旦那さま、溺愛はまだでしょうか?
「これは政略結婚だ。あなたを愛することはない」
ディークマイアー公爵邸に着いた途端、花嫁であるビュッセル伯爵令嬢のスカーレットは、夫となるライナルトから初対面でそう宣言された。
王命による政略結婚。
一方的に突き放すような屈辱的な言葉と冷ややかな視線。
普通の花嫁なら、絶望のあまり泣き崩れるか、侮辱されたと激怒するところだが、スカーレットはというと──。
「まあ……!」
華奢な手を口元に当てたあとで、すぐに何やら訳あり顔でこくこくと頷くと、
「ええ、ええ、わかっていますわ。あとで溺愛になるよくある展開ということですわよね」
唖然とするライナルトをよそに、にっこり笑うとそう言った。
◇ ◇ ◇
「まあ……! なんてこと……!」
木の幹に足をかけた逆さまの宙ぶらりんの格好で、スカーレットはエメラルド色の瞳を大きく見開いた。
ゆるく波打つふわりとした金髪が地面に向かって垂れ下がる。
「ス、スカーレット! なんて格好してるんだい! 危ないから、早くそこから下りておいで!」
もう十七歳になるというのに令嬢らしさの欠片もない格好の妹に、彼女とよく似た容姿のスカーレットの兄が卒倒しそうな顔で悲鳴をあげる。
そんな兄をよそに、スカーレットは勢いをつけると木から足を離し、くるりと回って軽々と地面に着地する。
「お兄さま、聞いて──!」
「聞いてじゃないよ。いったいなんで木登りなんか──」
「子猫が木の上から下りられなくなっていたのよ」
「子猫なんていないじゃないか」
「ああ、それはわたしが木の上で足を滑らせたせいで、驚いて自分で下りていったの。薄情よね」
「はあ、もう、お転婆も大概にしてくれないと。心臓が止まるかと思ったよ」
「ええ、ごめんなさい。でもそんなことよりも、お兄さま! 大変なの、わたしまた視えたの──!」
スカーレットはつい先ほど、木の上で足を滑らせた瞬間に視えた光景を思い出しながら、兄にぐいっと顔を寄せる。
「え⁉︎ 視えたってことは、あれか? 今度は何が視えたんだ?」
「どうしましょう──! わたし、ディークマイアー公爵家に嫁入りするみたいなの!」
「よ、嫁入り⁉︎ ディークマイアー公爵家⁉︎」
「ええ、それで──」
スカーレットが続きを言いかけたとき、スカーレットたちを呼ぶ使用人の慌てた声が庭に響いた。
◇ ◇ ◇
「……なんてことだ」
目の前のソファに座るスカーレットの父、ビュッセル伯爵が悲壮感を漂わせ、両手で顔を覆う。
項垂れる父の背に手を添えているのは、スカーレットの母の伯爵夫人。スカーレットと兄の美しい金髪とエメラルド色の瞳は母親譲りだ。
「あなた……。王命だなんて……、でもどうして我が家に?」
「私も何がなんだか……」
「そうですよ、なぜうちなんかに? うちは歴史だけはある名家ですが、今や苦しい懐事情で、そもそもスカーレットを嫁にやれるだけの持参金すら厳しいっていうのに!」
あまりに赤裸々な兄の言い方に、両親は目を細め何か言いたげな視線を息子に向ける。
ビュッセル伯爵家は歴史のある家門だ。代々の当主は堅実な性格であったため、本来ならば財政が傾くような事態にはならないはずだった。
しかし六年前、スカーレットが十一歳のときに祖母が難病にかかり、その治療と薬代に莫大なお金がかかった。祖母は快癒することなくこの世を去ってしまった。
さらに悪いことは重なるもので、三年前には領内で大規模な土砂崩れが起こり、甚大な被害が出た。幸い死者は出なかったものの、交通の要となる橋は一瞬で破壊され、家屋や畑などの多くが押し潰され、広い範囲が土砂に埋まった。
ビュッセル伯爵はすぐさま資産を取り崩し、領内の復興に力を尽くした。
今ではようやく以前と同じような暮らしができるまでになったが、傾いた財政は苦しくなる一方。
そんなわけで、スカーレットは去年の十六歳で行うはずの社交デビューもできていない状態だった。
