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第4話 定義の執行官 ーー 宣告された「社会的な死」

〔一〕


意識が戻る直前、僕は音から始まった。




心拍モニターの、四拍子。


廊下を走るゴム底の靴音。


遠く、救急車のサイレン。




東京という都市が、僕の耳だけには正直だった。


目を開けると、見知らぬ天井があった。




ICUではない。


もう少し高く、もう少し静かな天井。




カーテンの隙間から、重たい灰色の空が見えた。




生きている、と思った。


だがそれは、スイッチを入れても画面のつかないモニターが「電源は入っている」と主張するのに似ていた。




意識というデータは存在する。


しかし、それを外に出す出力ポートが、どこにもなかった。


指を動かそうとした。




動かなかった。


膝を、つま先を、首を。


神経は僕の命令を受け取るが、それ以上どこへも運ばない。脳と肉体の間に、目に見えない壁が立っている。




声を出そうとした。


肺から空気は出る。しかし声帯は錆びたヒンジのように固着して、音とも言えない微かな擦過音になるだけだった。


閉じ込められている。自分の体に、閉じ込められている。


恐怖は、来なかった。




かわりに来たのは、奇妙な静けさだった。あの境界線の向こうで見た砂漠の空に似た、定義することを拒む沈黙。僕はその沈黙の中に、じっと座っていた。






〔二〕


「……パパ。聞こえる?」


ゆうが立っていた。




子供ができてから、彼女も僕をそう呼ぶようになっていた。娘の夏逢なつめと同じ呼び方で。




目の下の隈は、一週間ぶんの夜明けを刻んでいた。




まだ四十代の彼女の顔に、見たことのない種類の疲労があった。


戦い続けた人間の顔だ、と思った。




病院と会社と、たぶん娘の間を、誰にも泣き声を聞かせないまま往復してきた顔。




彼女は僕の右手を、静かに両手で包んだ。




温かかった。




今の僕が受け取れる信号の中で、それだけが圧倒的にリアルだった。


ここが実数世界であることを、その体温が証明していた。


僕は言いたかった。




――夏逢は元気か。会社はどうなった。君こそ、眠れているか。




言葉は脳内でループするだけで、どこへも届かない。邑は何も言わず、ただ僕の手を握っていた。


その沈黙の中に、言語よりも長い何かがあった。




〔三〕


翌日の昼過ぎ、病室のドアが開いた。




邑が振り向いたその時の表情を、僕は忘れない。


笑顔を作ろうとして、作れなかった顔。




それだけで、来訪者が何者かがわかった。




帝武信金の担当、都築。スーツの肩に几帳面な折り目をつけた、四十代の男。




もう一人は、見たことのない若い銀行員で、分厚いバインダーを胸に抱えていた。




「縞々さん……ご回復、お祈り申し上げます」




都築の声は穏やかだった。しかしその目は、素早く病室を走査した。




モニター、点滴、動かない四肢。


その瞬間、彼の中で何かが「不良債権確定」と処理されたのが、わかった。




テーブルの上にバインダーが開かれた。


数字の羅列。ゼロの多い数字。




僕の会社が費やした年月が、それだけで記述されていた。





「返済猶予は先月末をもって終了しております。三十日以内にご対応いただけない場合、内規に基づいた手続きに……」





邑が右手で僕の手を握りながら、左手で手元のメモを見た。


弁護士に相談した形跡があった。彼女は準備していた。


僕が眠っている間に、ひとりで戦っていた。




喉が詰まる感覚があった。ただし声は、出なかった。




〔四〕


「失礼します」


ノックは一回だけだった。返事を待たずに、三人目の男が入ってきた。




背が高く、四十代の後半。グレーのセットアップは、官僚か医師のような「制服としての地味さ」を持っていた。




