Un amigo íntimo
月明かりがぼんやりで暗がりの川原。スミレはまだ来ていなかった。
――……。
俺が川原に来てから電車が一回通っただけで辺りは物凄く静か。
左隣にいる女はまだ少し気落ちしている佇まい。左手で着物の上から右腕をギュッと握り締め、視線は地面のどこか一点を眺めているようにも見えた。
まだいつも通りとはいかないかぁ……。
溜め息を吐きたくなりそうなところで、堤防沿いの道をこちらに向かって歩いて来る見慣れた人に少し驚く。
一人は竹刀を担いだスミレと、そのスミレに手を引かれて歩く、俯いたフェル。
スミレもしkして、俺とフェルの話し合いの場を作るために出て行ったのか。
けど、竹刀は何のためモンなんだ?
土手を下り、近づいてくるフェルの姿に二度目の驚きを受けた。
ボサついた髪。眠れていないのか、止まっているかのような虚ろの眼。これが今のフェルなのか。知っているフェルとは違う。病人のように生気が感じられない。
【遅れてすまぬ。手間取った】
「そんなに待ってないよ。それにしても、フェル……」
「――……」
無言のフェルに視線を向ける。僅かに動く視線だけで反応しているが、その中身は空っぽの眼に思えた。
「で、スミレ。竹刀を持って、ここで何をするんだ?」
まさ剣道の稽古とか言わないよな?
【うむ。では、フェル。ワシと勝負せよ】
突然スミレが言い出だす。
え? 勝負? 稽古じゃなく、勝負? スミレとフェルが? 何で?
スミレは持っていた竹刀をフェルに渡そうとする。が、
「……俺は、もう剣道はしません」
フェルはそれを断る。呟くような抑揚がない声で。
【負けることがそれほど怖いか?】
そんなフェルを挑発するようなスミレ。
「……怖くありません。ただ、俺はもう剣道をしないと決め……」
【すまぬ。違ったのう。〝負けるのが怖いのではなく、勝てないことが怖いからじゃな〟】
「ッ……」
【図星か? まったくもって脆い心を持っておるのう。だからモモカに負けるのじゃ。だから剣道部の部長が勤まらんのじゃ】
フェルの心を突いたスミレの言葉が虚ろな眼、心を動かす。
「あ、あなたに何がわかるんですか……」
【ほう? 死人みたいな顔しておると思ったら、まだまだ元気ではないか?】
「あなたに何がわかるんですかっ!」
叫んだと思ったらスミレが持っている竹刀を奪い取ったフェル。震える剣先を向け、ただスミレを睨みつけた。
「フェル!」
【レンヤ! 手出しは無用じゃ!】
左手を差し出され、制止させられる。
「――……」
【阿呆は実際に理解せねばわからん。レンヤもよく知っておるじゃろ?】
ああ、耳が痛い。さっきまで俺自身もアホでもあると痛感したからな。
【レンヤ。竹刀を貸すのじゃ。この阿呆はワシがお灸を据えてやろう】
考えがあってのことだろう、と俺は竹刀をスミレに差し出す。考えがなくても今の俺には何も言えないけどね。
竹刀を受け取ったスミレは、フェルと対峙した。
「俺は負けませんよっ! 俺はあなたなんかに絶対負けません!」
【無理じゃ、な。ワシに〝勝つ〟と言わん限りはのう】
スミレが竹刀を構える。
湿気を含んだ生ぬるい夏風が身を靡かせ、静かな辺りをさらに無音の静寂へと変える。今この場に、フェルとスミレの二人しかいないような場の雰囲気。
揺らぐ剣先と、真っ直ぐ捉える剣先。両者の心を表しているような対照的を二つ作り出す。けど、
静寂は無機質な侵入者――鉄橋を渡ろうとする電車が、張り詰めた雰囲気を壊して場を無理やり動かした。
「やあぁぁぁぁっ!」
【……せいっ!】
光と影――交互に照らされ、弧を描いて舞い上がった竹刀。
落ちる音を立たせず、地面に難なく転がる。
【勝負あったようじゃのう】
剣先を収めたスミレは、そう告げ、フェルの膝が崩れ落ちる。
「何で……。何で、だ……」
涙と一緒に漏らすように呟いた。
「何で負けるんだよぉ……。何で、俺は……」
【勝とうとせんからじゃ。勝とうとせん者が、勝てるわけがなかろう】
「……わからないよ……」
【真に阿呆じゃな。負けないことと、勝つことは違う】
「スミレ、さん……?」
【ただ負けないことは、勝つための〝方法〟とは違い、あくまでそれは負けないため。そこには、引き分けや負けはあっても、勝つための〝目的方法〟は存在せぬ】
「勝つための〝目的方法〟……?」
【フェルはワシに言うたのう。『あなたには絶対に負けません』と。そうであるならお門違いじゃ。ワシは門前払いをするぞ】
「――……」
【わからぬか? 先ほどの言葉は、今のお主自身に向かって使うものじゃ。お主の弱い心に対してのう】
「俺、自身……」
【フェル? お主のことはレンヤから聞いた。生まれた国を離れ、この町に移り住んできた初めの頃を。お主のそのお門違いの負けたくない気持ちは何じゃ? 何のために負けたくないと思う? 言ってみよ】
「……お、俺は……。俺は、レンヤのように強くなりたいんです!」
俺のように? やめといたほうがいいぞ、と率直に思った。
「スミレさん、レンヤから話しを聞いたって言いました、よね……。なら、転校してきた頃の話も聞いたと思います」
【うむ。聞いたぞ】
「俺、前に住んでいたところでは友達って呼べる奴がいなかったんです。よくイジメを受けました。不登校にもなりました。幽霊が視える力――周りからしたら怖がるのも当たり前の力を持っていましたから……」
フェルの昔話は初めて聞く話だな。
「こっちに転校してきても、この力で避けられたりしたらどうしようって考えて……。けど、こっちではそんなことなかったです。外人であるということが珍しくて近寄ってきた、というのもあったんでしょうけど、俺を怖がらない人ばかり。嬉しかったです。ここで新しくやり直せるって思ったら」
【そうか】
「だけど、俺に好意を持って近寄ってきてくれる人もいれば、その逆もあります。それがあの体育倉庫裏での出来事……」
【なるほどのう】
「あの時、イジメを受けた俺は、この学校にもう行くことができない、と思いました。昔に受けた傷は簡単に塞がりませんから。けど、そこにレンヤが現れたんです。そして……」
【イジメをしておった奴らをやっつけ、お主に蹴りを入れた、と。で、なぜレンヤと友達になろうと思ったのじゃ?】
それは俺も知りたい。思った〝きっかけ〟がさっぱりわからん。
「それはですね。それからもレンヤは俺を助けてくれていたからです」
うーん、そんなことあったっけなぁ?