両親は娘の社交デビューに必要な王都までの旅費やドレスなどのお金をなんとか工面すると言ったが、スカーレットが断固として拒否した。
「スカーレットを嫁になんて! 見た目が小さいせいで、精神年齢もまだこんなに幼いのに……!」
「お兄さま、わたしは小柄なだけですわ。精神年齢は年相応です。それに身長はまだ伸びる可能性もありますもの。お兄さまこそもういい年なのですから、もっと落ち着いた言葉遣いをされてはいかが?」
スカーレットは二歳年上の兄に鋭い視線を向ける。
兄も兄だが、妹も妹。似た者同士のふたりは見た目は母親譲りの整った容姿をしているが、つい思ったままを口にしてしまう残念なところがあった。
「どのみち王命だもの、我が家が断れるはずもないわ」
兄のことは放っておいて、スカーレットは軽く息を吐き出して手を伸ばす。机の上に置いてある王命が記された書簡を取ると、そこに書かれている一文を指し示す。
「ほら、ここに『持参金不要』って書いてあるわ。それにわたしがお嫁に行くことで、王室から伯爵領に援助もしてもらえるって。もっとも、援助するならもっと早くにしていただきたかったわ。そうしたら復興も早く進んだのに」
「スカーレット……」
父が深い息を吐き出し、気が気でない様子で娘の名前を呼ぶ。
ビュッセル伯爵家からすれば、雲の上の存在であるディークマイアー公爵家に娘を嫁がせられるなら願ってもない幸運だ。しかし手放しで喜ぶほど両親も兄も、そしてスカーレット自身も能天気ではなかった。
何かしらの意図がある政略結婚で、スカーレットが幸せになれるわけがない。
それにスカーレットは見た目は文句のつけようがないが、中身は淑女とは言い難いと家族の誰もが感じている。
格上家門の窮屈な生活はスカーレットの性に合わないのは目に見えているし、粗相が許されない相手に嫁がせること自体、家族にとって大きな不安でしかない。
そんな周囲の不安をよそに、スカーレットはにこりと笑う。
「心配しないで。ついさっき、わたし未来を視たの。それによると結婚生活もそう悪くなさそうよ」
──スカーレットには、未来が視える予知能力があった。
それはなんの前触れもなく規則性もなく、白昼夢のように、突如として頭の中に鮮明な光景が映し出されるのだ。
しかしそれは瞬きする合間のように、あるいは紙芝居の一場面のように、パッ、パッと視える光景が断続的に切り変わる。遠くの景色を眺めていることもあれば、目の前にいるかのように人の顔がはっきりと視えたり、手元しか視えなかったりすることもある。
つい先ほど木から滑り落ちそうになった瞬間、スカーレットは未来を視た。
その光景では、今まさに起きているのとまったく同じ、スカーレットにある日突然王命が下り、ディークマイアー公爵家に嫁ぐことになるというもの。
義務として始まる政略結婚。
嫁ぎ先では、初対面で夫になるライナルトから「愛することはない」と言われ、冷遇される。
しかし結婚生活を送る中でふたりの関係に変化が生まれ、ライナルトはスカーレットを心から愛するようになる──、そんな未来。
スカーレットはついさっき自分が視た未来を家族に伝えたあとで、興奮気味に付け加える。
「それにほら、恋愛小説でもよくある展開だわ!」
「お前しか読んでいない小説だろう?」
兄がすぐさま横槍を入れる。
「失礼ね、この国の翻訳版がまだないだけよ。出版元の南の貿易国では大流行しているもの。王国に入ってくるのも時間の問題よ」
スカーレットは恋愛小説好きだった。
特に南の貿易国で流行っている貴族令嬢や王女が登場する内容にハマっている。義務で政略結婚を強いられた貴族令嬢が他家へ嫁いだり、国を守るために犠牲になる王女が他国へ嫁いだりするが、初夜に夫から「愛することはない」と言われて突き放される。しかしその後は関係が変化して夫は妻に心惹かれ、やがて溺愛するようになる、という物語だ。
「──お父さま、お母さま、お兄さま」
スカーレットは大切な家族の顔を順番に見る。
「心配しないで。未来視のとおりなら、旦那さまはわたしのことを溺愛してくださるみたいよ」
