絶対無罪
「明朗くんは、罪を犯していないでしょう?」
神はそう言って、にこりと明朗に笑いかけた。
明朗は思わず視線を下げた。その曇りない瞳を直視できなかった。
「もう一度よく思い出してみようよ」
神がソファから身を乗り出して、ガラステーブル越しに明朗に迫ると、再び視線ががっつり合った。なんとも言えぬフローラルな香りが鼻をつき、明朗のこめかみを汗が流れた。
神はやはり怖いほどの笑みを浮かべていた。
柔かなシャンデリアの光を反射する禿げ上がった頭に、白い髭、頑健な体に何万年という単位で刻まれたシワが不気味だった。
「君はなにもしていない」
「……いや」
明朗は今一度目をそらそうとした。しかし、もう逃げ場はなかった。神の両脇に控えるSPたちが明朗を囲うように一歩前へと踏み出している。執務デスクの脇で丸まっていたネコ――白くて毛の長い、メインクーンという種類のやつだろう――までもが、明朗に鋭い眼差しを向けていた。
「何度言われても一緒ッス」
明朗は答えた。
「俺はマスコミに情報を売ったッス。ですから、いますぐ俺を地獄に移すッス」
「…………」
神が一瞬だけ真顔になって、わずかに部屋の温度が高くなったように明朗は感じた。事実、ビルトインのエアコンが自動で起動し始めていた。
「……はぁー。相変わらずか」
神がため息まじりにソファに体を戻すと、ソファがきしんだ。本物よりはるかに上等な合皮でできたその黒いソファが立てる柔らかな音が、向かい合う明朗には耳障りにしか聞こえなかった。
神はテーブルに置かれたグラスに手を伸ばし、再び明朗に笑いかける。
「君も強情だねぇ……」
「…………」
「ま、別にいいけどね……」
神はグラスを一気に飲み干した。入っているのは透き通るような琥珀色。オーガニックレモンをふんだんに使った贅沢なレモネードであった。
一方、明朗のグラスはまったくの手付かずだった。
レモネードだけではなかった。宝石のようなカクテルサラダ、ポルチーニ茸をこれでもかと使ったパスタ、A5ランクのソイミートステーキ。贅の極みを尽くしたヴィーガン食のフルコースに、彼は手を伸ばさずにいた。
明朗はレモネードを飲み干す神の喉元を睨みつつ、これが俺の正義だ、などと内心うそぶいてみる。しかしすぐに、それは違うと思い直す。
明朗は地獄にいるはずの恋人に会いたくてたまらなかった。
――罪を認めるのは、俺も地獄送りになりたいからだろう?
「明朗くん、神様が赦してくれようというんだよ。なんでそんな強がってんのよ?」
ソファの脇で立ちっぱなしの署長が泣きそうな声で言った。
明朗が顔を向けると、同じく棒立ちでスマホをいじっていたメタ村も署長と同意見だという感じでわずかに眼球を動かした。
明朗は答えない。
「……いや、だからね」
見かねた署長が続ける。
「ピラティスくんが死んじゃった以上、警察としても面子があるわけで……」
――そう、俺のせいで先輩は死んだ。
俺は快慶を救おうとして、逆にひどい怪我を負わせてしまった。それだけでなく先輩すら死なせてしまった。
「あのねぇ、明朗くん。何度も言うけど――」
「いや、もういいよ吉田ちゃん」
署長をおさえ神が言った。さっきよりも声のトーンが硬くなっていた。
「あのねぇ明朗くん、もう一度確認するよ。映像をマスコミに売ったのは君じゃない。ピラティスでしょう?」
明朗は硬く唇を引き結び、なにも答えない。
――先輩はバカだ。
あの人は間違っていた。こんなやつらに従って命を落とすなんて、何が正義だ。正義を貫いた人間にすら、泥を塗るようなやつらに……
「はぁ……」
神は大きなため息を吐いて、あとはもうなにも言わなかった。署長やメタ村も口を開きようがなかった。
エアコンのホワイトノイズが部屋を埋め尽くし、張り詰めた沈黙が部屋を覆う。
デスクの上で白く大きな猫が起き上がり、背筋を丸めてあくびする。まるで要塞のようなデスクには、天井近くまで積まれた書類。部屋の角では、巨大な花瓶にたくさんのクチナシの花。アンティークマホガニーの本棚に、織り目が細かく毛のふんだんに使われた濃紺の絨毯、洒落た形状のシャンデリア、間違いなく本物なラファエロの絵、そのすべてが明朗を圧迫する。だけど、
――だけど、ピラティス先輩が殺されるだなんてありえるのか?
明朗にはわからなかった。
もっと食えと無理くり飯を奢ってきたり、やたらを色目使ってきたり、根性論と精神論ばかりで正直ウザかったけど、先輩は強かった。髪型はダサくとも、敵なしだった。その先輩がたかが死人相手に殺されるなんて、普通では考えづらい。第一、この事件には不審な点が多すぎる。警察の面子ってなんだ? 警察は、神は、いったい何を恐れている?
