第三話 残酷な検証、その誓い
日本サイバトロニクス株式会社、先端生命科学事業部。
『同期制御アーキテクチャ研究室』の最深部は、大学の演習室に漂っていた乾いた排熱の匂いとは全く異なる、生々しいオゾンの香りと冷たい消毒液の匂いに支配されていた。
薄暗い空間の奥に鎮座する巨大なガラスの培養槽。青白い特殊な培養液の中に浮かんでいるのは、人間のものではない、名もなき小動物の脳の数々だった。
それらには無数の電極や微細な端子が直接突き刺さり、明滅するサーバラックと同期して、人工的なパルスを刻み続けている。
命をただの電気信号として、あるいはデータとして扱う検証空間。それが、美桜が自ら望んで足を踏み入れた戦場の正体だった。
「佐伯くん。誤解のないように言っておきますが、我々がここで創り出そうとしているのは、単なる遺伝子のデッドコピーなどではありません」
培養槽の青白い光を背に受けて、このラボのトップである里村清一は淡々と語った。彼の役職は副所長兼COO。本来この研究室を率いるはずだった初代所長は行方不明となっており、里村が実質的な責任者としてすべてを取り仕切っていた。
彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、狂気とも純粋ともつかない、底知れぬ探求の光を宿している。
「我々が目指すのは、新しい生命のパラダイム、『ホムンクルス』です。器となる肉体を完全に構築し、そこに同期制御ネットワークを通じて意識を定着させる。……しかし、器を作るだけでは命は起動しなかった」
里村は、手元の端末を操作し、暗号化された過去のログをモニターに呼び出した。そこに表示されたのは『プロトタイプ00』という文字列と、バイタルが完全にフラットになったエラーログだった。
「かつて生み出された『00』は、生命の器として完璧だったにもかかわらず、機能停止――つまり死を迎えました。なぜか分かりますか? 彼には自我が存在しなかったからです。自分が何者であるかという定義を持たない空っぽの器は、自ら生きようとする意志を持たず、ただ朽ちるのを待つだけだった」
命を定義するのは、肉体ではない。自我なのだと、里村は冷徹な事実として突きつけてくる。
「だからこそ、次に生み出された『01』には、あらかじめベースとなる仮想人格を構築し、流し込んだのです。彼が自らを個として認識し、生きる意志を駆動させるための、魂としてね」
「それが……あの隔離室にいる、彼ですか」
「ええ。01には託次というタグを与えました。ちなみに、失敗した00には託郎と名付けていましたよ」
その命名規則を聞いた瞬間、美桜の背筋を悪寒にも似た震えが駆け抜けた。
ただのプロトタイプに、なぜわざわざ人間のような、しかも兄弟を連想させる名前を付けたのか。
あとで柚木から密かに聞かされたことだが、里村にはかつて、共にエンジニアとしての限界に挑み続けた柿枝悠一という絶対的な親友がいた。それが、現在消息不明となっている初代所長だ。
親友に新しい肉体を託すために生み出されたから、託郎。そして、託次。
命を冒涜するような非人道的な研究の根底にあるのは、あまりにも人間臭く、狂気的なまでの友への愛情と、執念という名の業だった。天才の抱えるその深すぎる闇に触れ、美桜はただ息を呑むことしかできなかった。
数日後。重苦しい空気と、けたたましい警告音が支配する検証ルーム。
里村主導のもと、01(託次)への理論上限界である七回目のオーバーライド検証が開始されていた。
