第21話 東雲
三日後の朝、街外れの古い倉庫の前に、紋章のない、黒塗りの馬車が止まった。御者は無言のまま荷台から木箱を二つ下ろし、それから馬車の扉を開ける。中から、一人の娘が降りてきた。
年は十七、八だろうか。くすんだ亜麻色の髪を後ろで束ね、下働きの者が着る灰色の衣を纏っている。痩せた肩が、小さく震えていた。
娘は倉庫の前に立つ人々を怯えた目で見回すと、御者は娘に何も言わず、馬車に乗り込み、来た道を引き返していった。
尊は、木箱の一つに歩み寄り、蓋を開けてみると金貨が詰まっていた。
「……三百枚、あるな」
背後で、クラウスが呟いた。
「確かめるまでもない。あの方はこういう約束だけは違えん」
尊は蓋を閉じ、娘の方へ向き直った。娘は尊の泥だらけの外套と、腰の刀を見て、一歩後ずさった。
「トマスの妹のエマか?」
娘の目が、大きく見開かれた。
「……そ、そうです。兄さんを、知ってるんですか…」
エマは疲れた声をしてそう言う。
「湯と、飯がある。トマスは昼に来るから中で待て」
***
トマスが倉庫の前に現れたのは、日が高くなってからだった。衛兵の制服は剥がされ、粗末な旅装に着替えさせられていた目の下には深い隈ができている。付き添っていたのは、ガルドだった。
「王都の法務卿から、沙汰が下った。脅されていたことを汲み、死罪は免ずる。衛兵の職を解き、レグナの城内への立ち入りを禁ず。――追放だ」
「そうか」
「異例の早さだ。普通なら、沙汰が下るまでにひと月はかかる」
ガルドは、尊の顔をじっと見た。
「誰かが、上で口を利いたとしか思えん」
ガルドは、しばらく尊を睨んでいたが、やがて深く息を吐いた。
「城の外までは、送った。ここから先は、俺の知ったことじゃない」
そう言い捨ててガルドは背を向け、数歩行ったところで立ち止まる。
「トマス」
トマスが、びくりと顔を上げガルドは、振り返らずに言った。
「二度と、詰所の門をくぐるな」
それから、街の方へと歩き去っていく。トマスは、その背中に、深々と頭を下げていた。
***
倉庫の扉が、内側から開くとエマが、立っていた。トマスの身体が、凍りつく。
「エマ!!!」
「兄さん……」
娘の顔がくしゃりと歪み、次の瞬間、エマはトマスの胸に飛び込んでいた。トマスは、よろめきながら妹を抱きとめ、そのまま膝から崩れ落ちる。二人とも、声を上げて泣いていた。
尊は少し離れた場所から、黙ってそれを見ており、倉庫の入口の柱にもたれていたクラウスが、ぽつりと言った。
「……王都の外れの屋敷で、二年だ」
尊は、クラウスを見た。
「下働きと言えば聞こえはいいが、実のところは人質だ。トマスが命令に背けば、どうなるか分からない。あいつは二年間、毎日それを考えながら衛兵をやっていた」
クラウスは、抱き合う兄妹から目を逸らした。
「俺はそれを知っていて、あいつを使っていた」
尊は、何も言わなかった。やがてトマスが妹を抱いたまま、ゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた目が尊を捉える。
トマスは、エマをそっと離し、尊の前まで這うようにして進み、額を地面につけた。
「ミコト様」
震える声だった。
「この御恩は、命に代えても」
「命は要らない。その分働いてくれ」
トマスは額を地面につけたまま、何度も頷いた。
***
その日の午後王宮の侍従が、四頭立ての馬車で倉庫を訪れた。荷台から下ろされたのは、王家の紋章が刻まれた頑丈な鉄の箱で、侍従が鍵を開けると中には金貨が整然と並んでいた。
「王女殿下よりミコト殿への報奨金、金貨五百枚にございます」
侍従は、帳面を開いて尊に差し出した。
「受け取りの証に、名を」
尊は、帳面を見下ろした。並んだ文字は、相変わらず一文字も読めない。
「……書けない」
侍従が、目を瞬かせた背後で、クラウスが小さく咳払いをした。
「旦那の代わりに、俺が記そう」
侍従は困惑した顔でクラウスと尊を見比べていたが、やがて帳面を差し出した。クラウスが、尊の名を流れるような字で書きつける。侍従が去った後、二つの箱が並んだ。公爵からの三百枚。王家からの五百枚。
「八百枚」
クラウスが、腕を組んで箱を見下ろした。
「中堅の運送商会なら、丸ごと買える。馬と荷車と倉庫を揃えて、二、三十人を一年食わせても、まだ余る」
それから、クラウスは尊の方を見た。
「だが、その前に一つ。字を覚えてくれ、若」
尊は、黙ってクラウスを見た。
「商会の主が、受け取りの証に自分の名も書けないとなれば、取引相手に舐められる。帳面も読めない、証文も読めない。俺が読み上げてやれば済むが、俺がいない時に、誰かに嘘を読み上げられたらどうする」
その通りであると尊は、口を閉じた。人の口から出る嘘なら、胸の蒼が跳ねる。だが、紙の上に書かれた嘘は、ただの墨だ。魔力炉で帳簿の偽装を破れたのは、帳簿を読まなかったからだった。だが、それは読めないことを逆手に取っただけで、読めないことが強みになったわけではない。
商会を開くなら、証文を交わし契約を結ぶ。そして帳簿をつける。読めないままでは、いつか必ず書かれた嘘に足を掬われる。
「……分かった」
尊は、短く答えた。
「誰に習えばいい」
「わ、わたしで、よければ」
小さな声がした。振り向くと、エマが、湯を運んできた盆を抱えたまま立っていた。
「お屋敷で、奥様の手紙の写しを、ずっとやらされていましたから……字なら、少しは」
