G
「三回も撃たせんなって」
「いやまだ五回は撃てるでしょ」
セルフィーはエルフ警官の制服を剥ぎ取りながら言った。ナナトが背を向けて、やれやれといったジェスチャーで応じたのがムカついた。
今後に備えエルフの財布の中身を物色しても、紙幣は一枚もなかった。警官ならもっと金持っとけよと彼女は思ったが、どうしようもなかった。天国ではありえない行為をしているという罪悪感もちょっとあったが、それはもっとどうでもよかった。
とりあえず拳銃とともにあるだけの小銭を回収し、セルフィーは制服を羽織る。
見た目以上にオーバーサイズなそれは、上着だけでも膝まですっぽり覆い隠してくれる。
「とにかく早く逃げよう」
ナナトが言って、一緒に廊下へと歩み出たセルフィーはひんやりとした鉄扉のノブを回す。
ぶ厚い扉の向こうには、窓のない長い廊下があった。
運よく誰もいなかったものの、廊下の最奥では監視カメラがこちらを向いていて、セルフィーはためらうことなくエレクトリックボルトを放った。
ボウッ、と小さく発火して、カメラはあっけなく燃え尽き床に落ちた。
こんなことでは見つかるのも時間の問題と思われた。一分一秒でも早く脱出しなくては、とセルフィーはナナトと無言のアイコンタクトを交わし、足音を立てぬよう注意しつつ廊下の奥へと進んでいく。
廊下も留置所同様、殺伐とした空間であった。
左右には灰色の扉が不規則に並び、見栄えを最低限取り繕うように観葉植物だのベンチだのが雑然と置かれている。監視カメラこそ燃えた一台しかなかったが、外の光が入らない圧迫感が嫌だった。エルフの制服がむき出しの太ももに当たるゴワゴワした感覚もうっとおしく、妙な肌寒さにセルフィーは皮膚が粟立っていくのを感じていた。
そうやって長い廊下をふたり無言で突き進み、右に折れた角まであと数メートルというところで、彼女は突然急停止して飛びあがる。
「きゃっ!」
「ちょ、急に止まんな!」
思いきり背中にぶつかったナナトがわめくが、セルフィーはすぐそこの壁に張り付いている“奴”から目を離すことができなかった。
「なんで?」
――なんであいつがここに!?
それは見紛うことなく“奴”だった。見間違えるわけなどなかった。
黒光りする楕円形のフォルム、二本の触角に六本の脚、五センチはあろうかという、グロテスクかつギルティなGだった。
間髪入れず、
「エレクトリックボルト!」
セルフィーは声が響くのにも構わず、“奴”めがけ魔法を放った。
ビキビキッ、と空気を切り裂く雷光が一直線に飛んでいき、ほどなくGはチリ一つ残さず消滅する――
はずだった。
しかし、
――外れた!?
「嘘でしょ!」
確実にヒットしたと思った。事実、Gの居た壁は崩れコンクリート片を撒き散らし、近くの観葉植物ともども黒焦げになっていたが、やつにダメージは入らなかった。
むしろ大きく羽を広げたGは軽やかに滑空し、なぜかセルフィー向かって飛びかかってくる。
「エレクトリックボルト! エレクトリックボルト! エレクトリックボルト!」
狼狽えたセルフィーはよろめき背後のナナトともつれあいながら魔法を連発する。狭い廊下が雷魔法の光で前も見えないほど真っ白になる。
「ちょ、たかがゴキブリごときに貴重な魔法を使うなって!」
「うるさい! エレクトリックボルト! エレクトリックボルト!」
雷光が収まり、後には焦げ付いた壁だけが残る。
「え?」
奴が……いない!?
くそ、ナナトに気を取られたスキに見失った。死骸が見当たらない限り、奴は絶対にまだ生きている。
「殺す。今後こそ殺す」
セルフィーは目を皿にしてGを探す。
ゴミ箱? ベンチ? 自動販売機か?
「どこへ行った?」
燃え尽きた観葉植物の鉢植え? ドアノブの裏? それとも天井か?