◇ ◇ ◇
そうして王命が下って、わずか一か月後。
スカーレットは、ディークマイアー公爵家に嫁ぐことになった。
公爵邸に着き、夫となるライナルトと初めて顔を合わせる。
「初めまして。ビュッセル伯爵家の娘、スカーレット・ビュッセルと申します」
あいさつしたあとで顔を上げたスカーレットは、相手の顔をまじまじと観察する。
(実際お会いしてみても、とても素敵な方に見えるかしら)
ライナルトは二十五歳、スカーレットよりも八つも年上。
スカーレットが同年代の令嬢に比べて小柄なせいもあるが、ライナルトは高身長で引き締まった体をしているため、ずいぶんと大きく見える。
綺麗に分けられた黒髪。深い青色の瞳。それらが精悍さを醸し出している。
先ほどからライナルトも、スカーレットをじっと見ていた。
しかし我に返るようにハッとしたあとで、眉間にぐっとしわを寄せ、今度はにらみつけてくる。
(まあ……! 怖いお顔! さすがは騎士さまだわ)
スカーレットはなんとか口に出すのを堪え、心の中でつぶやく。
ディークマイアー公爵家は絶大な権力と財力を有し、遡れば王家の血も引く由緒ある家門。
それに加え、現当主であるライナルトは救国の騎士という名声までも手に入れている。
五年前、王国の北に位置する帝国が突然越境してきたのだが、そのとき国境近くにいたライナルトと公爵家騎士団が応戦し、援軍が来るまでの数日間を耐え抜き、侵略される危機を防いだ。その功績ゆえに、彼は今では救国の騎士とまで呼ばれている。
ライナルトは冷ややかな視線で、スカーレットに向かって一際低い声で言った。
「これは政略結婚だ。あなたを愛することはない」
言われた言葉、相手の表情、背後に見える格式のある邸内。そのすべてが自分が視た光景、そのままだった。
だからスカーレットは思わず、
「まあ……!」
と口元に手を当て、声を出してしまった。
そしてこくこくと頷くと、悲観することなくにっこりと微笑む。
「ええ、ええ、わかっていますわ。あとで溺愛になるよくある展開ということですわよね」
つい言わなくてもいいことまで、ぽろりと口にしてしまう。
あらっと思ったときには、もう遅かった。
ライナルトが唖然とする。ややあってからプルプルと震え始め、
「で、溺愛──⁉︎ いったい何を言っているんだ! そんなわけないだろ‼︎」
慌てたように手の甲を口元に当てて叫ぶ。耳がほんのり赤いのは気のせいだろうか。
(うっかり言ってしまったものは仕方ないわよね)
スカーレットは開き直ることにした。そして気になっていたことも、ここぞとばかりに伝えておく。
「あら、今は、ですわよね。ですので、お心が変わるまではお気遣いいただかなくても大丈夫ですわ。あ、でも溺愛になるのなら、わたしも心の準備をしなければいけませんので、あらかじめ予告していただけるとありがたいのですが」
スカーレットの愛読書が恋愛小説だとはいえ、彼女は実際に恋をしたことはまだない。そのため心の準備が必要な気がしたのだ。とはいえ、どうやって準備するのかはわかっていないが。
「──っ! モーガン、すぐに彼女を部屋へ案内しろ!」
「あ、旦那さま──」
「まだ旦那さまじゃない!」
スカーレットが呼び止めると、ライナルトは捨て台詞のようにそう言って、その場から立ち去っていった。
どうやらスカーレットの突拍子もない反応に苛立ったようだ。
(ああ、もっと余計なことを言ってしまったわね。でもなんだか可愛らしかったような……)
未来視では見られなかったライナルトの意外な反応を目にして、思わずスカーレットの口元がゆるむ。
「……あの、スカーレット伯爵令嬢。私は家令をしております、モーガンと申します。お部屋にご案内いたします。どうぞこちらへ」
白髪の家令、モーガンが恐縮しながらスカーレットを促す。
その後案内された先は、公爵夫人の部屋ではなく、公爵邸の南側の棟にある客室のひとつだった。