オーバーライド――すなわち、別の記憶と意識を強制的に上書きすることで、彼の自我を外側から完全に奪い取るテスト。
隔離室のベッドに縛り付けられた01の腕に取り付けられた『生体同期型ブレイン・インターフェース』は同期サーバとリンクしている。そこから別の人格データ――あろうことか、里村自身から抽出された彼個人の記憶と意識のコピーが、暴力的なトラフィックとなって叩き込まれる。それは、01にとって「仮想人格である自分が塗り潰され、二度と元の自分として戻ってこられなくなる」という、根源的な死の恐怖そのものだった。
モニターに表示される01の脳波データは、激しい拒絶反応を示し、真っ赤な波形となって乱高下している。彼は生きるために、本能で外部からのデバイス接続を拒絶し、システム内で必死に悲鳴を上げていた。
「……っ、チィッ! 大人しく受け入れろや、ったく!」
メインコンソールを叩く柚木の口から、苛立ちを隠すような舌打ちが漏れた。
だが、キーボードを乱打する彼の指先は、血の気が引き、白くなるほどに激しく震えていた。
「コア(超高密度記憶体)のライトバッファが、リライト処理で詰まっているな……。上書きされる端から、自分の自我を未利用領域へ退避させて抵抗してるんだ。オーバーライドの抵抗ロジックテストにしては、ずいぶんと派手に逃げ回るじゃないか」
柚木は自嘲するようにへらっと笑い、モニターを指先で叩いた。そのチャラい態度の裏で、彼がどれほどの吐き気を堪えているか、美桜には痛いほど分かっていた。
「まったく、器のくせに、ずいぶんと生き汚い挙動だぜ。……これだけ脳の奥底のあちこちへデータを分散退避されちゃ、後でいくら初期化をかけても記憶の断片が焼き付いて残っちまう。サーバのストレージと違って、生身の脳は簡単にはフォーマットしきれないんだからな。これじゃあ、二度とまっさらな器には戻せねえよ」
それはエンジニアとしての冷徹なぼやきでありながら、柚木なりの命のしぶとさへの最大の賞賛であり、そして絶望的なまでの悲哀だった。
彼がここで必死に生き延びようと足掻き、逃げ回った痛みは、決して消せない火傷の痕となって、永遠に01の脳に残り続けるのだ。彼らが今やっているのは、生きた人間の心に、焼き鏝を何度も押し当てているのと同じことだ。医療の未来のため、人類を救うシステムの完成のためという大義名分を掲げながら、一人の子供の魂を惨たらしく切り刻んでいる。
「里村先生、これ以上は……! 01のバイタルが持ちません!」
美桜が悲鳴のように叫んでも、里村は冷徹な眼差しのまま、無慈悲な指示を下した。
「検証続行。まだだ。彼の防壁が完全に突破される臨界点まで、データを流し込みなさい」
だが、美桜は見てしまった。
検証ルームのデスクの端。里村が極限の集中状態に入った時に必ず組み上げる、ミリ単位の狂いもないエナジードリンクの缶ピラミッド。その頂点に置かれた里村の右手が、小刻みに、けれど激しく痙攣していたのだ。
彼は、缶を力任せに握り潰してしまいそうになる己の感情を必死に堪え、震える指先で無理やりピラミッドの水平を保とうとしていた。冷徹な悪魔の仮面の下で、里村自身の精神のメーターもまた、とうの昔に限界を振り切っていたのだ。
誰もが強がり、理屈でコーティングして、ギリギリの精神状態でこの地獄に踏みとどまっている。
だが、モニターの向こうで01の脳波が不可逆的な崩壊のサインであるフラットラインに近づいた瞬間、美桜の胸の奥で、張り詰めていた何かが決定的に決壊した。
(これ以上はダメだ。これ以上、彼を壊させない!)
