特技はエアダスターとありますが?
灰色の天井に、北海道みたいな形のシミがある。
立ち上がって手を伸ばしても、俺の身長じゃあのシミに届かないだろう。そう思って、ナナトは寝転んだまま大きな溜息をついた。監禁されていては、天井が高くてもなんの開放感もなかった。
いわゆる留置所と呼ばれるこの空間に窓はなかった。十メートル四方ほどの灰色の部屋は、左右も上下も壁、壁、壁。正面こそ一面の鉄格子であるが、細い廊下の向こう側にも同じくコンクリの壁があるだけだ。廊下の奥は行き止まりで、手前側には鋼鉄製の頑丈そうな扉。そのすべてが薄汚れていて、比喩ではなく息苦しかった。
――念願の異世界初日をこんなところで過ごすはめになるなんて。
ここにきてどっと疲れを自覚して、ナナトはゆっくりと目を閉じる。
オークのおっさんの店で捕まってから何時間たっただろう。飲まず食わずで取り調べをされて、これからどうなるのかもわからない。最悪の状況であった。
敗因はなんだ? と考えると、エアロバーストやエレクトリックボルトに回数制限があるというのがまずかった。
魔力は無限じゃないほうがゲームバランスが良いという無駄なこだわりが、世界構築時に反映されてしまったのだろう。魔法を撃ち尽くしてしまえば、ただの人。あっけなく捕まって、ここにブチ込まれ、勇者を騙る頭のおかしな異常者だと罵倒され、ただただ疲れて、眠くて……
「ねぇナナト」
ふいに澄んだ声がして、まどろみはじめていたナナトは我に返った。目を開くと、鉄格子を両手に掴んだセルフィーがこちらを振り向かず言葉を続けた。
「私と場所変わって」
「なんで?」と、ナナトは答えた。
意味がわからなかった。鉄格子の向こうで、いかついシベリアンハスキー頭の警官がナナトたち二人に鋭い目つきを向けている。その腰元には当然のように拳銃。あえてそっちに近づく意味がわからない。
「早くしてよ」
「だからなんで?」
そう言いつつも、ナナトは手をついて立ち上がる。
「ナナトはしばらく黙って前向いてて」
こころなしかセルフィーの声は震えていた。ナナトが近づくと、彼女は猛ダッシュで後方へと駆け出した。
「絶対に振り返らないで」
そう言われても、ナナトの視線は彼女を追っている。
修羅場の連続に彼女の服はもうすっかりボロボロだった。ところどころ生肌が露出した審判局の制服はギリシャ風というよりミイラ風といった表現がふさわしい。細い腕には汗が乾いて粉が吹き、自慢のピンク髪は竜巻の直撃でも食らったみたいになっている。
しかし、そうは言っても女神だった。
留置所の無機質な照明の下でも、垢にまみれていたとしてもセルフィーは柔肌はやはり艷やかだった。美しい鼻筋のライン、その雪のような頬はほんのりと赤く色づいているようで――
「だから見ないでって!」
「は、なんで?」
「なんで……ってわかるでしょ?」
「いや、わかんねーし」
「あーもう、クソナナト死ね! アレよ。アレ……」
そう言って、セルフィーはうつ向きがちに、自分の後ろに目をやった。
「あー」
彼女の視線をたどり、ナナトもやっと理解した。
「……アレね」
アレ――この殺風景な空間には、“便器”以外に目立ったオブジェクトはなかった。
「わ、わかった。だ、だだだだ大丈夫だから」
急に決まりの悪さを覚えたナナトはそそくさと廊下側を向くと、両手で鉄格子をつかんだ。太い鉄格子はサビだらけで、そのざらついた感触になんともいえぬ気持ちになった。
「わかった。絶対後ろは見ねぇよ」
返事のかわりに、背後からカサコソという衣擦れの音がする。
鉄格子の向こうでシベリアンハスキーがいやらしく目を細めるのを見て、ナナトは舌打ち混じりに目を伏せた。床にもまた不気味な模様のシミがあった。
「ナ、ナナトぉ……」
「へっ? な、なに!?」
突然、セルフィーが上ずった声を出して、ナナトはドキリとする。
「わ、私が咳払いしたら、エアロバースト撃って」
「え?」
「む、向きはどこでもいいから、絶対撃って!」
「なんで?」
「バカ! それくらい察してよ」
「いや察しろとか言われても……」
アホで社会経験のないナナトにはセルフィーの意図がわからなかった。エアロバーストで鉄格子を破壊しろとでもいうのだろうか? だけど、エアロバーストはもう撃ち尽くしている。だからこそ俺らはこうして捕まってるわけで……