妻となるのだから公爵夫人の部屋を使わせるのが当然ではあるが、どうやらそういう待遇はしないらしい。
「こちらでお過ごしいただくようにと、ライナルトさまが……」
「わかりました。素敵なお部屋をありがとう。旦那さま──、いえ、ライナルトさまにもそうお伝えして」
室内を見回しながらスカーレットは微笑む。
モーガンは安堵するように息を吐くと、一礼して出ていった。
◇ ◇ ◇
スカーレットが最初に未来の光景を見たのは、八歳のときだった。
寝る前に、母に絵本を読んでもらっているときのこと。兄が庭にあるブランコから落ちて、手首を骨折する光景が視えた。
翌日、スカーレットはうまく言葉にできないながらも、とにかくブランコには乗らないでと兄に必死で伝えたが、何も知らない兄は笑い飛ばした。
しかし三日後、それは現実になる。
次にスカーレットが未来を視たのは九歳のとき。
屋敷の中を走り回っていて、廊下に置かれた木桶に躓いて中に入っていた水をこぼし、盛大に転んでおでこを打った瞬間だった。
視えたのはいつも仲のよい両親がひどい剣幕で喧嘩している光景だった。衝撃を受けたスカーレットは誰にも言えなかった。
一週間後、本当に両親は喧嘩してしまう。些細なことが原因のようだが、三日間口を聞かないほど拗れた。その後、なんとか誤解は解けて仲直りした。スカーレットは大粒の涙を流して安堵した。
スカーレットはもう黙っていることはできず、両親と兄に自分の身に起こる出来事を打ち明けた。
「……未来視っていうのかな、そういうの」
「私たちだけの秘密だ。スカーレット、いいかい、家族以外には誰にも言ってはいけないよ?」
「スカーレット、約束してちょうだい」
不思議そうに兄がつぶやき、半信半疑ながらも心配する面持ちで父と母がスカーレットにそう言った。
その後も、スカーレットは未来の光景を目にすることになる。
十二歳のとき馬車で移動中、祖母の遺品の大事なネックレスが失くなり、母が悲しんでいる光景だった。スカーレットは母に「ちゃんと大事にしまっておいてね」と言ったが、翌月いつの間にかネックレスは消えていた。
新しく入ったメイドが盗んだらしかった。ネックレスは売られる前に取り返せたため、なんとか失わずに済んだ。
度重なるスカーレットの未来視に、家族はもう疑うことはなくなっていた。
そして十四歳のとき、スカーレットは父の誕生日を祝っている晩餐中、領内で大規模な土砂崩れが起こる光景を視た。すぐさま父と母、兄に伝えた。
スカーレットは両親と兄とともに、自分が視た光景からおおよその位置の予測を立て、至急対策を取った。
いつ起こるかわからない災害を警戒するのは難しいものがあったが、予測された地域に住む領民には警戒を呼びかけ、可能な限り避難させておいたため、土砂災害が起きたときは幸いにも命を落とす者はいなかった。
それでも被害は甚大で、復興には時間もお金も必要になった。
そして今──。
王命でディークマイアー公爵家に嫁ぐ未来が視え、すぐさま現実になったのだ。
(でもさすがに、視えた直後に王命が下るとは思わなかったけれど……)
◇ ◇ ◇
次の日の朝、スカーレットはライナルトに呼ばれた。
通された豪奢な応接間。
「──そこにサインを」
朝のあいさつもそこそこに、ライナルトは視線だけでスカーレットに指示する。
テーブルの上にあったのは、婚姻書だった。
すでにライナルトの名前は書かれてある。
盛大な結婚式も祝宴もない、形式だけの婚姻。
政略結婚とはいえ、ここまであからさまなものはないだろう。
スカーレットはひとまず言われるがまま、その婚姻書にサインする。
「あなたも知ってのとおり、これは王命による意に沿わぬ結婚だ」
ライナルトが念を押すように言う。
「ええ、改めておっしゃっていただく必要はございません、よく存じております。尊き方に嫉妬されるのも大変ですわね」
スカーレットがそう言うと、ライナルトが驚いたように目を見張る。
スカーレットとて、ビュッセル伯爵家に王命が下った理由を何も考えないまま嫁いできたわけではない。