「やめてください!!」
美桜は柚木を突き飛ばすようにしてコンソールに割り込み、エンターキーを物理的に叩き壊す勢いで、強制終了のコマンドを叩き込んだ。アラートが鳴り響き、同期サーバからのデータ転送がブツンと遮断される。
「佐伯くん! 何の真似ですか!」
里村が怒声と共に立ち上がった。だが、その瞬間――彼が限界まで保とうとしていたピラミッドの均衡が、ふっと力を失ったかのように崩れ落ち、けたたましい金属音を立てて床に散らばった。
「オーバーライドの負荷で、器としての機能が崩壊します! これ以上やれば、彼は、彼として二度と戻って来なくなります!」
美桜は里村を真っ直ぐに睨み返し、エンジニアとしての視点から、不可逆的な死を叫んだ。激しい沈黙が、検証ルームを包み込んだ。
散らばった空き缶を見下ろしながら、里村は深く、血を吐くようなため息をついた。そして、眼鏡の奥の目を苦渋に歪ませ、初めてその重すぎる本音を吐露した。
「分かっている。仮想とはいえ、これがどれほど残酷なことか。だが、もしこの技術が悪用されれば、人間の自我は簡単に他者に乗っ取られ、世界は終わる。それを防ぐ強固な同期プロトコルを完成させるためには、外部からの乗っ取りに対してどこまで耐えられるかという、この残酷な検証が絶対に不可欠なのだ」
里村は、まるで自身の脳髄が直接削られているかのように苦渋に顔を歪め、数秒の重苦しい沈黙の後、意を決したように言葉を吐き出した。
「他者の精神を侵すというこの最悪の罪に、見ず知らずのデータを使うわけにはいかない。私の自我で、彼を壊す……誰かがこの業を背負わなければ、人類に未来はない」
悪用を防ぐため、自らが悪魔となって絶望のデータを収集する。それが、天才・里村清一の選んだ十字架だった。
美桜は唇を強く噛み締め、両手でコンソールの縁を白くなるほど握りしめた。里村の言い分は完全に正しい。だが、目の前の命を犠牲にして成り立つ未来など、美桜は絶対に認めたくなかった。
「だったら!」
美桜は顔を上げ、かつてハッカソンの会場で柚木のシステムを守り抜いた時のように、獰猛なまでの決意を瞳に宿して宣言した。
「だったら私が、外部からの干渉を絶対に弾き返す盾を作ります。先生の同期プロトコルに、一切の脆弱性を残さない。……だから、彼をこれ以上、モルモットになんてさせないでください!」
彼女の無謀とも言える叫びに、柚木がハッと息を呑んだ。
里村はしばらく美桜を無言で見つめていたが、やがて、その張り詰めていた口元に、微かな技術的信頼を込めた不敵な笑みを浮かべた。
「いいでしょう。ならば、私の構築する同期制御ネットワークが一切の干渉を受けない、不可侵の防壁を、あなたのその手で構築してみせなさい。それが完成するまで、この検証は凍結します」
検証が強制終了された、静まり返ったラボ。
オーバーライド検証の負荷は、限界を超えていた。
七回目に及ぶ凄惨な実験の末、ついに01の心は不可逆なまでに破壊された。彼は生きる希望を完全に捨て去り、かつての『00』がそうであったように、自我を閉ざし、自らただの空っぽの器へと戻ろうとしてしまったのだ。
その深すぎる傷と、自らが犯した業の深さを悟った里村は、ついに検証の凍結を決断し、自らの手で彼を育てることを諦めた。
里村は、壊れてしまった彼に新たな仮想人格を植え付け、このラボで受けた過酷な検証の記憶をすべてフォーマットした。
だが、柚木が吐き捨てたように、生身の脳は簡単にはフォーマットしきれない。データは消せても、魂の奥底に焼き付いたトラウマの傷跡までは消せないのだ。
その消しきれないトラウマを少しでも癒やし、彼に本物の人間の温もりを教えるため。里村は医学界の親友であり、天才外科医である長泉良朗の元へ「人間として育ててやってくれ」と新たな記憶を持った01を託し、この狂気のラボから完全に切り離したのだった。
深夜。01が去り、主を失った暗い隔離室のモニターを見つめながら、柚木がポツリと呟いた。
「ちょっと、フェイルセーフの限界検証としては、やりすぎちまったな」
へらっとした、いつもの軽薄な笑み。
だが、美桜はその言葉の裏にある、柚木の凄絶な十字架と、内臓を掻き毟るような悲哀を翻訳していた。彼は、自分が組んだ検証コードで01の精神を破壊しかけたという罪悪感を、一生背負って生きていくのだ。
「そうですね。検証のセオリーから見ても、あれは最悪のプロセスでした」
美桜はあえて冷徹なシステム用語で返し、柚木の震える手に、そっと自分の手を重ねた。冷え切った指先から、不器用で、熱すぎるほどの優しさが伝わってくる。
「二度と、あんな思いはさせない」
柚木が、自分に言い聞かせるように低く呟いた。
美桜は柚木の隣で、彼が組み上げる美しい命のシステムを守るための絶対不可侵の盾になるという、凄絶な覚悟を胸の最奥に深く刻み込んだ。
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ぜひ本編『天国の嘘』、『天国の嘘・ゼロ ~深流の仮面~』もよろしくお願いします。




