第6話『消される未来』
死神界の空は、その日、いつもより暗かった。
灰色の雲が低く垂れ、風は音もなく回廊を抜けていく。
まるで世界そのものが、呼吸を潜めているかのようだった。
「……来い」
上司の声に導かれ、僕は再び“記録の間”へ足を踏み入れた。
あの日と同じ場所。
無数の名が、淡く明滅している。
だが今日は、棚の奥に、異質な光があった。
「見ろ」
上司が指し示したのは、一冊の透明な記録。
文字は薄く、今にも消えそうだった。
「これは……人間の、記録?」
「正確には“魂の履歴”だ」
上司の声が、低く響く。
「お前が関わっている少女。ミオのものだ」
胸が、強く脈打つ。
「……彼女は、どうなっているんですか」
「本来なら、この記録は存在しない」
その言葉が、胸を打つ。
「彼女は、すでに一度、死んでいる」
時間が、止まった。
「……え?」
「生後まもなく、致死的な病を発症。医療の届かぬ時代なら、確実に命を落としていた」
上司は淡々と続ける。
「だが奇跡的な延命措置により、肉体は生き延びた」
「それの、何が……」
「魂が、戻らなかった」
理解が、追いつかない。
「本来、肉体が一度“死”を迎えた時点で、魂は回収される」
上司は記録に触れる。
「だが彼女の場合、肉体だけが生き残り、魂は半分だけ現世に留まった」
半分。
「だから、死の時刻が表示されない」
「……では、彼女は」
「不完全な存在だ」
言葉が、鋭く突き刺さる。
「この世界に仮置きされた魂。帳簿に登録されていない、例外中の例外」
僕は拳を握りしめた。
「そんな……彼女は、普通に笑って……」
「笑うことと、存在が正しいかは別だ」
冷たい断言。
「彼女の未来は、常に“消去候補”として扱われている」
その一言で、すべてが繋がった。
死の時刻がない理由。
影が近づいた理由。
世界が軋んだ理由。
「では……彼女は、いつ」
「近い」
上司は短く答えた。
「世界は歪みを嫌う。お前の干渉により、その歪みは強調された」
喉が、ひりつく。
「彼女は、調整対象になる」
「調整……?」
「存在の修正だ」
つまり。
“なかったことにされる”。
人間界に戻ると、夕暮れだった。
病院の前で、ミオはベンチに座っていた。
点滴の痕が残る腕を、長袖で隠している。
「ユウトくん」
いつものように手を振る。
その姿が、胸を締めつけた。
彼女は、何も知らない。
自分が“仮の存在”だということを。
「……体調は」
「うん。少し疲れやすいけど」
彼女は笑う。
「でもね、あの日から、なんだか景色がきれいに見えるんだ」
それは、終わりが近づく前兆だった。
「空の色とか、人の声とか」
世界が、別れの準備を始めている。
「……ミオ」
名前を呼ぶと、彼女は首を傾げた。
「なに?」
言えなかった。
真実を告げることは、許されていない。
それに、言葉にした瞬間、彼女の存在が揺らぐ気がした。
帰り道。
歩幅を合わせながら、僕は彼女を見ていた。
頭上には、今日も何もない。
だが以前より、輪郭が薄い。
風に溶けそうなほど。
「ねえ、ユウトくん」
「はい」
「最近ね、変な夢を見るの」
胸が、ざわつく。
「夢の中で、私……透明なの」
「……透明?」
「誰に話しかけても、声が届かなくて」
彼女は困ったように笑った。
「ちょっと、怖いんだ」
それは、魂が世界から弾かれ始めている証。
僕は奥歯を噛みしめた。
「……大丈夫です」
根拠のない言葉。
「僕が、そばにいます」
その一言が、彼女の未来をさらに歪めると分かっていながら。
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに言った。
その笑顔が、胸を裂く。
夜。
死神界で、上司が最後の通告を下した。
「調整は、近く行われる」
「……回避する方法は」
「ない」
即答だった。
「世界の均衡を保つため、例外は消される」
沈黙。
「お前が関わらなければ、もっと穏やかに消えていた」
その言葉が、刃となる。
「だが今は違う。彼女は“未練”を持った」
未練。
それは、魂を縛る鎖。
「お前だ」
上司は真っ直ぐに言った。
「彼女の未練は、お前だ」
言葉を失う。
「だからこそ、次に干渉すれば」
上司は、ゆっくりと告げた。
「お前も、同時に消える」
それは脅しではなく、事実だった。
その夜、人間界で雨が降った。
細く、冷たい雨。
ミオは窓辺に立ち、外を眺めていた。
「雨、好きなんだ」
「……どうして」
「世界が、少し静かになるから」
その言葉が、胸に沁みる。
静けさは、別れの前兆でもある。
「ユウトくん」
「はい」
「もしね、私がいなくなっても」
言葉が、喉で詰まる。
「あなたは、ちゃんと生きてね」
それは、まるで遺言だった。
「……そんなこと、言わないでください」
声が震えた。
ミオは微笑む。
「大丈夫。私は、きっと後悔しない」
その言葉が、何よりも残酷だった。
彼女は、自分の終わりを受け入れつつある。
知らないまま。
窓の外で、雨が強くなる。
世界が、彼女を消す準備を進めている。
僕は、その背中を見ながら思った。
命を延ばすことは、できない。
だが。
彼女が“生きた意味”まで、消させるわけにはいかない。
その想いが、次の選択へと繋がっていく。
それが、破滅への道だとしても。