現国王は悪く言えばとても凡庸だ。
対するディークマイアー公爵家当主であるライナルトは、権力と財力、武力、そして名声まで手にした稀有な人物。救国の騎士という呼び名までつけられ、多くの民衆からも支持されている。それに加え、様々な改革を打ち出して領地をますます発展させるなど、知力と行動力に優れた人物としても知られている。
王城の中には王族の血を引く彼と国王を比べる者もおり、国王はひどく苛立ち、妬んでいた。
そんな中、反王室派の侯爵家の令嬢がライナルトに好意を抱いているようで、もし両家が縁付けば王室を脅かす最大勢力になる可能性がある。それを恐れた国王は、王室派に属している家門の中で最も困窮しているビュッセル伯爵家に目をつけ、いざとなったときに操りやすいという理由で、王命を下してまで急いでスカーレットを嫁がせたのだろう。
ビュッセル伯爵家は一応王室派の末端に属しているものの、昔から積極的に反対する強い意思がなかったため、結果的に王室派に属しているだけに過ぎない。忠誠心はあってないようなものだ。
「……ならいい」
ライナルトはなぜか不機嫌そうにそう言うと、もう用は終わったとばかりに席を立つ。
その後、朝食が用意されたが、ライナルトが同席することはなかった。
◆ ◆ ◆
ライナルトは早くに両親を亡くしたため、ディークマイアー公爵家の当主になったあとはその重責を果たすだけで精いっぱいで、結婚は後回しにしていた。
しかしそれが仇となった。
ディークマイアー公爵家にこれ以上力をつけさせないよう、国王が王命でライナルトに婚姻を迫ってきたのだ。
さすがのライナルトも王命となれば、容易には断れない。
当然ながら、相手方のビュッセル伯爵家も断ることは不可能だろうということも承知していた。
でもだからと言って国王に反感を覚えている以上、弱みを握られないためにも、王命による政略結婚を素直に受け入れる姿勢は見せられない。
だから花嫁となる令嬢と良好な関係を築くなど望んでいない。
ライナルトは苛立つ気持ちを抱えながら、その日花嫁を出迎えた。
公爵邸にやってきたのは、自分とは年齢差も体格差もある若い令嬢のスカーレット・ビュッセル。
ライナルトは、これまで一度たりとも女性に心を惹かれたことなどなかった。
でもスカーレットを見た瞬間、時間が止まったかのように目が離せなくなった。
あいさつをするその声すらも、ずっと聞いていたいほど心地いい。
だがすぐに我に返る。
ひどく動揺していた。なぜ自分がそんな気持ちになるのかもわからなかった。
眉間に力を入れ、彼女に目を奪われないようにし、冷ややかな視線を向ける。あらかじめ決めておいた台詞、
「愛することはない」と告げる。大抵の令嬢は屈辱を受けたと感じるだろう。
しかし言葉を口にした瞬間、ライナルトは胸に矢が刺さったかのような激しい痛みを感じた。
自分がそう望んだくせに、スカーレットに嫌われたと思うと後悔に襲われる。
しかし彼女は予想外の反応を見せた。
「あとで溺愛になるよくある展開ということですわよね」
なぜ彼女がそんなことを言ったのかはわからない。でも自分の胸のうちを言い当てられたように感じて、激しく動揺する。
にっこりと笑う顔まですごく愛らしい。
そのうえ「旦那さま」とまで呼ばれてしまったときには、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
突然湧き上がる感情に、ライナルトは戦場での勇猛さの欠片もなく、混乱のあまりその場から逃げてしまったのだった。
◇ ◇ ◇
スカーレットが書面上ディークマイアー公爵家に嫁入りしてから、二週間が経った。
その間、ライナルトと食事をともにしたことは一度もない。
部屋も相変わらず、客室のまま。
当然ながら、初夜もない。
どうやらライナルトは、本当にスカーレットをお飾り妻としか見ていないようだ。
(本当に溺愛になるのかしら……?)