尊はエマを見て、それから小さく頷いた。
***
日が傾き始めた頃、倉庫の中に全員が集まった。クラウスと、その部下の二人。北の戦でクラウスの下にいたという、2人と灰色の外套の男。さらにトマスと、エマ。リオとその母親。そして、ロイス。リオの母親王国から使われた治癒術師と薬を用いて、杖をついて歩けるほどまでには回復している。
十人に満たない人数だ。倉庫の広さに比べれば、あまりに少ない。尊は木箱の上に腰を下ろし、全員の顔を見回した。
「商会を開く」
誰も、驚かなかった。ここにいる全員が、それぞれの形で、尊がそのつもりでいることを知っていた。
「最初にやるのは、物流だ」
尊は、淡々と言った。
「荷を運び、荷を預かるり、荷を届ける。この街の荷揚げ場で、俺は人足として一日働いた。荷車は空のまま行き来し荷は倉庫で腐り、届くはずの荷が届かない。無駄だらけだった」
クラウスが、腕を組んだまま頷いた。
「兵站の目で見れば、あの荷揚げ場は穴だらけだ。俺が軍にいた頃なら、半分の荷車で倍の荷を運べる」
「炉は」
リオが、思わず口を挟んだ。それから、慌てて口を押さえる。尊は、リオを見た。
「炉は、後だ。記録を読める者を探さなければならない。それには時がかかる。その間、ここにいる全員を食わせなければならない」
尊は倉庫の奥の、金貨の箱を見やった。
「金は、使えば減るからこそ減る前に、稼ぐ道を作る。それが、物流だ」
全員が、黙って聞いていた。
「それで、兄ちゃん」
リオが、もう一度口を開いた。
「商会の名前は?」
尊は、少しだけ考えた。名前のことなど、考えていなかった。だが、ふと、一つの光景が浮かんだ。
坑道を抜けた時の、空。腕の中に王女を抱え、背後に解き放たれた人々を連れて、闇から出てきた時。東の空が、白み始めていた。夜が終わり、まだ朝が来る前の、ほんの僅かな時間。天城では、その空の色を、こう呼んだ。
「……東雲」
尊が呟くと、リオが首を傾げた。
「しののめ?」
「夜明け前の、東の空だ」
尊は言った。
「夜が明けきる前に、東の空だけが白んでくる。まだ朝ではない。だが、もう夜でもない」
倉庫の中が、静まり返った。
「聞き慣れない響きだな」
クラウスが、ぽつりと言った。
「だが、悪くない」
その時、尊は、視界の端でロイスの姿を捉えた。ロイスは、倉庫の柱の傍に立っていた。いつもの穏やかな笑みは、その顔から消えていた。ただ、目を伏せて、唇だけを、かすかに動かしていた。
――しののめ。
声には出さず、確かめるように。ロイスは、尊の視線に気づくと、顔を上げ、いつもの柔らかな笑みに戻った。
「良い名です」
それだけを、言った。
***
その夜、全員が寝静まった後、尊は倉庫の屋根に上がって夜空を見上げていた。梯子が軋む音がして、クラウスが上がってきた。
「眠れんのか、旦那」
「少し、考え事をしていた」
クラウスは尊の隣に腰を下ろし、しばらく、二人とも黙って星を見ていた。
「今日、王都から噂が届いた」
クラウスが、低い声で言った。
「王立魔導院の副院長が、捕らえられたそうだ。坑道の術師どもの上役だった男だ。取り調べで、術師どもがその名を吐いた」
尊は、黙って聞いていた。
「副院長は、牢に入れられた翌朝、自ら命を絶った。遺書があったそうだ。殿下をさらい、炉を組ませたのは、すべて自分の一存だとな」
尊は、目を閉じた。
「……公爵か」
「ああ」
クラウスは、星を見上げたまま答えた。
「副院長は、炉のことを確かに知っていた。術師どもを手配したのも、あの男だ。だが、すべてを一人で企めるような器じゃない」
「切り捨てたのか」
「名が出る前に、自分の手で幕を引いた。あの方らしいやり方だ」
クラウスの声には、何の感情も込められていなかった。だが、その胸の蒼が、僅かに沈んでいるのを、尊は見ていた。自分もまた、あと一歩で、そうなるはずだった男だ。
「お前の名は、出なかったか」
「出なかった」
クラウスは、小さく笑った。
「あの方は、約束を守っている。旦那との約束をな」
尊は、夜空を見上げる。公爵は、約束を守った。尊の配下には手を出さず、トマスの妹を返し、トマスの命を助け、金貨三百枚を届けた。そして、自分の名を守るために、副院長を差し出した。
「……クラウス。あの男は、何のために炉を作った」
クラウスは、すぐには答えなかった。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「国を、残すためだと言っていた」
尊は、クラウスを見た。
「東には帝国。北には諸国。西では魔物が湧き続けている。このままでは、百年後にアルヴェリアは残っていない。だから、国を支えられるだけの力が要る。それも、今すぐに、と」
クラウスは、星を見上げたまま続けた。
「人を燃やしてでも、だ」
夜風が、倉庫の屋根を渡っていった。尊は、何も言わなかった。国が滅びるということを、尊は知っている。
炎に包まれた村。燃える田畑。十年守ってきた土地。最後の一人が森へ入るまで、刀を振るい続けた夜。あの老人もまた、国が滅びる未来を見ているのかもしれない。
だが――。
「人を燃やして残った国は……本当に、残ったと言えるのか」
尊は静かにそう疑問を問いかけるが、答えを持っていない。ただ、夜空の東の端を、じっと見つめていた。まだ、白んでもいない。夜明けまでは、まだ遠そうだ。