名刺を邑に差し出しながら、彼の視線はすでに僕に向いていた。




「文部科学省、中央理数統制局の守屋です。縞々結弦さんのプロジェクトへの助成金に関し、緊急の現況確認に伺いました」




都築が椅子から半分腰を浮かせた。


守屋は都築を一瞥もせず、手元のタブレットを操作した。




そこに表示されたものを見て、邑が息を呑んだ。




心拍数。血圧。血中酸素飽和度。そして、会社の直近三期の財務データ。




それらが、同じ画面に、同じグラフ上に、並べられていた。




「現時点における縞々さんの身体機能は、入力値として換算すると――」




守屋はタブレットを指で弾いた。




「事業代表者の稼働率、ゼロ。これは助成金交付要件の根幹的欠格事由に該当します」


「守屋さん」




邑が声を上げた。




「夫は今、回復中です。医師も段階的な機能回復を――」




「奥様」




守屋は遮った。




遮り方が、事務的すぎて冷たかった。




怒りも侮蔑もなく、ただ仕様通りに割り込む機械の冷たさだった。




「私どもは可能性を根拠に公金を動かすことはできません。現在の実数値のみを根拠とします」




実数値。




その言葉が、病室に滞留した。




補助金の即時停止、および既払い分の返還請求。




これまで注ぎ込んできた開発費の根拠が、消える。




イマジナリー・ゾーン社の全プロジェクト、システム上での凍結処置。




「なお」




守屋は続けた。




「法人資産だけでは返還額を賄えないことが数値上明らかなため、個人担保の追加設定をお願いしたいと思います」




そこで邑の呼吸が変わった。




「千葉県鴨川市に所在する縞々さんご所有の土地建物について、担保設定のご同意を……」




「それは」




邑の声が初めて、かすかに割れた。




「それは、お義母さんが遺してくれた家です」




「資産評価上、返還総額に対して全くと申して良いほど小さく、ボリュームは到底及びませんが、縞々さんがお持ちの唯一の不動産として記録されています」




守屋の声は変わらなかった。


あの家のことを、僕は思った。




父が晩年を過ごしたいと言っていた鴨川に小さな土地を購入したのは、父の会社を清算した後のことだ。しかし父の寿命は、移住を前に尽きてしまった。母と老犬だけの引越し。





磯の風と、土の匂いが混ざり合った、新築の縁側。





母が最後まで大切にしていた庭の花壇の片隅に、僕が埋めた貝殻がまだあるはずだった。




夏逢が初めて砂浜を歩いた場所。




死ぬ前に母が僕に言った言葉を、今も覚えている。





「何があっても、パパと一緒にいられる場所があって良かった」。





それが。




タブレットの画面で、「不動産 評価額○○万円」と表示されている。




怒鳴りたかった。いや、怒鳴るという次元ではなかった。




机を叩いて、守屋の胸ぐらを掴んで、お前は人の家族の歴史をデータに変換する訓練を積んだのかと問い詰めたかった。





体は一ミリも動かない。






〔五〕


鴨川の家の話が一方的に片付けられたあと、守屋はタブレットを切り替えた。




画面が変わった。今度は財務データではなかった。




波形だった。




脳波、だと気づくのに、少し時間がかかった。記録日時は、ICUに搬送された夜のものだった。




「これは」




邑が立ち上がりかけた。守屋は片手を軽く上げて、それを制した。




「縞々さんが心停止の前後に記録されたバイタルデータです。蘇生処置の過程で、医療機関から情報提供を受けました」




医療機関から?と邑が言いかけたのを、守屋は構わず続けた。




「通常、このフェーズの脳波はデルタ波が支配的です。しかし縞々さんのデータには、解析不能な周波数帯域が断続的に出現していた。当局の計測システムは、これを分類不能なノイズとして認識しました」





当局?計測システム?





