第2話 魂の検問 ―― サンクトペテルブルク、虚数へのポータル
肺に突き刺さるような、乾燥した極寒の空気。
鼻腔を抜けるのは、古い石材と、微かな雪の匂いだ。
見上げれば、重力に抗うように輝く巨大な黄金のシャンデリア。
重厚な石造りの壁と、何世紀もの時を吸い込んだ真紅のカーテン。
そこは帝政ロシアの残り香を湛えた、オペラ劇場の第4階席だった。
だが、豪華な客席の椅子は無慈悲に取り払われ、そこにはあまりに場違いな、むき出しのスチール製医療用ブースが設えられていた。
「名前は? ここがどこか、わかるか?」
耳慣れない、だが強烈な重みを持った言葉が脳の深層に突き刺さる。ロシア語だ。
本来、僕には理解できないはずの言語。
なのに、その意味が、ソースコードを読み解くように、ダイレクトに概念として展開される。
視界を巡らせると、そこには異様な光景が広がっていた。
鋭い眼光を放つ白衣の医師。
その背後には、凍てついた大地の匂いをさせた、無骨な軍服の憲兵たちが立っている。
さらには、分厚い法典のような本を抱えた法律家風の男女までもが、僕という「存在」を値踏みするように見つめていた。
「ロシア……サンクト、ペテルブルク……?」
喉を通らないはずの声が、意識の振動となって漏れ出た。
なぜ、僕は一度も訪れたことのないこの街を知っているんだ?
なんでいまそこにいると感じるんだ?
そういえば、うちのスタジオの2メートルのノッポ、レフの故郷だ。
「エルミタージュ美術館の裏に、古い劇場があるんです」
と、彼がコーディングの手を止めて、碧い瞳を輝かせて話してくれたことがあった。
一万キロの距離を超えた、魂の転送。
ロシア人たちの態度は、決して威圧的ではなかった。
むしろ、前線から生還した英雄を慈しむような、あるいは、長い不在を経て帰宅した家族の無事を確かめるような、切実で濃密な「共振」が満ちていた。
「もう一度、君の名前は?」
古い軍服の男が、僕の顔を覗き込んだ。
彼の瞳には、僕のICUのモニターに映る「0.0%」という数字が、絶望的な警告灯のように反射している。
「君の名前を言え。それは、社会が割り当てた『識別名』じゃない。君の存在を定義する……固有周波数は?」
「……縞々、結弦……」
僕は、魂の底から喉を引き絞って答えた。
だが、男は悲しげに、ゆっくりと首を振った。
「違う。それじゃない。……もう一度。君の名前は?」
「え?なんで、違うわけない……」
「もう一度、君の名前は?」
彼らは僕を、この世界へ繋ぎ止めようとしている。
外の音が聞こえてくる。
劇場の外からは、戦時下のような騒然とした気配と、何かが燃える匂いが漂ってくる。
・・・
ここは、実数世界のロシアではない。
『論理』と『祈り』が混ざり合う、「虚数王国」の最前線にあるポータル(魂の検問所)なのだ。
『なんだそれ。』
僕は自分の考えたことがよくわからなかった。
答えを探そうとしたが、暴力的なまでの睡魔が襲った。
意識の同期が外れ、劇場が、ロシア人たちが、急速にモノクロの点描へと分解され、霧散していった。
次に気づいた時、僕は圧倒的な熱波の中にいた。
足元には、なぜか見覚えのないおんぼろのキャスターバッグ。うちの愛犬の『ぴー・てぃ』もいた。
見渡す限りの白い砂。
その中心に、ポツンと一軒の、砂岩でできたカフェが立っていた。
それは新井薬師のスタジオのようでもあり、鴨川の漁師小屋のようでもある、奇妙で懐かしい建物だった。
入口の段差には、僧侶のような質素な服を纏った少女が座っていた。
彼女は、瓢箪型の歪んだガラス瓶を手にしている。
その中に入っているのは、僕が死の淵でずっと求めてきた、あの甘美な「グレープ色」の液体だった。
少女は、僕に目もくれず、その不思議な液体をガブガブと飲み干している。
その喉の鳴る音が、静寂の砂漠にやけに生々しく響いた。
僕は一歩、熱い砂を踏み出した。
感覚が死んでいたはずの足の裏が、熱い砂の粒子を、確かに「痛み」として捉えていた。
喉が、焼けるように渇いていた。
【第2回レゾナンス・ワーク】
「君の名前は?」と問われたとき、社会が割り当てた識別名ではない答えを、あなたは持っていますか。
役職も、実績も、関係性も剥いだあとに残るもの。それをひとつだけ言葉にしてください。
それが第2のスクリプトになります。
──次回
第3回「砂漠のカフェ――差し出された『再生のスープ』」へ続く。