「あーもう! あーだめ! 早く撃って、今っ今すぐっ!! 早くっ! んぁぁー、ナナトのバカ! アホッ!」
「そんなこと言われても……」
「うるさいぞお前ら。さっさと黙って――」
イラついたハスキーが怒鳴ったところで、右側から、ゴウン、とものものしい音がする。
「おいおい、なんだなんだ?」
見ると、廊下手前の鋼鉄の扉が開いて、別の警官が入ってくる。
エルフの警官だった。
高身長に尖った耳。ハスキーよりゴツくはないが、その分敏捷そうで、この世界の掟に基づき当然のごとくイケメンであった。
エルフはナナトたちに鋭い視線を投げつつハスキーの隣に歩み寄ると、軽蔑を隠さず言った。
「へぇ、こいつらが例の勇者ねぇ……」
部屋中震わせるような低音ボイスだった。
「ただの盗人のくせに笑わせるよな」
ハスキーが鼻で笑って応じると、
「なーなー、勇者っての具体的になにしてくれんの?」
エルフは長駆を折り曲げ、わざとらしくナナトに視線を合わせ尋ねてくる。
「はひ?」
鉄格子越しではあるものの、ギラギラと輝くその緑の瞳に、ナナトは震える声で答えた。
「せ、世界を救うんだよ」
「世界を救う?」
警官二人はおどけた様子で顔を見合わせる。
「世界って、ここ?」
「そ、そうだよ」
「へぇ、他には?」
「ま、魔王とか倒したり」
「はぁ? 魔王って誰? お前らが凶悪犯とか捕まえてくれんの? うっわー、それじゃ俺らの仕事なくなっちゃうじゃん」
「ヤベーよな。警察いらねーし」
「い、いや、そういうんじゃなくて……」
胃のあたりがぎゅっと締め付けられる感じがして、ナナトの呼吸は浅くなった。
取り調べのときにも思ったが、自分たちの出自を証明するものがなにもなかった。王家の紋章とか印籠的なアイテムを作らなかったことを後悔しても、もう遅い。徐々にめまいもしてきて、鉄格子を掴んでないと倒れてしまいそうになってくる。
「あーすまんすまん。そういうんじゃなかったな……」
すっかりうなだれてしまったナナトに対し、ハスキーが声のトーンを落とし続ける。
「たしか、お前はこの世界を作った神で、女も肉もインターネットも、お前なしじゃ存在すらしていなかったんだよな。あとあの必殺技、あれなんだっけ? エアだかキュアだったか、なんかダサいやつ?」
ここぞと激詰めしてくるハスキーの隣から、エルフが軽い調子で割り込んでくる。
「あーそれならさっき聞いたぜ。エアバスターとライボルトだろ?」
「いや……」
ナナトが否定する前に、
「あーそれだそれ。やっぱクソだせぇな、おい」
二人は腹を抱えて笑いだす。
「うぷぷ、おい勇者、そのエアダスターとやら出してみろよ」
「ちょおま、ダスターって、それじゃパソコンお掃除するスプレーじゃん! っぷ、ははっ、ま、まぁ、別にスプレーでもいいや。とにかくバスターでもダスターでもなんでもいいから魔法出してみろや。なぁ勇者様よぉ!」
「い、いや……」
ナナトはほとんど泣きだしそうになっていた。格子を握る両手には汗がにじみ、ただでさえ白い指がさらに白くなっていた。俺がこの世界を作ったのに。お前らだって、今日生まれたばかりのNPCなのに……
「いやあの、今はMPが足りなくて……」
「MP? なんだそりゃ?」
「ま、マジックポイントと言いまして……」
「お前刑務所じゃなくて、病院行ったほうがいいんじゃないの?」
「入院したら一生出てこれないレベルだろうなぁ……」
「いやだから――」
「うるせぇ!」
いきなりハスキーが鉄格子を蹴りつけ、ナナトの言い訳は中断される。不意をつかれたナナトは小さな悲鳴をあげて、よろめき硬い床に尻餅ついた。
「つまんねぇ冗談言ってんじゃねーぞクソが! お前らみたいな薄汚れた泥棒、懲役五千年は硬ぇからな。これ以上寝言吐くならもう二千年追加だ! わかってるよな?」
「うっ……」
「つかさ、そっちのねーちゃんはどうなんよ? さっきからずっと黙ってっけど?」
ここにきて、エルフがセルフィーに話を振った。すっかりセルフィーのことを忘れていた、と肩越しに振り向いてから、ナナトは忠告を破ったことに気がついた。
「あ……」
なんとか大丈夫だった。セルフィーはまだちゃんとパンツを穿いていた。
