オリビア。
あの日から一月
※※描写はありませんが色っぽい方向に話が進みます。ご注意ください。
魔の国に来てから一月が過ぎた頃、私達のささやかなお城ができあがった。有り余る土地を広く使い、土で固めた風情ある平屋が赤茶けた大地の上に寝そべっている。
想像していたよりもとても素敵なこのお城に、私は笑顔で頷いた。隣のブライクさまも感慨深げに頷いて、屋敷の修理はこれで終わりにすると宣言した。使用人達から歓声が上がり、酒を用意するために何人かが使いに出て行った。
地酒を少し舐めただけで顔が真っ赤になってしまった私は、酔いをさますために男達の輪から離れ屋敷の庭となるであろう場所をなんとはなしに歩いていた。
すると、ドタバタと慌てた様子の足音が響いて、私はいつの間にか女達に囲まれていた。何かを問う間もなく、私は湯殿に連れて行かれると彼女達に服をはぎ取られた。
私は驚いて女達の顔を見渡した。けれど彼女達はそんな私を知ってか知らずか陽気にはしゃいでいて、あけすけに下世話な話を始めた。
「随っ分っご無沙汰のようだがら、今夜は寝れませんよぉ、奥様。」
その言葉に、私は俯いた。私とブライクさまは、そもそも人の国で結婚してから既に数ヶ月が経っている。二人がまだ清い仲だとは誰も思いもしないだろう。
私はいつか来るであろうその日にむけて、少しずつ心の準備はしてきたつもりだ。けれど、いざ今となると、緊張で体が強張り心臓が口から飛び出しそうだ。
「ご主人さっま、さっき、そっわっそわしてたっ。」
女達が笑いながら、私の体をお湯で濡らした布で拭いていく。
湯殿といっても、水不足の我が領地では浴槽に湯を張るわけではない。そもそも浴槽に湯を張れるのは、人の国でも王族もしくは有力貴族か、魔の国では水が豊富な魔都周辺の貴族ぐらいだろうか、人の国の実家の伯爵家にはそのような習慣はなかった。私がはじめて湯に浸かったのはブライクさまと婚約して侯爵家に入った後で、それも月に一度あるかないかという程度だった。
この屋敷の浴槽などない石造りの広い湯殿は、恐らく私一人のために作られた部屋だと思う。というのも、魔の国の建物は風通しをよくするためか明け透けで、あまり閉じられた空間がない。湯殿も開かれていて、中が見えたり見えなかったりするらしい。ブライクさまがその案を不採用にし、屋敷の修理で一番はじめに手を着けたのが閉じられた湯殿だった。そしてここは男子禁制となり、今では女達の秘密のサロンの様になっている。女達はここで外ではできないような話をするので、私には刺激的すぎるけれど聞いていて楽しい。
それはさておき、体を清めた私はいつもとは違う甘い匂いの香油に包まれた。
「まあ、いい香りね。」
何か話していれば緊張が和らぐかと、私は塗られた香油に意識を集中した。
「こっれは、魔っの国の香油で、男っの人をっその気にさっせる匂いっさ。」
そ、その気とは、一体どんな気になるのだろう。私は不安に思いながら、けれどこの香りが貧相な体を少しでも魅力的にみせてくれたらいい、そう願い女達に準備を任せた。
薄い夜着をまとった私は、不安から立ったり座ったりを繰り返し、さらには寝室の中を歩き回っていた。そこにドアをノックする音が部屋中に響いた。それはとても軽いものだったけれど、私の体はびくりと震え、体中が急に熱くなりどくどくと流れている血がふっとうしそうになった。
「どうぞ。」
緊張しすぎて裏がえってしまった声が恥ずかしくて、私は両手で顔を隠した。
スッと部屋に滑り込んできたブライクさまは、そんな私を見て笑ったようだ。私の腕を引っ張って、自分の体に引き寄せる。
開けた視界の先にいたブライクさまは見るからに上機嫌で、酒のせいか少し朱色になった頬はなんだか色気があって私はまっすぐその黒い瞳を見つめることができなかった。
けれどそんな私の心は、急に変化したブライクさまの表情を見て、萎んでいった。
酒に酔い塗れて夢見心地だったブライクさまの目元が、急に乾いて冷静になっていくのを私はただ見ているしかなかった。襲いかかるような不安に口の中が乾いていく。
何も言わず体を離したブライクさまが、申し訳なさそうに頭を振った。
初等学校に通っていた頃、私は目立たず友達も作らず静かに授業だけを受けていた。そんな時、偶々、男の子達が噂話をしているのを聞いてしまったことがある。オリビア。突然名前を呼ばれて驚いて本から顔をあげたけれど、すぐに実際に呼ばれたのではないことに気がついた。誰かが私の事を、噂していたのだ。まさか当の本人が本棚の反対側に寄りかかり本を読んでいるとは知らずに。あの子は貧相で全然魅力がないよな。女としてどうなんだろう。私ははっきりと耳に届いたその言葉を、目を閉じ、聞かなかったことにした。