そもそも奴め、いったいどこからやってきた? さすがのピラティスもわざわざ奴を創造するだなんて考えられない。ならば上空の扉から、すなわち天国からここに入り込んだのか? そんなまさか……
――ガチャ。
「へ?」
そのとき、近くの扉が開いた。
「!?」
状況を把握しきる前にセルフィーはナナトに肩をつかまれ、角の向こうへと抱え込まれている。
「なんだなんだ?」
「なんかすげぇ物音がしたよな……ってなんじゃこの壁ぇ!」
直後、さきほどセルフィーたちがいたところ、角の向こう側から男たちの声がした。声は二人。間違いなく警官だろう。
幸いにも廊下のこちら側に人影はない。
セルフィーはナナトに抱きかかえられたまま息をこらす。胸の回された汗ばむ手。生身のふくろはぎに押し付けられた男子高校生の脛、その骨の硬さに体がこわばる。シャツ越しでも彼の体温は熱く、髪に生ぬるい吐息が吹きかかる。汗臭い体臭は何度嗅いでも気持ちが悪い。
「…………」
「…………」
黙りこくるふたりに対し、
「これ、どう考えても非常事態だよな?」
「誰に言う? 部長? 署長?」
角の向こうでは男たちの会話が続いている。
その緊迫感にナナトの体もみるみる硬くなっていくのがわかる。妙な体勢のまま不用意に動くわけにもいかず、セルフィーの足が吊りそうになってきた、そのときだった。
「あ」
彼女の口から、思いがけず小さな声が漏れた。
サンダルのストラップがほつれ、ほとんど素足に等しい足元の近く、ゴミ箱の下に“奴”がいた。
頭から一気に血の気が引いた。
「ッ――」
悲鳴を上げそうになったところで、ナナトに口を塞がれる。
やばいやばいやばいやばい。
途端に鼓動が痛いほど速くなって、全身から汗が吹き出してくる。だけど、恐怖に怯えるセルフィーをあざ笑うかのごとく、カサカサッ、カサカサッ、とGはこちらに近づいてくる。アルミのゴミ箱に歪んで映し出されるその姿があまりにも黒くて、醜悪で、ダメだ。発狂しそうになって、セルフィーはめちゃくちゃに足をばたつかせる。当然、押さえ込むナナトの力が強くなる。だが拒めば拒むほど、逆にやつはこちらへ近づいてきて……
――もう無理……。
耐えきれず涙があふれた。
実際、ナナトの脂っぽい手で鼻まで覆われていることもあって、本当に息苦しくて堪らなかった。
「なぁ、あっちから音がしないか?」
「あぁ、あきらか誰かいるよな」
角の先からは、二つの足音がゆっくりこちらに近づいてくる。
絶体絶命であった。
けれども、
――あと十センチ、あと五センチで、Gが足に触れる!
セルフィーにとっては警官よりそっちのほうがはるかに嫌だった。冷や汗が止まらず、意識が遠のきそうになって、もうダメ、ホント無理と、彼女はナナトの手の裏側で口を動かした。
(エアロバースト撃ってお願い)
(無理だって、力加減できないから)
(マジでもう無理無理無理無理)
(ちょ、暴れんなって)
「ぷはっ」
さすがに限界だった。
「エレクトリックボルト!」
セルフィーはナナトの手を無理くり引き剥がし叫んでいた。
ドンッ、と景気のよい音がしてゴミ箱が爆散し、天井まで炎が噴き上がる。
ゴミ箱に入っていた紙くずが火の粉とともに舞い上がり、灰色の煙を撒き散らす。熱気がセルフィーのむき出しの皮膚を炙ったのもつかの間、ナナトがGを靴の先で蹴り飛ばし、それは炎に飲み込まれ焦げていく。
「なんだ、お前らは!」
しかし当たり前、警官たちに見つかった。
ナナトが叫ぶ。
「エアロバースト!」
オークたちが壁に叩きつけられ、反動を受けセルフィーたちは吹き飛ばされる。
「脱走者だ!」
ナナトと一緒に硬く冷たい床に倒れ込んだところで、照明が落ちる。サイレンが鳴り始め、廊下は赤い警告灯に包まれる。
「あー最悪」
「逃げるぞ!」
勢いよく立ち上がり駆け出したナナトの背中を、セルフィーは慌てて追いかける。
細い廊下をとにかく奥へ。
扉という扉からは無数の警官たちが溢れてくる。
ゴブリンの警官、ミノタウロスの警官、ラビットの警官。
それらをエレクトリックボルトとエアロバーストを駆使し切り抜ける。
廊下を突っ切り、折れ曲がった角を右に曲がると、また廊下がある。その奥は同じように右に折れ曲がっていて、
リザードマンの警官、エアロバースト。
ドライアドの警官、エレクトリックボルト。
奥をまた右に。その奥を……
不思議な造りのフロアだった。
どうやら渦巻状の構造をしているのだろう。曲がれば曲がるほど廊下は長くなっていく。硬い壁にこだまするアラームが不穏な旋律を作り出していく。
警官、警官、エアロバースト。
警官、警官、エレクトリックボルト、エアロバースト。
六回右に角を曲がると、少し広けた空間に出た。
運良く警官の姿はなく、どうやらエレベーターホールのようだった。左右に四機ずつ、計八機のエレベーターがあって、その奥は全面ガラス張りの行き止まり。サイレンにすべてが赤くなった空間のなか、眼下の彼方に広がる街の夜景だけがやけに白く、四角く切り取られていた。
ホール中央の壁に掲げられたフロアの階数表示は『200』。
――200階!?