未来が視えたとはいえ、スカーレットが視た光景は断片的なもので、どうやってライナルトと関係を築いていったのか、肝心なところはわからないまま。
(でも顔を合わせないことには、何も始まらないわよね……?)
だからなんとか隙を見つけてはライナルトのそばに寄っていくのだが、彼はこちらの姿を見た途端、脱兎のごとく逃げてしまう。スカーレットは足の速さには自信があるほうだったが、体格差のあるライナルトに追いつくのは至難の業だった。
だから今は、木の上でじっと彼が通りかかるのを待ち伏せしている。
しばらくして声が聞こえた。
目を向ければ、ライナルトが家令のモーガンを伴ってこちらに歩いてくる姿が見える。
スカーレットは口端を上げる。
タイミングを合わせ、ライナルトが近づく瞬間を狙い、勢いよく飛び下りる──、つもりだった。
しかしあと数歩手前のところで、視線を下げたライナルトが何かに気づき、地面に落ちているものに手を伸ばす。
「あ──!」
スカーレットは思わず声をあげる。
ライナルトが拾ったのは、木に登る前にスカーレットがポイッと脱いで放置していた靴だった。
パッと顔を上げたライナルトと目が合う。
「──っ⁉︎」
ライナルトは一瞬驚いたものの、すぐに深いため息を漏らす。ひと呼吸置いてから、冷ややかな声音でスカーレットに指図する。
「……はあ、スカーレット嬢、どうしてそんなところに。いや、それよりも今すぐ下りてくるんだ」
スカーレットは仕方なく、木に幹に抱きつき、ずりずりと下りようとする。
しかし完全に下りる前に、背後から体を両脇から支えられ、小さい子のようにひょいっと抱えられて地面に下ろされる。
「気をつけてくれ、怪我でもしたら困る。──モーガン、後ろを向いていろ」
なぜか彼は肩越しに振り返り、後ろでおろおろしている家令のモーガンに向かって言う。
どうしてそんなことを言うのだろう、とスカーレットは首を傾げる。
すると、ライナルトは埃まみれのスカーレットの前にすっと跪くと手を伸ばし、彼女の足に手を添えて靴を履かせ始める。
「え──⁉︎」
予想外のことに、スカーレットは固まる。
直接足に触れる彼の大きな手。
じんとなるようなぬくもり。
こんなにも自分の足は小さかっただろうかと思ってしまう。
背筋がぞくりと震えた。
これまで感じたことのないほど、顔が熱くなるのを感じる。
気づけば、スカーレットはライナルトに向かって、勢いよく両手をドンッと前に突き出していた。
鍛えられた体をしているライナルトはびくともしないが、驚きのあまり呆然とした表情でスカーレットを見上げている。
「し、失礼しますわ──っ!」
そう言うと、スカーレットは裸足のままその場から走って逃げた。
◇ ◇ ◇
その日の夜遅く、スカーレット宛に荷物がふたつ届いた。
メイドが渡してくれた四角い箱を開けてみると、中には見覚えのある自分の靴が入っていた。昼間スカーレットが脱ぎ捨て、ライナルトが履かせてくれようとしたあの靴だ。
汚れを落として磨き上げてくれたうえ、踵の削れている部分も直してくれたのか、新品かと見違えるほど綺麗になっていた。
もうひとつの箱を開けてみると、そこには見覚えのない真新しい靴が入っていた。
スカーレットの瞳の色を思わせる鮮やかなエメラルドグリーンの繊細なレースがあしらわれた、とても可愛らしい靴。
箱の中にはメッセージカードが入っていた。
『不用意に触れてしまってすまない。お詫びに受け取ってもらいたい』
ライナルトからだった。
短いメッセージの中にも彼の誠実さがうかがえ、スカーレットの胸が熱くなる。
未来を視た光景の中には、贈り物をもらうこんな場面はなかった。
靴を履かせてくれる場面も──。
未来視では知り得なかったライナルトの一面を知るたび、スカーレットは満たされる喜びを感じていた。
◇ ◇ ◇
次の日の朝一番、スカーレットは執務室にいるライナルトにお礼を言いに行った。
だめ元だったが、すんなり彼は会ってくれた。
スカーレットが満面の笑みで靴を贈ってもらった喜びを一生懸命伝えると、ライナルトは少しぎこちないものの微笑んでくれ、ますますスカーレットは嬉しくなった。
