私はその日、日常をなくした
第一節
自分の血って、思ったより黒い。
白い床に広がっていくそれを見ながら、私はぼんやりそんなことを考えていた。
救急隊員が慌ただしく動いている。
名前を呼ばれて、返事をして、また目を閉じた。
死にたかったわけではない。
でも、生きていたかったわけでもなかった。
気づけば、私は精神科病院の閉鎖病棟にいた。
重たい扉が、ガコン、と鈍い音を立てて閉まる。
その瞬間、
「あ、帰れないんだ」と思った。
看護師さんに荷物を確認された。
スマホ。
充電コード。
カミソリ。
鏡。
危ないものは預かりますね、と優しく言われた。
優しいのに、檻に入れられているみたいだった。
病室は薄暗く、妙に静かだった。
その静けさを壊すみたいに、隣の部屋から突然、壁を叩く音がした。
ドン、ドン、ドン。
苛立ったみたいに、何度も。
向かいの部屋からは、鳥みたいな叫び声が聞こえる。
最初は誰かが襲われているのかと思った。
でも看護師さんたちは誰も気にしていなかった。
ここでは普通なのだと、その無関心さで理解した。
怖くて、初日はほとんど眠れなかった。
数日後、私は医師に頼み込んで開放病棟へ移った。
閉鎖病棟にも慣れてはいた。
夜中の叫び声にも、
壁を叩く音にも、
もう驚かなくなっていた。
でも、鍵のかかった場所にいると、自分まで壊れていく気がした。
開放病棟には、いろいろな人がいた。
ぶつぶつ呟きながら廊下を徘徊する人。
自分のことをプロの作家だと言う人。
その人はノートもペンも持っていなかった。
「思いついた文章は編集者に直接届くから」
真顔でそう言った。
モテすぎて困るから、わざと太ったと言う女の人もいた。
「細いと男が寄ってきて大変なの」
プリンを食べながら笑っていた。
みんな、自分のことを語りたがっていた。
家族のこと。
恋人のこと。
仕事のこと。
薬のこと。
死のうとした日のこと。
昨日会ったばかりの私に、みんな驚くほど簡単に話した。
たぶん、誰も聞いてくれなかったのだと思う。
普通の人は、精神病の話を嫌がるから。
開放病棟といっても、自由ではなかった。
コンビニへ行ける時間も、タバコを吸える時間も決まっている。
時間になると、看護師さんに連れられて、患者たちがぞろぞろ移動した。
まるで遠足みたいだと思った。
喫煙所に入った瞬間だけ、生き返ったみたいな顔をする人たちを見ながら、私はぼんやり窓の外を眺めていた。
空は普通だった。
ここだけが世界から切り離されているみたいだった。
そんな人たちと、自分も同じ種類なのだと思うと、少し悲しくなった。
私はもっと普通だと思っていた。
もっとまともで、
ちゃんと外で生きていける人間だと思っていた。
でも、夜になると薬がないと眠れなくて、
死にたい気持ちを隠して、
鍵のかかった病棟で暮らしている時点で、
たぶんもう十分こちら側だった。