とはいえ、こんな状況で排尿などできるわけもない。便器のそばで壁に手をつきうずくまった彼女はなにも答えず、ただゆっくりと顔を上げた。涙のたっぷりたまった恨めしそうな瞳と真正面から目があった。
それは、ほんの一言すら、わずかな動きすら許されざる、尿意の極限という具合であった。
蒼白の顔には玉の汗がびっしりと浮かび、唇は一文字。加え、汗は細身の服にデカい胸に張り付かせ、ライムグリーンのブラがありありと透けていた。
エロかった。
こんな感じでずっと黙っててくれれば最高なのに。一生おしっこ我慢しててくれればいいのに、とナナトはごくりとつばを飲みこんだ。
「おいおい、この子かわいいじゃん」
もちろんエルフたちもそう思ったようで、
「犯るか? 犯っちゃうか?」
「そうだな。ちょっとくらいなら別にいいだろ」
「は?」
警官たちのねっとりとした笑顔に、ナナトは慌てた。
「ちょ、ちょっとよくないよくないやめてって!」
が、やめてと言われてやめるわけがない。
「クソ勇者は黙ってろ!」
ハスキーは颯爽と上着を脱ぎ捨てると、それを天井の監視カメラ向かって放り投げ、ガチャガチャと鉄格子の鍵を回し始める。
「うぉー待ちきれねぇわ俺」
「俺もだわ。こういうシチュむっちゃ興奮するし」
「いだだからマジでだめだって。だって俺、俺まだ、この世界R-18設定にしてないし!」
「だからごちゃごちゃうるせーんだよ!」
「ひっ」
力強くハスキーが吠えて、立ち上がりかけたナナトはふたたび腰を抜かす。
「男は黙ってろ!」
エルフも怒鳴り、
ガギャン。
錆びた音がして扉が開くと同時に、一瞬の沈黙があった。
「……でもさ」
留置所の中へ一歩踏み出したところで、エルフの尖った耳がピクリと動いた。
彼は床の上のナナトに意味深な視線を投げて、舌なめずりしながら続けた。
「よく見たら男の方も、なんつうかこう、独特な感じで、悪くなくね?」
「確かに」
ハスキーの視線もナナトを向いた。
「若干ブサイクなほうが、むしろエロく感じるのってあるよな。こりゃ異世界から来たっていうのも、まんざら嘘でもないのかも……」
「男の方も一緒に犯しちゃう?」
「だな」
「いやいやいやいや」
ナナトは尻をついたまま後ずさる。
「その理屈おかしいでしょ!」
反論やむなく、にやつく警官たちがズカズカと近づいてくる。ちょい待て、なんだこの展開? この世界、男同士の行為がカジュアルすぎんだろ。もしかして、男作ったピラティスって腐女子なんじゃ!?
「エ、エアロバースト!」
身をかがめるハスキー向かって、ナナトは叫んだ。
が、
ダメ元の風魔法が出るわけもなく、毛むくじゃらの手がナナトに伸びる。
「きゃ!」
背後からはセルフィーの声。
「エアロバースト!」
もちろん反応はなく、ナナトの腕はあっけなくねじ上げられ床から引き上げられる。セルフィーが再び悲鳴をあげる。明らかに布が引き裂かれる音もする。
まずい。まずいぞ。
なにかMPを回復する手段はないのか? アイテム? 一晩寝るとか? いやそんな余裕ねーし。つか、この世界を設計したのは俺だぞ。こんなのおかしいって!
ハッハッ、と息を荒げながら、シベリアンハスキーが耳元で囁いた。
「無駄だって」
「ひいっ」
熱く湿ったその吐息に顔をそむけると、そのまま体がねじれ、セルフィーと向かい合う。
「あ」
ナナトは言葉を失った。
彼女はまるっと下着姿に剥かれていた。
パンツのグリーンが眩しいほどに肌は青白く透き通り、表情は氷漬けの死体のようにこわばっていて、エルフの細い指がブラの上を這っていた。
「エアロバースト!」
だがやはり、なにも起こらなかった。起こっちゃくれなかった。
ナナトのシャツの裾から毛深い犬の手が中へと入り込み、汗ばんだ胸元を荒々しくまさぐられる。セルフィーのブラのホックが外れ、エルフがその大きな胸に顔を近づける。
「エアロバースト!」
ナナトのジャージをゴムが強引に引き伸ばされる。セルフィーの悲鳴が今一度、部屋中に反響する。
「エアロバースト、エアロバースト、エアロバースト!」
そのとき突然、全身を爽やかな風が駆け抜けた。
「ぬおっ!」
激しい衝撃が背中を走った。
エルフとセルフィーがものすごい勢いで奥へと吹き飛んで、反動でナナトもハスキーと一緒に鉄格子へ叩きつけられた。
――魔法が出た!?