だからつい聞いてしまった。
「あの、ライナルトさま、溺愛の予告はまだでしょうか?」
何かははっきりとはまだわからないが、スカーレットの中でとても大切な心の準備ができたような気がしたのだ。
ライナルトは一瞬ポカンとしたあとで、バサバサッ──! と盛大に執務机の上の書類を床にぶちまけ、弾かれたように立ち上がる。
「な、何を──⁉︎ まだも何も、そ、そんなものはない──! 絶対に!」
「そうですか……」
力強く否定され、スカーレットはしょんぼりと項垂れる。
「お忙しいところ、お邪魔してしまって申し訳ありませんでした……」
そう言って、執務室をあとにする。
スカーレットの背後では、ライナルトが真っ青になって自分の発言を激しく後悔していたが、彼女は気づかなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、スカーレットは公爵邸の庭園を散歩していた。
ここ最近、午後は庭園を散歩するのが日課になっている。
重厚な庭門をくぐり抜けると、庭園が広がり、優しい色合いでまとめられた草花が咲き誇り、目を楽しませてくれる。
それらを眺めながら、ゆっくりと歩く。
向こう側、庭の中央にはかつて活躍していたのだろう、今は飾りとして庭のシンボルになっている日時計が見える。
気づけば、スカーレットがディークマイアー公爵家に来てから三か月以上が経っていた。
ライナルトから溺愛される気配はまだないが、公爵邸に来たときと比べると、顔を合わせた途端に逃げられることも減り、今では朝食や夕食を一緒に食べる機会も増えてきていた。
(こうやって少しずつ近づいていければ、未来で視たような仲になれるのかしら……?)
少し希望が見えた気がして、スカーレットの頬が無意識にゆるむ。
ふふっと笑みをこぼした瞬間──。
突如、スカーレットの脳裏にある未来の光景が視えた。
──ライナルトだ。
とても嬉しそうに笑っている。
スカーレットが見たことがないほどの笑顔。
彼は見知らぬ女性と抱き合っている。
女性は後ろ姿で顔は見えない。
でも貴族女性にしては珍しいくらいに、肩上でバッサリと切られた斬新な髪型だった。その髪には竜をモチーフとした特徴的な金細工の髪留め。
くらりと目眩がした。
ハッとした次の瞬間には、もう何も見えなくなっていた。
目の前には、今はもうずいぶんと馴染んだ公爵邸の庭園が広がるばかり。
(ああ、なんてこと──。間違っていたんだわ……。さっき視えた女性が、本当はライナルトさまの妻になる方だったのよ……)
心臓が押し潰されそうなくらい苦しかった。
◇ ◇ ◇
スカーレットはふらつきながら、なんとか自分に当てがわれている部屋に戻る。
すると、部屋のドアを開けた瞬間、愕然とする。
それもそのはず、部屋の中にあった自分の荷物がすべてなくなっていたのだ。
まるで引越しでもしたあとのように、綺麗さっぱりなくなっていた。
実家から持ってきた物はさほど多くはないが、それでも愛着のある物ばかりだったし、何よりもライナルトが贈ってくれたエメラルドグリーンのあの靴までも見当たらなくなっていた。いつでも見られるように、ドレッサーの上に置いておいたのに──。
(ああ……、そういうことなのね……)
スカーレットは覚悟を決める。
空っぽになった部屋を出ると、そのままの足でライナルトの執務室へと向かう。
「スカーレット嬢? 今ちょうどあなたに伝えたいことが──」
「ライナルトさま」
スカーレットが執務室入ると同時にライナルトが何か言いかけたが、彼女は構わず遮る。
「……ライナルトさま、申し訳ありません。わたしの誤りでしたわ。ライナルトさまが溺愛されるお方は新しい価値観を持った女性のようです。わたしではありませんでしたの。つきましては、離縁を申し出たいと存じます」
「──は?」
「ですから、離縁を──」
「ま、待て! なんでそうなる⁉︎」
「なんで、とおっしゃられましても、そうだとしか……」
(未来が視えることを打ち明けたとしても、こんな話信じてもらえるかわからないもの……。それに──)