「それを知ったのは随分あとのこと。ある日の音楽室での授業のあとでした。教室に帰ってきたら俺の教科書がなくなったんです。で、俺や周りのクラスメイトが探している中、なぜかレンヤが俺の教科書を持ってきて渡してくれたんです。当然、なくなった教科書を持っていたレンヤはすぐさまクラスメイトから責められました」
ああ、そんなこともあったなぁ。しかし、間違いだ。クラスメイトじゃなくて、女子一同と言ったほうがいい。思い出したけど、女子にしか言われた記憶がないもの。
「そしたらレンヤは、『お前ら、来い』と一言。何だろうと思ったら、俺をイジメていた四人が傷や痣を作って教室に入ってきました。そのあと、そいつらは謝りました。土下座してですよ」
だってよぉ、人の物を盗って焼却炉に投げ捨てようとしていたからなぁ。当然だろう。
【ほう。それがきっかけか】
「違います。決定的なきっかけはそのあと。クラスメイトがレンヤに謝ったとき。レンヤ、こう言ったんです。『謝るな』と。ビックリしました。と同時に、あれだけ責められてこう言える強さに」
それは強いのか? 俺に言った奴らは事情を知らないんだぜ? 確かに言われた時はカチンと来て殴ってやろうかなって思ったけどよぉ、アホ四人で発散してたからまだ考えることができただけなんだ。
【ふむ。だからその強さを自分のものにしたいと思ったわけじゃな】
「はい。俺も『こいつみたいに強くなりたい』、そう思ってレンヤと一緒にいるようになりました。けど、スミレさんの問いに対して、俺自身はその答えに辿りつけていません」
【じゃったら、一生無理じゃ。フェルはレンヤの上辺だけしか見ておらんからのう】
まったくもってその通り。フェルは俺と同じだ。
「え……?」
「なあ、フェル?」
歩み寄りながら俺はフェルに声を掛ける。アホに真実を教えるために。
「悪いが俺は、お前を助けるためにやったわけじゃない」
「どういう……」
「俺は自分がイラついた奴らをしばいただけ。タイミングよくちょうど俺の目の前でイラつくことをしている奴を、な。お前に蹴りを入れた理由だって、俺の中では『ありがとう』なんて言われる筋合いのことをしていないからさ」
「そう、そうなのか……?」
「ああ、そうだ。だから言っておく。俺と一緒に居ても俺の強さはお前のものにはならない。お前は、お前の強さを自分で見つけない限りな」
「俺……の強さ……」
「俺と一緒にいると何かしらの影響はあるだろう。けど、お前は俺じゃない。俺の強さの全てをものにできないってこと」
「じゃ、じゃあ、俺はどうすれば……」
やっぱりマジメな奴だなぁ、お前。俺とは大いに違う。だから俺はこいつと〝親友〟になったんだろうな。俺とは違うものを持っているから。
「フェル? 俺がどうしてお前の母国語――スペイン語をお前から習ったか、その理由を知っているか?」
「え? い、いや」
「俺は今ならわかる。お前が俺の強さに憧れて友達になろうと努力したように、俺もお前のことを知ろうと努力したからだ。だって、話もろくにしていない初対面で蹴りいれた奴と友達になろうと思った奴だ。経緯はどうであれ、俺はフェルをすごいと思う。それは俺にはマネできない強さだ」
「レンヤ」
「ここに来た理由だってそうさ。裏返せば、落ち込んでも這い上がろう、ということだと思う。スミレがきっかけだとろうと、そういう気持ちが一ミリでもないとここには来ない」
行かないと気持ちが一貫していれば、暴れてでもスミレを追い返す。あんな病人みたいな状態でも、〝ここに来た〟という事実の前ではその気持ちの可能性は否定できないんだよ。
「だから教えてやる」
一呼吸入れ、
「お前はお前の強さを持っているよ。お前は強い奴なんだ。〝Un amigo íntimo (親友)〟」
フェルの頬を伝う一筋の水滴。薄明かりの中、月明かりに光る雫が地面に零れ落ちる。
「おいおい、泣くなよ」
「だってぇ……だってぇ……」
俺の服を掴んで必死にしがみつくフェルは、声を殺しながらも泣いた。でも、その姿から親友の心の叫びがよく聞こえる。
フェルの弱い部分以外――初めて強い部分を俺は知ることができた。