私の体に魅力がないことは、私が一番わかっている。ブライクさまもそう思ったのだろうか。
「すまない。無理だ。」
そう、思ったのだろう。子供のような私に、やはり興味はわかなかったのだ。
「いや。違う。やめておいた方がいい。」
私は静かに頷いた。
「わかりました。」
動揺している彼の手を掴んで、いいのですとなだめる。
「仕方のないことです。」
私は何事もなかったように、上着を羽織ろうと足を一歩踏み出した。
その時、ブライクさまには珍しく切羽詰まった声が部屋中に響いて、私は力強い腕に抱き込まれた。
「違う。誤解だ。すまない。」
私はその続きを聞くのが怖くて、けれど聞かなければブライクさまと向き合えないと、目を閉じ、次の言葉を待った。
「君はたぶん思い違いをしている。そうじゃない。」
ブライクさまは何かを否定してから、すまない、そう謝って、囁いた。
「君が余りにも小さくて、驚いたんだ。」
全く意味が理解できない。眉間にしわを寄せて、私は首を傾げるしかなかった。
「なぜかはわからない。だが、俺の中で君は、なんというか大きな存在で、もっとしっかりとした女性だと思っていた。」
私の体を確かめるためか、ブライクさまが肩や腕をおそるおそる触ってきた。
「それがこんなにも細くて、か弱いとは。」
まるで家畜を検分しているような姿に、先程の色っぽい雰囲気はどこにいってしまったのだろうと私は複雑な気分でうつむいた。
「それとも、ここに来て痩せたのか。」
いいえ、私は頭を振った。まるで父親のような発言に、少し笑ってしまった。
「片手で、君の首を折ることができそうだ。」
ブライクさまがゆっくりと右手を伸ばして、私の首を撫でる。確かに、私の骨格は華奢で、骨が細い。体が薄いと姉達からは言われていた。その上肉付きも悪く、いくら食べても太らなかった。姉達はよく食べ体を豊満にして、そこから痩せるべき箇所をコルセットなどで整えていた。胸もお尻もたっぷりと膨らみ、けれど腰は細く絞られ凹凸が女性らしい魅力を放っていた。
ブライクさまは、私の首が折れそうで怖いのだろうか。
「俺は、こんなにもはかない君に依存して、連れまわして、苦労をかけていたのか。」
思ってもみなかった言葉に私は慌てて、違いますわ、と否定した。
「それは、私の意思ですわ。私がブライクさまについて行くと決めたのですから。」
そう言ってブライクさまを見上げた私の体は、ぎゅっと更に強く抱き込まれた。
「俺はこんなにも小さな君に、ずっと守られていたのか。」
私はその呟きに、目を見開いた。私が、ブライクさまを守った覚えなど全くない。一体この人の頭の中はどうなっているのだろうか。
「守った覚えはありませんわ。むしろいつも守られて、何もできない自分が恥ずかしいのです。」
私は、本当に何もできない。毎日できないことを発見する日々で女達もまるで私を赤ちゃんのように扱うのだ。
「君がいるだけで、俺は生きていていいと認められる。君が俺を必要とすること。それだけが俺の存在価値だ。」
ブライクさまからの熱烈な愛の告白に、私の口元が自然と緩んでいった。けれどブライクさまの自己肯定力の低さに私は何か言わなければと口を開いた。
「そういう風に言っていただけるのは、嬉しいですわ。けれど、ブライクさまの価値はもっともっとあります。ブライクさまが何かをすることで、沢山の人が笑顔になり幸せになっていますわ。ブライクさまの価値は計り知れない。私そう思いますの。」
うまく説明できただろうか。あまり話をするのが上手ではない私は、私の思いが伝わったかどうか不安でブライクさまの様子をうかがった。
「俺が他人を笑顔にしたり幸せにしようとするのは、最終的に君を幸せにするためだ。」
私の緩んだ口元が更に緩んで、幸せなため息がこぼれ落ちた。
「まあ。」
ふふふ、私は笑った。
「では私はまだまだ不幸ですので、ブライクさまはもてる能力を存分に発揮して、この領土を豊かにし、領民を幸せにしてくださいますか。そうすればそのうち、私も幸せになれるかもしれませんわ。」
くくく、ブライクさまも楽しそうに笑った。
「そうだな、そうしよう。君の幸せのために、皆を幸せにしよう。」