昨今はこんなものまで管理されているのか。


そして僕は分類不能なノイズ。




「その性質が、精神医学的な所見に類するものなのか、あるいは――」




守屋は一拍置いた。


その間合いに、医師のものでも官僚のものでもない、何か別の色があった。




「通信系の障害に起因するものなのか、現段階では判断が分かれています」




「……通信系の障害、とは」




邑の声は、静かだったが硬かった。




「ご存知でしょうか、量子脳理論という概念を」




守屋はタブレットをテーブルに置いた。画面には、英語の論文タイトルが映っていた。




「物理学者のロジャー・ペンローズが提唱した仮説です。人間の意識は、脳内のミクロチューブルにおける量子力学的な演算に起因する、と。つまり――」





そこから先の言葉が、急に遠くなった。




守屋は喋り続けていた。確かに喋っていた。口が動き、邑が眉をひそめて聞き、都築が意味を把握できずに天井を見ていた。


しかし僕の耳には、もう届かなかった。




言葉の輪郭だけが病室に漂う。




ニューロン、コヒーレンス、ノイズパターン、通信干渉。




守屋の言葉は精緻なはずだった。


論理の骨格を持っていたはずだった。




なのに僕の意識は、それを繋ぎ合わせることを静かに放棄した。




砂が指の間から落ちていくように。




僕にはわからなかった。


守屋が何を言っているのか。




彼が自分と僕を繋ぐために選んだ理論が、何と何を接続しようとしているのか。




ペンローズという名前には聞き覚えがあった。




しかしその先に守屋が見ているものと、今の僕の間には、翻訳されることのない深い断絶があった。




天井を見上げていた。




灰色の天井。その向こうに空があって、雲があって、大気の外側には宇宙があって、その中のどこかに、虚数が棲んでいる。




守屋の声が、霧のように薄まっていく。




意識の端が、ほどけ始める。


砂漠の匂いが、したような気がした。






〔六〕


気がつくと、都築も守屋も、消えていた。




病室は薄暗かった。ナースコールのランプが、ゆっくり点滅していた。




邑が椅子に座ったまま、うつむいていた。手が膝の上で固く組まれていた。泣いているのか眠っているのか、僕には見分けがつかなかった。




どちらでもよかった。邑はここにいる。それだけが、今の僕に与えられた実数だった。





「明日までに、奥様のご署名を」





守屋の最後の言葉が、遅れて耳に届いた。





守屋は悪人ではなかった。悪意すら持っていなかった。


ただ、規格に従って仕事をしていた。


ペンローズを引用するときも、担保設定の同意を求めるときも、同じ口調で、同じ速度で。





それが、なお一層、凄まじく冷たかった。





この世界は、そうやって動いている。





バイタルと収支と脳波の異常値を同じ画面に並べて、基準を下回ったものにフラグを立てて消去する。




それが「正義」として執行される。





実数値として、消失。





稼働率、ゼロ。


欠格事由。






〔七〕


その夜、消灯後の病室で僕は目を開けていた。





静寂の中で、あの境界線の向こうの声が甦った。





「そんなに急いでどこへ行くの?」


砂漠のカフェ。




日向のにおい。差し出されたグレープ色のスープ。





あれは何だったのか。夢か、幻覚か、酸欠で焼けた脳が生み出したノイズか。





守屋は「分類不能なノイズ」と言った。




ペンローズの名前を使って、何かを説明しようとした。


彼が読んだ波形に、あの砂漠が映っていたとしたら。




あのカフェで飲んだスープの温度が、ICUの機器にうっすら記録されていたとしたら。





笑えない話でも、笑えない理由でも、なかった。





ただ確かなことが、一つある。


あのスープの温度は、守屋のタブレットには映らない。血圧計にも心拍モニターにも記録されない。


不動産評価額にも、返還請求書にも、書ける数字ではない。





だが、それは確かに存在した。


定義できないから消される。収まらないから欠格とされる。





動かない右手の指先で、何かが脈打った。




モニターの波形とは別の、小さな、しかし独自のリズム。




守屋のどんなグラフにも現れない、虚数のレゾナンス(共鳴)。





あの家は失えない。




声は出なくていい。体は動かなくていい。





あの家を失うと、僕はたぶん『お終い』になるんだ。







暗闇の中で、グレープ色の液体の味が舌の根に甦った。




数字では書けない、あの甘さと苦さが。





規格の外側で、その火を、細く、細く、燃やし続ける。








【第4回 レゾナンス・ワーク】


欠格とされても、手放せなかったものがありますか。




数字では書けない。グラフには現れない。それでも、失えば「お終い」になると知っているもの。ひとつだけ言葉にしてください。




それが第4のスクリプトになります。。




──次回


第5回「奇跡の保留 ――聖域の誕生」へ続く。

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