第1話 ICUの「廃絶」宣告と、0と1の境界線 ―― あるいは、夢を見ますか
〔序〕
「夢を見ますか」と、男は言った。
ラーメン屋のカウンター。
隣に座った見知らぬ外国人が、丼の縁を見つめながら、そう聞いた。
「夢、というのは」と僕は言った。「眠っているときの」
「いいえ」男はスープを置いた。
「起きているのに、どこか別の場所にいるような」
箸が、止まった。
麺が、箸の先で揺れた。
「……たまに」
声が出た。自分でも驚いた。
なぜこの男に、そう言えたのか。今もわからない。
男は頷いた。
責めるでも、驚くでも、喜ぶでもなかった。ただ、知っていた、というような頷き方だった。
「私もです」と男は言った。
それだけだった。
たまに、と僕は言った。
本当は、たまにではなかった。
始まりは、二〇二六年の春だった。
〔一〕
生存率、〇・〇パーセント。
その数字が意味を持たない記号に見えた瞬間のことを、僕はまだ、正確に覚えている。
慈愛医大病院のICU。
白い天井の照明色温度は、おそらく六千五百ケルビン。
僕はそんなことを、朦朧とした意識の中で計算していた。
習慣とは恐ろしいものだ。
死にかけている最中でも、エンジニアの脳は止まらない。
「敗血症によるショック死寸前でした。数値を見る限り、多臓器の『廃絶』が始まっています」
担当医の声が、水中から聞こえるようだった。
廃絶、という言葉を、僕は一瞬、システム用語として処理した。
廃絶――機能停止。
シャットダウン。
サービス終了。
ああ、そういうことか。
僕という五十四年間のプロジェクトが、今夜でクローズされるということか。
「ピー、ピー、ピー……」
心拍モニターが規則正しく刻む音は、締め切りを知らせるタイマーのようだった。
三ヶ月前、ミオパチーの診断が出た。
筋肉が、少しずつ、自分の意志とは無関係に壊れていく病気だと説明された。
その言葉を僕は、スプレッドシートのセルに数式を入力するように処理した。
対処する。
管理する。
数字で把握する。
それが僕のやり方だった。
しかし体は、やり方など知らなかった。
敗血症は、気づいたときには全身に回っていた。
救急車の中で意識が遠のきながら、僕は仕事のことを考えていた。
レフに、あのタスクを引き継いでおかなければ。
我ながら、笑えるほど自分らしい最期だと思った。
昇圧剤の副作用で手足の感覚はない。
点滴の管。
酸素マスク。
それを取り囲む機器の群れ。
モニターに映し出される波形は、ゼロへ、ゼロへと、静かに滑り落ちていく。
売上。
進捗。
サーバーの稼働率。
五十四年間、目に見える「数字(実数)」だけを信じ、積み上げてきた。
IT会社「スタジオ・イマジナリーゾーン」を立ち上げ、若い連中と走り続けてきた。
漫画家になりたかった夢を諦めた頃から数えれば、もっと長い。
その集大成が、このICUの、ゼロへ収束するグラフだというのか。
〔二〕
「縞々(しましま)さん、聞こえますか! おい、奥さん、家族を――」
医師の声が、遠ざかる。
廊下の方角を、意識の残滓で感じていた。
扉の前で、誰かが壁に額をつけていた。
邑だと、わかった。
声は出ていなかった。
ただ壁に額をつけたまま、動かなかった。
その隣に、夏逢が立っていた。
母親の服の裾を、両手でぎゅっと握って。
父親が死ぬのを、知っている顔をしていた。
その瞬間だった。
意識の最も深いところで――何かが、「鳴った」。
「鳴った」という表現しか、思いつかない。
しかし音ではなかった。光でもなかった。
強いて言えば、水晶を指で弾いたときに生まれる、あの透明で細い震え。
それが、全身の細胞を一瞬で駆け抜けたのだ。
僕はエンジニアだ。
経営者だ。
データが示す「0(死)」を前に、感傷的になるほど柔ではないと思っていた。しかし――
これは、数字で測れない何かだ。
モニターの波形には映らない。
血中酸素飽和度にも、心拍数にも、現れない。なのに確かに、僕の魂を揺さぶった。
……あ。
気づいた瞬間、可笑しいほど静かな確信が来た。
これが「虚数」の力じゃないか。
え、なんでそんなことがわかるんだ?