そう宣言した後私の瞳をのぞき込むとブライクさまが微笑んだ。その柔らかい表情に、私の心も温かくなる。けれどその直後にブライクさまが見せた意地の悪い微笑みに、私の心は凍りついた。
「さっき、やめておいた方がいいと思った理由を話そう。こんなにも小さくて細い君を抱いたら、抱き潰してしまいそうで怖い。だがもうやめることはできそうにないから、覚悟してくれ。」
そう私の耳元で囁いてそのまま私の耳をぺろりと舐めると、ブライクさまは私の体をベッドの上に転がした。
先程とは全く違う、飢えた獣のような目つきにいすくめられてしまった私は、このままブライクさまに食べられてしまうのかと恐怖しながら、それはそれで幸せだと諦めて目を閉じた。
火照った体が重くて、私は横たわったまま目を閉じていた。瞼が鉛のように重い。眠い。
そんな私の頬に、大きな手が添えられた。私は猫のように頬を厚い手にすり寄せて、小さく微笑んだ。
ブライクさまが上の方から私を見下ろしている気配がする。けれど私は目を開けようとして、失敗して、またまどろんでしまった。
うぅぅん。地の底から響くような不思議な音がして、私はやっと目を開いてブライクさまを見上げた。困ったような、怒ったような、複雑な表情で喉の奥で唸っている姿に、私は思わずうふふと笑った。
今度はなぜか目を見開いて私の瞳を真剣に覗き込む黒い瞳に、なんだかくすぐったくなってきて、どうしたのですか、と訊ねた。少し掠れてしまった声を聞いて、ブライクさまが私の喉を優しく撫でてくれた。
けれどそれは逆効果で、私は更なるくすぐったさに堪えきれずふふふふふと笑いはじめた。そんな私を眺めながら、ブライクさまがゆっくりと口を開いた。
「俺は彫りが深くて、気の強そうな美女が好きだ。凹凸のある体と、匂うような色気があれば尚良い。」
美女。凹凸。色気。それは私が持っていないものばかり。私は見上げていた視線を思わず横にそらした。なぜ敢えて、今、それを私本人に言う必要があるのだろう。
ブライクさまは今でも基本的には無表情で、他人と話す際には優しい笑みを浮かべている。それは私からすると仮面のようで、愛想笑いに見える。当然自分の考えも気持ちも、相手に伝えたりはしない。典型的な人の国の貴族の姿だ。
けれど私には、微笑んだり困ったり、いろいろな表情を見せてくれる。できる限り正直に、沢山の話をして私と向き合おうとしてくれる。私はそれをとても嬉しいと思うし、そんなブライクさまの苦しみを少しでも和らげることができるなら、なんでもしたいと思う。
けれど。けれど。けれど。時には包み隠した方がいいことも、あるのではないだろうか。
むくれた私を見て、いやいや違う、と首を左右に振ると、ブライクさまが慌てて言葉をつけ足した。
「尚、良かった。」
過去形。になったということだろうか。私はむくれたまま小さく首を傾げた。
「それなのに今は。君の顔も。体も。表情も。仕草も。その全てが、堪らなく可愛いんだ。」
そう言い終えると、私の体の上にブライクさまの体がふわりと降ってきた。ぎゅっと両腕に抱きしめられ、ブライクさまの額が私の額に当てられた。
「俺は君の色に染まったな。今までの俺はどこへ行ったんだ。」
ブライクさまの髪がさらさら揺れて私をくすぐってきた。私は身をよじり、まあ、と囁いた。
「それは女性の台詞ですわ。私こそが、ブライクさまの色に。」
そうか。くすくすと耳元で笑う声。
「俺達は溶け合うのか。」
私達は溶け合って、いったい何色になるのだろう。
「オリビア。」
澄んだ声が、優しく私を包み込んだ。その続きは、なかった。
けれど、私の頬を優しく撫でる指が、私を大切そうに抱きしめる腕が、私にぴたりとくっついた体が、囁いている。
愛している。と。
「ブライクさま。」
私の声にも、同じだけの想いをのせることができるだろうか。
「私も。」
私は真っ赤になってしまった頬を押さえながら、目をぎゅっとつぶるとブライクさまの唇にちゅっと自分からキスをした。
私からのキスは珍しく、ブライクさまがはあ、と大げさな溜め息をついてうなだれた。
「俺の負けだ。可愛いすぎる。」
そんな呟きに、更に真っ赤になった頬を両手で押さえていると、一度離れたブライクさまの顔がまた近づいてきた。
噛みつくようにキスをされ、私は両目を閉じた。吐息までも吸い取られ、もう食べられてしまうのではと思ったとき、二人の唇が離れる。空気が足りず、ふうふうと息を吸う私を見て、くくく、とブライクさまが笑う。
「オリビア。」