昼食の時間
お昼の時間になると、
みんなぞろぞろと部屋から出てくる。
まるで、餌の時間を知っているアリのようだった。
それまで静かだった廊下に、
スリッパを引きずる音が重なり始める。
閉じこもっていた人も、
廊下を歩き続けていた人も、
十二時になると同じラウンジへ集まってきた。
重症の人は、
看護師さんに見守られながら食事をとる。
食べ物を喉に詰まらせないよう、
一口ずつ確認される人。
自分では箸を持てず、口まで運んでもらう人。
食事を拒み、
看護師さんから何度も声をかけられている人。
それ以外の人は、それぞれ好きな席に座る。
誰かと話しながら食べる人もいれば、
壁を向いて黙々と食べる人もいる。
私は、なるべく人の少ない机を選んだ。
病院のご飯は薄味だった。
おいしいとも、まずいとも思わない。
ただ時間になったから食べる。
食べ終わったら薬を飲む。
ここでは、食事も治療の一部だった。
たまたま私の向かいに座ろうとしたのが、
同室の南さんだった。
南さんとは、まだほとんど話したことがない。
部屋ではいつも、
自分のベッドを整えていた。
掛け布団の端を何度も撫で、
少しでもずれると最初からやり直していた。
几帳面な人なのだと思っていた。
南さんは椅子の背に手をかけ、後ろへ引いた。
座るのだと思った。
けれど、椅子を元の位置へ戻した。
もう一度、引く。
また戻す。
引いて、戻す。
引いて、戻す。
椅子の脚が床を擦る音が、何度も繰り返された。
最初は、座る場所を迷っているのかと思った。
「そこ、使いますか?」
私が尋ねると、南さんは困ったように頷いた。
「使いたいんだけど、まだ座れないの」
「どうしてですか?」
「ちゃんと終わってないから」
何が終わっていないのか、私には分からなかった。
南さんはもう一度、椅子を引いた。
そして、戻した。
「こういう自分ルールが、勝手に始まるの」
南さんは椅子から手を離さないまま言った。
「決められた回数やらないと、
次へ進めない。
途中でやめたら、悪いことが起きる気がするから」
何回やれば終わるのかは、
南さんにも分からないらしい。
身体の動きは単純なのに、
表情はひどく苦しそうだった。
椅子を引くだけ。
座るだけ。
私なら何も考えずにできることが、
南さんには越えられない壁になっていた。
私は椅子の反対側へ手を伸ばした。
「私が押さえていましょうか」
手伝えば座れると思った。
椅子を動かせなくしてしまえば、
同じことを繰り返さなくて済む。
ほんの少しの仏心だった。
「手を出さないでください」
近くにいた看護師さんから、静かに止められた。
「でも、困っているみたいだから」
「これは南さんが、
自分で終わらせる必要があります。
周りが手伝うと、
その行動を自分で乗り越える機会を奪ってしまうことがあるんです」
責めるような言い方ではなかった。
それでも私は、差し出しかけた手を引っ込めた。
助けようとしただけだった。
目の前で困っている人を放っておくほうが、
冷たいように思えた。
けれど看護師さんは、
南さんの代わりに椅子を引くことも、
無理やり座らせることもしなかった。
少し離れた場所から、ただ見守っていた。
南さんは、また椅子を引いた。
戻した。
引いて、戻した。
私は黙って待った。
何度目だったか分からない。
やがて南さんの手が、椅子の背から離れた。
もう一度動かしたくなるのを堪えるように、
両手を強く握っている。
そのまま数秒立ち尽くしたあと、
南さんはようやく椅子に座った。
看護師さんは大げさに褒めなかった。
「座れましたね」
それだけ言った。
南さんは疲れたように息を吐き、
お昼ご飯の蓋を開けた。
「待たせてごめんね」
「大丈夫です」
そう答えながら、
私はさっき引っ込めた自分の手を見た。
誰かを助けることと、
その人の苦しみを代わってあげることは、
同じではないらしい。
南さんには、
南さんが自分で越えなければならない壁がある。
隣に立つことはできても、
代わりに越えることはできない。
それは、私も同じだった。
家族が病院へ連れてきてくれた。
医師が話を聞き、看護師さんが薬を渡してくれる。
死なないように、
鍵のかかる場所で見守ってくれる。
けれど、私の病気を私の苦しみを
誰かが代わりに治してくれるわけではない。
どうして自分を傷つけたのか。
何が苦しかったのか。
これから、どうやって生きるのか。
最後には、自分で向き合わなければならない。
ここにいる人たちは、
精神科というおなじくくりにくくられていながら
みんな違う症状を抱えている。
見えているものも、
聞こえているものも、
怖がっているものも違う。
それでも、
自分にしか越えられない壁の前に立っている
という点では、同じなのかもしれない。
南さんは、ようやく箸を持った。
私は向かいで、少し冷めた味噌汁を飲んだ。
昼食の時間は、何事もなかったように続いていた。
けれど南さんにとっては、
椅子に座れたことだけで、
ひとつの闘いが終わったのだと思った。