「署長、ピラティス先輩の遺体を見せていただけないッスか?」
レモネードの氷がカランと音を立てたのと同時に、明朗は立ち上がった。唇が震え歯の根が合わなかったが、腹に力を込めて言葉を絞り出した。
「俺には先輩が死ぬだなんて思えないッス!」
「なにをっ!?」
署長が両眉を上げると、禿げあがった額に侘しいシワが寄る。
「い、いきなりなに言ってんだ!?」
「見せられない理由でもあるんですか?」
「いや、そそそそ、それは死体の損壊が激しす――」
「違うッスよね! ナナトもセルフィーも熊廣も、タブラ・ラサに行ったんじゃないッスか? そしてピラティス先輩はそれを追って――」
「明朗!」
署長が落ち武者ヘアーを歌舞伎のように振り乱し叫ぶ。
「違う。違うんだ明朗!」
「なにが違うんスか?」
「違う! 違うんだ本当に……」
署長は汗に濡れた髪をなでつけ口をもごもごさせながら、スマホをいじり続けるメタ村に視線を投げる。だが、メタ村も気まずそうに口元を歪めただけで、見るでもなくスマホを睨み続けている。
「反論がないってことは……」
明朗はここぞと畳み掛ける。
「真実なんスね。先輩にすべての罪をかぶせるつもりなんスね」
そのときだった。
「だったらなんだと言うんだ?」
雷槌のような声とともに、部屋全体が大きく揺れた。
「貴様ごときが“真実”を語るなど十億早い」
神が突然立ち上がり、勢いよく明朗の襟元に掴みがかる。
テーブルがひっくり返り、皿やグラスが割れた。デスクでゴロゴロ言っていたネコも驚き書類の山にぶつかって、無数の紙がデスクから崩れ落ちた。
「警官ごときが調子に乗るなよ」
神がそう言うと、それなりに体重があるはずの明朗の体が難なく持ち上がる。ワイシャツの襟に首が絞まり、
――たぶん俺は消されるだろう。
明朗はそう直感する。
部屋の電気がチカチカと明滅し、シャンデリアが振り子のように揺れる。
「あの神様、ま、まもなく明朗の証人喚問が……」
SPも動揺し、声を震わせるが、
「まだ心神耗弱状態だと言っとけ!」
神は明朗を掴む手を緩めない。
脳に届く血液が急速に欠乏し、目の前が暗くなってくる。明朗は皮肉のひとつでも返してやろうと考えるも、喉がこわばり息をつけず、うまく舌が回らない。
――ここまでか。
「しかし神様、あまり悠長なことを言ってはいられないかもしれません」
だがここにきて、スマホ片手のメタ村が口を挟んだ。
「なんだ?」
「これを見てください」
メタ村は明朗を掴む神の前に、スマホの液晶を近づける。
「……なんだこれは?」
「地獄中央病院の一画がヘリで運ばれていく映像です。ツブヤイターにアップされておりました」
「どういうことだ?」
「この病院には快慶と山田チンチロが入院中との噂で」
「なん……だと!?」
その瞬間、神は明朗を手放した。
いきなり開放された明朗は絨毯に転がり落ち、むせた。
「しかもこのヘリ、空中で突然消えたそうです」
「おいおい、まさか!?」
「そ、そのまさかかと……」
酸素が足りずまだぼんやりした明朗の脳内を、“快慶”その名がぐるぐると駆け巡る。明朗はビロードのような感触の絨毯を両手で握り息を大きく吸いこむと、勢いよく顔を上げた。
ちょうど着信を受けたSPの一人がスマホ片手に慌てた様子で答えた。
「た、タブラ・ラサに派遣した捜査官も謎のヘリの出現を確認したとのことです!」
「はぁっ!?」
スマホ片手の神の顔が明らかに曇っている。
「なぜタブラ・ラサに!? 閻魔め、一体なにを企んでいる!」
「わ、わかりません。が、閻魔自身もタブラ・ラサに潜入したとの情報も!?」
「なんだとぉっ!?」
神が咆哮すると、シャンデリアが激しく揺れて、一瞬にして部屋は闇に包まれた。
「あの年増、三億年前にケツ触ったことまだ根に持っとるのか!」
「きゃあっ!」
署長が若干可愛げのある悲鳴を上げ、ネコがいなないた。皆が身を伏せる気配がしたと思ったのもつかの間、
ぼわっとほのかな明かりが溢れ出た。
神の全身が紫のオーラをまとって発光していた。
その姿はまさしく神々しい、といったところだったが、あまりの異様な迫力に明朗はむしろ寒気を覚えた。
そして、
「明朗くん」
神は片膝ついて、おもむろに彼に手を伸ばすと、不自然なほど穏やかな声で言った。
「もう一度だけ確認しよう……」
紫の光がぐっと近づく。明朗の両肩に、神の大きな、大きすぎる両手がそっと置かれる。
「つぅっっ!」
その異様な熱さに明朗は顔をしかめた。
「君は……」
もみっもみっ、と肩が揉まれると同時に、部屋がパッと明るくなる。シャンデリアが回復し、それを逆光にした神の顔には、やはりあの穏やかな笑みが浮かんでいた。
「君は罪など犯していない。この神が保証する」




