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第5話『初めての違反』

 その日は、朝から胸騒ぎがしていた。


 理由は分からない。

 ただ、空気の密度がいつもと違う。


 人間界の朝は、やけに騒がしかった。

 通学路を行き交う人々の頭上には、無数の数字が揺れている。


 けれどその中に、ひとつだけ異質な“揺らぎ”があった。


「……っ」


 視界の端が、わずかに歪む。


 数字ではない。

 死の時刻でもない。


 それは、黒い影のようなものだった。


 僕は足を止める。


 嫌な予感が、背骨を這い上がる。



 昼過ぎ、ミオから珍しくメッセージが届いた。


『今日、少し外に出られそうなの』

『夕方、いつもの公園で会えない?』


 画面を見つめたまま、指が動かなかった。


 影の感覚が、まだ消えていない。


 だが断る理由を、僕は見つけられなかった。


『分かりました。無理はしないでください』


 送信した直後、胸がきしむ。



 夕方の公園は、いつもより人が少なかった。


 雲が低く垂れ込め、風が冷たい。


 ミオはすでにベンチに座っていた。


「ユウトくん」


 手を振る笑顔に、胸が少し緩む。


 だが次の瞬間、僕の背筋が凍った。


 彼女の背後。

 道路の向こう側。


 横断歩道の信号が、赤から青へ変わろうとしている。


 その上空に、黒い影が渦を巻いていた。


「……危ない」


 呟いた声は、ほとんど音にならなかった。


 影は、事故や急変の“前兆”。


 死の時刻が存在しない彼女に、それが近づいている。


 ありえないはずの現象。


「ミオ、今日は……」


「どうしたの?」


 言葉を選んでいる暇はなかった。


 トラックのエンジン音が、遠くで響く。


 ブレーキの軋む音。


 時間が、引き伸ばされたように感じた。


 信号が青に変わる。


 ミオが、立ち上がる。


 その瞬間、影が彼女の足元へ伸びた。


「っ!」


 考えるより早く、身体が動いた。


 僕は彼女の手首を掴み、強く引いた。


「え……?」


 次の瞬間。


 目の前を、トラックがかすめて通り過ぎた。


 風圧が、髪を乱す。


 もし一歩でも遅れていれば、確実に巻き込まれていた。


 公園に、悲鳴が上がる。


 人々が駆け寄る。


 ミオは僕の腕の中で、呆然としていた。


「……ユウト、くん?」


 震える声。


 僕は答えられなかった。


 胸の奥で、何かが“割れる音”がしたからだ。



 世界が、軋んだ。


 空が一瞬、ひび割れたように見えた。


 次の瞬間、耳鳴り。


 視界に、赤い警告のような光が走る。


 手首に刻まれていた死神の紋章が、熱を帯びていた。


「……しまった」


 これは、明確な干渉。


 運命の流れを、意図的に変えた行為。


 命を延ばしてはならない。


 掟を、破った。



 その夜、僕は強制的に死神界へ引き戻された。


 足が床につく前から、重圧がのしかかる。


 回廊の中央に、上司が立っていた。


「……やったな」


 声に、怒りはなかった。


 それが、かえって恐ろしい。


「事故を回避したな。意図的に」


「……はい」


「対象は、死の時刻を持たぬ魂」


 上司は一歩、近づく。


「それでも結果として、お前は“死ぬはずだった可能性”を排除した」


 胸が締めつけられる。


「言い訳は、あるか」


「……ありません」


 沈黙。


 回廊の壁に刻まれた紋章が、微かに光る。


「本来なら、この時点で抹消対象だ」


 心臓が、大きく脈打つ。


「だが」


 上司は続けた。


「まだ“完全な延命”ではない」


「……?」


「死の時刻が確定していない存在を、危険から遠ざけただけだ」


 それでも違反は違反だ。


「次はない」


 低く、断定される。


「次に同様の干渉を行えば、お前は消える」


 その言葉が、胸に深く沈んだ。


「覚えておけ。お前は死神だ。救う側ではない」


 上司は背を向ける。


「救われるべきは、世界の均衡だ」



 人間界に戻ると、夜だった。


 ミオは無事だった。


 病院で検査を受け、軽いショック症状だけで済んだという。


 その報告を遠くから見届けながら、僕は影に身を潜めていた。


 近づく資格が、ない気がした。


 けれど彼女は、僕を見つけた。


「ユウトくん!」


 駆け寄ろうとして、看護師に止められる。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


「さっき……すごく、怖かった。でも」


 彼女は胸に手を当てる。


「あなたがいてくれて、助かった」


 その言葉が、刃のように胸を刺す。


 助けてはいけなかった。


 それでも、後悔はなかった。


「……ごめんなさい」


 思わず、そう言っていた。


「え?」


「……何でもありません」


 視線を逸らす。


 これ以上、踏み込めない。



 病院を出た夜道。


 空は不気味なほど静かだった。


 僕は立ち止まり、自分の手を見る。


 さっきまで、彼女を引いた手。


 あの瞬間、確かに思った。


 彼女を失うくらいなら、掟などどうでもいいと。


 その考えが、何よりも恐ろしかった。


 死神は、そう思ってはいけない。


 だがもう、戻れない。


 世界は一度、軋んだ。


 そしてそれは、確実に“次”を呼ぶ。


 夜風の中で、上司の言葉が蘇る。


 次はない。


 それは警告であり、同時に宣告だった。


 僕は知ってしまったのだ。


 命を延ばせない理由を、理屈ではなく、感情として。


 そして同時に悟る。


 いつか必ず来るその瞬間、僕は再び、同じ選択をしてしまうだろう、と。


 静かな夜の底で、世界の均衡は、わずかに歪んだまま揺れていた。

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