた。
(……よし)
周囲を見渡し、家の中が静まり返っているのを確かめる。
雪透の気配がどこにもないと分かると、黒羽は早足で階段を上がっていった。
(♡♥)
階段を上がって自分の部屋へ向かう途中、兄の部屋の扉が少し開いているのに気づいた。
(あれ、お兄さんの部屋の扉が少し開いてる……? 几帳面なのに珍しい……お仕事で疲れてるのかな? ……も~っ♥家の中だからって不用心だなぁ、危ない人もいるかもしれないのに♥うん、ここは私がパトロールしてあげないと!! そうこれは義妹としての義務!! お兄様の聖域は私が守らなきゃいけないんだから♡♡んー私ってばできた義妹かも……♡ついでにお掃除もしてあげないとだし、色々触っちゃっても仕方ないよね?♥)
自分の部屋に戻るつもりだった足が、その場で止まった。
(ほんとは自分の部屋に戻って昨日の続きするつもりだったけど……お兄さん、お昼まで帰ってこないし……♡)
昨日のデートの余韻がまだ胸に残っているせいか、気持ちが勝手に前へ出てしまう。
私はそっと扉に指をかけて……一応音を立てないようにして、部屋の中へ入った。
部屋の中は整っていて、空気には、嗅ぎ慣れたお兄さんの匂いがうっすら漂っていた。
ベッドの上には、畳まれたパジャマが置かれている。
私は足音を殺して近づき、顔を寄せて――すんすん、と鼻先で匂いを探った。
「……♡」
(やっぱりお兄さんが脱いだばっかりの服はいい匂いする……♡……これはまだ洗濯しなくて大丈夫だね♡そう、私はあくまでお兄さんのお手伝いに来たんだから……♡)
ふわふわの布団に視線が移る。胸の奥が〝きゅっ〟として、もう我慢できなかった。
呼吸が速くなり、意識よりも先に身体が動く。
布団に手をついて身を預ける。
〝すりすり〟と頬を寄せ、シーツの上にも身体を滑らせる。
「はぁ……♡」
匂いを感じるたびに勝手に息が漏れて、頭がぼんやりしていく。
どうしても自分の匂いを残したくて……頭や首筋を、ベッドにこすりつけた。
(はぁ、はぁ……♥これはちがうの、仕方ないの……♥これも義妹としての義務だから……♥)
――何度も顔を埋めているうちに、体の熱が収まらなくなってくる。
我慢しようとしても、手が勝手に布団を探していた。
呼吸が乱れたまま、布団に潜り込み、枕に顔を押しつける。
ふわりと沈む感触と大好きな匂いに包まれて――心臓の鼓動が、さらに速くなる。
それでも心の中のざわめきは収まらなくて――思わず唇を噛みながら、私は思った。
(うぅ……もういっそ、ここでこのまま……♥)
――その瞬間。
階下で、鍵の金属音が鳴った。
玄関が開く音がして、心臓が思いっきり跳ねる。
(っやばいやばいやばい!!!)
私は枕から顔を離し、乱れた服の裾を整えて飛び起きた。
扉を静かに閉め、廊下へ出る。息を整えようとしてもうまくいかない。
階段を下り、玄関まで小走りで向かった。
「おっ、おか、えり……っ、はや、かったね……」
(ああああぶなかった……!! あれ以上やってたらバレるところだった……!! うぅ、息が全然落ち着かない……♡頭の中、まだお兄さんの匂いでいっぱいだし……♡)
「ただいま黒羽。……なんか息荒くないか?」
私は首を横に小さく振り、いつも通りに見えるよう姿勢を直す。
――。
どうやら、ジムが混んでいてやりづらかったので早めに帰ってきたらしい。
(嬉しい!! 嬉しい、けど……っ!!)
胸がまだ落ち着かなくて、息を整えても鼓動が早いままだった。
色々な感情が交差しすぎて――もう、わけが分からない。
「じゃあ、俺は部屋で少し休んでくるよ」
「……うん」
いつも通りの声を出せたことに、ほっとしながら小さく頷く。
軽く頷き返したお兄さんは、そのまま廊下を歩いていった。
足音が階段を上り、二階で扉の開く音がする。
私はそれを聞きながら、胸に手を当て、深く息を吐いた。
その頃、雪透の部屋では――
(……? 俺の部屋から甘い匂いがする。覚えのある匂いだな……)
黒羽が部屋中に刷り込んだ匂いのせいで、気付かれる寸前だった。
(♡♥)
昼下がりのリビング。
洗い物を終えてキッチンから戻ると、ソファに座ったお兄さんが膝に大きなアルバムを広げていた。
私は背もたれの後ろで足を止め、しばらく眺めてからそっと声を掛ける。
「……雪透さん、なにしてるの?」
「ん? ああ、部屋を整理してたら古いアルバムを見つけてさ」
ソファの脇に立ち、少しかがんで覗き込む。
フィルム越しに古い写真が並んでいて、幼い私が写っているのが見えた。
小さい体で――けど、今と同じ顔をして立っている。
「……それ……私を見てたの?」
「ああ……出会った頃はこんなに小さかったんだなって」
お兄さんは目を細めて、もう一度同じ写真へ視線を戻した。
「……出会った、ころ……」
私は呟きながら、ページの端に指を添えた。
心の中で、その言葉をゆっくりと繰り返す。
視線が写真の中の『二人』に留まったまま、胸が静かに熱を帯びる。
息をひとつ置き、瞼を閉じると――
視界の奥で、緩やかに景色が入れ替わっていくのを感じた。