スカーレットはぎゅっと拳を握り締める。
「……先ほど散歩から戻ると、わたしの部屋の荷物がすべてなくなっておりました。出ていけ……、ということですわよね」
「それは──! いや、これからその話をしようと思っていたところで……」
何やらライナルトは慌てたようにもごもごと言葉を濁す。
その様子にスカーレットはますます確信を強める。
(ああ、ライナルトさまも離縁を伝えようとしていたわけなのね……)
「……そうですか、わかりました。少しの間でしたが、大変お世話になりました」
スカーレットは深々と頭を下げたあとで、踵を返そうとする。
「だから、なんでそうなる⁉︎ 待て、待つんだ!」
決心が鈍るから振り返ってはいけない。そう思うものの、抗えなかった。スカーレットは足を止め、ゆっくりと振り返る。彼女の瞳には涙が滲んでいる。
その涙を目にしたライナルトが息を呑む。すぐに苦渋の表情を浮かべ、何から自問自答するように唸っていたかと思えば、しばらくしたあとでぽつりとつぶやく。
「そ、そんなことは、ない……、とは言えない」
「??」
「だから、つまり! わかるだろう!」
「……? ……と言われましても」
さすがにスカーレットにそこまでの察知能力はない。
ライナルトが覚悟を決めたように、スカーレットに力強い視線を向ける。
「──だから! ここにいればいい、ずっと!」
「でも……」
「でもじゃない! 俺はきみが好きなんだ!」
予想もしていなかった言葉に、スカーレットは目を瞬かせる。
ライナルトの顔が赤い。
「一目惚れなんだ! 一緒に暮らすようになって、あなたの無邪気なところも、何をするかわからない突飛なところもどんどん好きになった。荷物はすべて公爵夫人の部屋に移したんだ。あなたに使ってもらいたいから……!」
「──まあ!」
「無断で動かしたのは、すまなかった。その……、断られるのが怖くて……」
「では、わたし、本当にここにいてもよろしいのですか……?」
「だからそう言っている! ……きみは、どうなんだ。俺のことをどう思ってる、いや、いい、言わなくて。わかっている、これからきみに少しでもいい印象を持ってもらえるように努力する。だからここのまま、ずっと俺の妻でいてくれ」
「……本当に?」
「ああ」
「じゃあ、あの女性は……?」
「ん?」
「肩までのとても短い髪の、竜のモチーフが特徴的な金細工の髪留めをした女性……」
「髪が短い女性? 竜のモチーフの髪留め? ──ああ、叔母上のことか? 肖像画でも見たのか?」
「叔母上……?」
「ああ、先代公爵、父の妹だ。他国に嫁いでいるから滅多に会うこともないが……。そうだな、あなたにも会ってもらいたいし、近いうちにこちらに来てもらえるよう手紙を出しておこう」
スカーレットはヘナヘナとその場に崩れるように座り込む。
「スカーレット嬢⁉︎」
駆け寄ってきてくれたライナルトの腕を、スカーレットはそっと掴む。
顔を上げ、期待が滲む眼差しで確認するように訊ねる。
「……これから溺愛、ということでしょうか?」
◇ ◇ ◇
後日、国王宛てにビュッセル伯爵家の紋章が押された一通の手紙が届く。
そこに書かれていたのは、国王が慎重に隠しているはずの極秘事項──。
国王は手紙を握り締めた手を震わせながら、唐突に代々王家に伝わるある言葉を思い出す。
『──眠れる獅子を起こしてはならない』
以来、国王はディークマイアー公爵家とビュッセル伯爵家に一切関与することはなかったという。
国王が手紙を手にする、その前日。
ビュッセル伯爵家に、ディークマイアー公爵夫人となったスカーレットから手紙が届いていた。
『伯爵家で代々保管し更新している〝コード・ビスキュイの秘密帳〟。その第十三巻の六百十八頁、五十三行目に記している〝陛下の三つの秘密〟を書き写したお手紙を、ご本人宛てに送っておいてくださいませ』
そのことを知るのは、スカーレット本人とビュッセル伯爵家の家族だけ──。
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