第7話『それでも、君を選んだ』
世界が、音を失い始めていた。
人間界の朝はいつも騒がしいはずなのに、その日はやけに静かだった。車の走行音も、遠くの話し声も、薄い膜を隔てた向こう側にあるみたいに鈍い。
僕の視界の端で、色が少しずつ褪せている。
それは世界の異変ではない。
僕自身が、死神としての権限を削られ始めている証だった。
昨夜、上司から告げられた言葉が、何度も胸に反芻する。
――次に干渉すれば、お前も同時に消える。
それでも。
僕は今、ミオの病室の前に立っていた。
「ユウトくん?」
カーテン越しに、彼女の声がした。
弱く、それでいて確かに生きている声。
「……入ってもいいですか」
「もちろん」
病室の空気は、白く、軽い。
消毒液の匂いと、朝の光。
ミオはベッドに腰かけ、窓の外を眺めていた。
「今日ね、すごく空が近い気がするの」
彼女は微笑んだ。
「触れそうなくらい」
その言葉に、胸が締めつけられる。
彼女の魂が、すでに境界へ近づいている。
死の時刻は、依然として表示されない。
だが、それは“近づいていない”という意味ではなかった。
むしろ逆。
いつでも消せる状態に入った、ということだ。
「……怖くないですか」
問いかけると、ミオは少し考えてから首を振った。
「不思議とね、あんまり」
「どうして」
「だって」
彼女は、僕を見る。
「ユウトくんがいるから」
胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
それは希望ではなく、決意だった。
昼過ぎ。
死神界から、黒い使者が現れた。
上司ではない。
調整執行官。
存在修正専門の、無感情な死神。
彼らには名前がない。
あるのは役割だけだ。
病院の廊下で、すれ違った瞬間、空気が凍った。
「……来たか」
僕は小さく呟く。
彼は僕を一瞥しただけで、ミオの病室の方角を見る。
「対象確認。魂履歴、未登録個体」
声は無機質だった。
「本日中に調整を行う」
それは宣告。
「待ってください」
僕の声に、彼は初めて足を止めた。
「死神見習い。権限外行為だ」
「彼女には、まだ時間が……」
「存在しない」
即座に切り捨てられる。
「未来は帳簿に記されていない。よって延長も不可」
胸が、焼ける。
「……なら、せめて」
言葉を探す。
「彼女自身が納得する時間を」
調整執行官は、沈黙した。
「未練が増幅する」
「それでもです」
僕は、一歩踏み出した。
「彼女は、生きている。今この瞬間」
その瞬間、体が強く締めつけられた。
見えない鎖。
「次の干渉で、お前は消える」
再度の警告。
「理解している」
それでも、僕は下がらなかった。
夕方。
ミオは、外出許可をもらっていた。
病院の中庭。
小さなベンチと、冬の手前の木々。
「久しぶりに外に出た気がする」
彼女は、深く息を吸った。
「空気って、こんな匂いだったんだね」
その姿が、あまりにも儚い。
輪郭が、ところどころ透けている。
僕にははっきり見えた。
彼女の存在が、世界から切り離されつつある。
「ミオ」
「なに?」
言わなければならない。
今日、この瞬間に。
「……僕は」
喉が震える。
「あなたに、隠していたことがあります」
彼女は、静かに僕を見た。
「うん」
否定も、驚きもない。
「知ってた気がする」
胸が、詰まる。
「僕は、人間ではありません」
風が吹く。
葉が揺れる。
「死神……見習いです」
長い沈黙。
やがて、ミオは小さく笑った。
「やっぱり」
「……信じない、ですよね」
「信じるよ」
即答だった。
「だって、ユウトくん、ずっと“死”を怖がってなかった」
彼女は空を見上げる。
「それに、私が苦しい時、あなたの手はいつも冷たかった」
理由が、優しすぎた。
「だからね」
彼女は、まっすぐ僕を見る。
「ありがとう」
その一言が、胸を抉る。
「私、知ってる」
ミオは続けた。
「自分が、長く生きられないって」
言葉を失う。
「小さい頃から、ずっと身体が変だった」
彼女は微笑む。
「でもね、最近は思うの」
「……なにを」
「ちゃんと、生きたって」
彼女の胸元が、淡く光る。
魂が、安定している。
未練ではない。
“受容”だ。
調整執行官が、遠くからこちらを見ている。
執行の時が近い。
「ユウトくん」
彼女は、そっと手を伸ばした。
触れた瞬間。
強烈な痛みが走る。
死神が人間の魂に直接触れるのは禁忌。
体の奥で、何かが砕けた。
それでも、手を離さなかった。
「怖くないよ」
彼女が言う。
「だって、最後に会えたのが、あなたでよかった」
その瞬間、世界が軋んだ。
空が暗転し、音が消える。
調整執行官が動く。
「執行開始」
黒い光が、ミオを包もうとする。
「やめろ!」
僕は、彼女を抱きしめた。
死神としてではない。
一つの存在として。
「選ぶ」
僕は叫ぶ。
「彼女を、選ぶ!」
その瞬間。
僕の胸にあった死神の紋章が、砕け散った。
冷たい鎖が外れる感覚。
代わりに、温かい痛みが広がる。
血の匂い。
鼓動。
初めて感じる、“生”の感覚。
調整執行官が目を細めた。
「……権限放棄を確認」
彼の声に、わずかな揺らぎがあった。
「死神資格、剥奪」
それは同時に、存在の消去を意味する。
だが。
消えたのは、僕ではなかった。
黒い光が、霧のように散っていく。
ミオの輪郭が、はっきりと戻っていた。
頭上に、淡い光。
数字が、ゆっくりと浮かび上がる。
死の時刻。
初めて、彼女の未来が記された。
「……見えるの?」
彼女が尋ねる。
「……はい」
喉が、震える。
それは、長くはない。
だが。
“存在として認められた時間”だった。
「そっか」
ミオは、穏やかに笑った。
「なら、私、ちゃんと生きられるんだね」
その言葉に、涙が溢れた。
僕はもう、死神ではない。
彼女の命を延ばすことは、できない。
それでも。
彼女を“この世界の一部”にすることは、できた。
代償は、すべて。
未来も、役割も。
だが後悔はなかった。
彼女が、ここにいる。
それだけで、十分だった。
夕暮れの中庭で、二人並んで空を見上げる。
静かに、時間が流れていく。
それは、限りある。
だからこそ、美しい。