全身に強烈な圧がかかって、思わず呼吸が止まるが、あきらかに相手の骨を折ってやったという感触もあった。実際ハスキーがうめき声を発し、全身を締め上げる力が抜けていく。
「なんで……」
息を切らすハスキーに、ナナトもまた驚いていた。
よろめきながら振り返ると、ハスキーは目を見開き苦悶の表情である。シャツの心臓付近ではどす黒い血が滲み、白とグレーの体毛を逆立て息を荒げ怯えている。なんだかしらないが、再び魔法を出せたのは間違いない。だけど……
「と、とにかく殺す。お前だけは絶対殺す」
さすがにヤバいと思ったのか、ハスキーの顔に力が入る。刹那、ガシャン、と鉄格子を蹴り飛ばし、巨体がナナト向かって飛び出してくる。
MPが回復した理屈はわからないが、やるしかなかった。大きく口を広げ、牙を剥いたハスキーの喉めがけ、ナナトは今後は上向きにエアロバーストを唱えた。
「エアロバースト!」
二発目のエアロバーストも、問題なく撃つことができた。
ハスキーは頭から天井に叩きつられた後に落下すると、そのまま気を失った。
「やっぱり出た!」
反動で床にへばりこんだナナトは叫んだ。
「出せたよ、セルフィー!」
彼は部屋の奥で胸を抱きうずくまっているセルフィーに駆け寄った。コンクリートに直撃したエルフは白目を剥いて伸びていたが、エルフをクッションにしたセルフィーの意識は問題なさそうだった。ただその右目には大きな青あざができていて、鼻は腫れ、どくどくと鼻血が吹き出していた。
「死ね!」
セルフィーは開口一番、かがみ込んだナナトに思いきり平手打ちをかまし喚き立てた。
「出せたじゃねーよ! ちょっと出ちゃったじゃん!」
「え?」
「見んな!」
「うぎゃ!」
下を見ようとして、追い打ちの拳を鼻頭に撃ち込まれる。
「いたっ、マジに痛い。ちょっと、なんなのセルフィーさん!」
悶絶するナナトにセルフィーが吐き捨てる。
「キュアスフィアだ。さっさとキュアスフィア唱えろダボが!」
「わかった、わかったからっ」
涙目のナナトがキュアスフィアを唱えると、鼻の痛みがほぐれていく。セルフィーの顔のアザもなくなって、ほっとしたのも束の間――
「……よくもやってくれたな」
何事もなかったかのように、エルフが立ち上がった。
「絶対犯して殺す」
その後ろからはハスキーの声も聞こえてくる。
あ、やべ、キュアスフィアは敵味方関係なく範囲で回復するんだった。
「エレクトリックボルト!」
パニクるナナトに警官たちが襲いかからんとした瞬間、閃光が瞬いた。
直後、彼らの全身が発光しながら跳ね上がり、激しく壁に叩きつけられた。
閉鎖空間に急速に焦げ臭い匂いが漂ってはじめて、ナナトはなにが起こったのか理解する。
セルフィーもまた魔法を繰り出していた。
その強烈な雷魔法をもろに食らったハスキーの美しい毛並みはトイプードルみたくチリチリになって、エルフの尖った耳も無残に折れビクビクと一定のリズムで痙攣していた。
セルフィーは小さなため息とともに言った。
「あんたバカ? 敵まで回復させてどうすんの?」
「ご、ごめんっ」
「それよりも……」
彼女はブラや服を拾うこともなく、片手で胸を押さえ、もう片手で壁をつたいながら便座のない便器へとすり寄っていく。その唇がやたらと青ざめていて、全身からはほのかに湯気が上がっていた。
ナナトを威圧するように、彼女は吐き捨てた。
「だからこっち見んなって!」
「あ、ごめっ!」
「とにかくもう一回、私があっち向いてから五秒後に、もう一回エアロバーストを撃って。お願いだから!」
「あ、はい。いやまぁ、それは別にいいんですけど、でもあの、さっきからなんなんすか? なんでおしっこするときにエアロバーストが必要なんですか?」
「なんでって、あんたマジでわかんないの?」
「マジでわかんねっす」
「あーもう! エアロバーストで音姫しろって言ってんの!」