実数では記述できない。
グラフには現れない。
でも確かに存在する。
人を生かし続ける、目に見えないエネルギー。
今、そんなことを考えてる状況ではないよな?
邑の沈黙と、夏逢の小さな祈り。
それらが一点に共鳴した。
「……まだ、終わってない」
声は出なかった。
指一本も動かせなかった。
でも思考は、水晶の音になって、細胞の隅々まで届いた。
〔三〕
呼吸が止まり、意識が反転した。
モニターのアラームが、別の次元の音楽のようになる。
頭の中で「キーン」という高い共鳴が最高潮に達した。
次の瞬間、僕は「視て」いた。
ロシア。
サンクトペテルブルクだ。
夜だ。
帝政ロシアの残り香を湛えたオペラ劇場の客席を取り払ったところに、むき出しのスチール製医療用ブースが設えられていた。
白衣の医師。
軍服の憲兵たち。
分厚い法典を抱えた法律家風の男女。
彼らは僕という「存在」を、値踏みするように見つめていた。
「もう一度、君の名前は?」
古い軍服の男が、僕の顔を覗き込んだ。
「君の名前を言え。それは、社会が割り当てた『識別名』じゃない。君の存在を定義する……固有周波数は?」
「……縞々、結弦……」
だが、男は悲しげに首を振った。
「違う。それじゃない。……もう一度。君の名前は?」
答えを探そうとしたが、暴力的なまでの睡魔が襲った。
意識の同期が外れ、劇場が、ロシア人たちが、急速にモノクロの点描へと分解され、霧散していった。
次に気づいた時、僕は圧倒的な熱波の中にいた。
見渡す限りの白い砂。
その中心に、砂岩でできた一軒のカフェが、ポツンと立っていた。
新井薬師のスタジオのようでもあり、鴨川の漁師小屋のようでもある、奇妙で懐かしい建物。
入口の段差に、僧侶のような質素な服を纏った少女が座っていた。
その手に、グレープ色の液体が揺れていた。
喉が、焼けるように渇いていた。
〔四〕
それから何が起きたか、順を追って話すのは難しい。
ただ、目が覚めたとき、僕は生きていた。
医師は「奇跡的な蘇生」と言った。
邑は壁から額を離して、声を出さずに泣いていた。夏逢は服の裾を、まだ握っていた。
モニターが、小さな山を刻み始めた。
その後、何が待っていたか。
声が出なくなった。
体が動かなくなった。
帝武信金の都築が来た。
中央理数統制局の守屋が来た。
「稼働率、ゼロ」「欠格事由」という言葉が、動かない体の上に降り積もった。
そして半年後、鴨川に行った。
朝田さんに出会った。
土を触り始めた。
ノートを書き始めた。
そして今夜、あのラーメン屋で、見知らぬ男に「夢を見ますか」と聞かれた。
たまに、と僕は言った。
しかしあの春以来、僕はずっと、二つの世界を行き来している。
砂漠のカフェ。
サンクトペテルブルクの検問所。
グレープ色のスープ。
「ランディ、そんなに急いでどこへ行くの?」という声。
それが何なのか、まだわからない。
ただ、確かなことが一つある。
あれは守屋のタブレットには映らない。
久我山の名刺にも、記録されていない。
隣に座った男が、「私もです」と言った。
その言葉が、なぜあれほど体の中心に落ちたのか。
わからない。
でも「わからない」というのは、この話では、最も正確な答えだ。
これは、そういう話だ。
──次回第2回「魂の検問――サンクトペテルブルク、虚数へのポータル」へ続く。