連れてこられた際には目隠しをされていて、エレベーターで高く上がった感こそあっても、まさかこれほどとは思わず、セルフィーは驚いた。驚いたが、今は驚いてばかりもいられない。
『↓』しかないボタンを押しても、エレベーターはまるで反応せず、すぐ脇の電子セキュリティをエレクトリックボルトで破壊してやっとボタンが点灯する。僅かなタイムラグのあと、このフロアに一番近い籠が上昇し始める。
その電光表示は、
177、178、179。
サイレンが鳴り続けている。
カタツムリの廊下から、生き残りの警官たちの足音が少しずつ迫ってくる。
早く。
184、185、186。
早く来てくれ。
「くそっ」
しびれを切らしたセルフィーは同じ要領でセキュリティを突破し、エレベーター横の階段扉をこじ開けた。
すぐ下の踊り場に複数の人影が見えた。
速攻エレクトリックボルトののち、慌てて扉を閉めて背中を押し付ける。あれを200階――階段は無理だ。エレベーターで行くしかない。
191、192、193。
早く。
194,195,196。
早く早く。
「エアロバースト!」
角の壁を背にしたナナトが迫ってきた警官をエアロバーストで食い止めている。
「エアロバーストッ! エアロバーストォッ!」
ナナトはすでに相当のエアロバーストを撃っている。昨日の立ち回りを思い出すと、おそらくナナトも私も一日に撃てる魔法の上限は十回そこそこ。だとすれば、彼の魔力はそろそろ限界だろう。
――私だって、何回エレクトリックボルトを撃った?
1、2、3……Gが出たあたりからはろくにカウントできていない。
198、199,200。
エレベーターが音もなく開く。
「え?」
幅広のエレベーターには十五人近くの警官が詰まっていた。
階段が警官で埋め尽くされている以上、それはある意味当然といえた。
そして、
「エレクトリックボルト!」
――あれ?
「エレクトリックボルト!」
――マジで?
獣人・亜人たちが一気にホールになだれ込んでくる。
ホビットの警官、ハーフエルフの警官、ライオンの警官。
あるものは警棒を取り出し、あるものは拳銃を持ち出し……
「セルフィー、歯ァ食いしばれ!」
ナナトが叫んだ。
「エアロバースト!」
「はぇ?」
周囲の警官たちともども、自身の身体が浮かび上がり、セルフィーは面食らった。
「え」
強烈な上向きの力を受け、体が急速に床から遠ざかっていく。
「え、え!?」
このままでは天井に激突する、とセルフィーは背を丸め頭を押さえた。だがそうなる直前で、彼女はナナトに抱きかかえられた。
「エアロバースト!」
天井で無残にひしゃげた他の警官たちと入れ違いに、まっすぐこちらに飛んできたナナトは彼女をお姫様抱っこの要領で抱え込むと、猛スピードで奥のガラス窓へと突っ込んでいく。
背後から銃声が聞こえたが、そのスピードよりも遥かに速く、勢いよく。
あっ、という間もなく、ガラスが割れる炸裂音と痺れるような振動が起こって、セルフィーの全身は異様な冷気に包まれた。
「あいつら馬鹿か!」
「ここ二百階だぞ!」
と、叫ぶ警官たちの声がフェードアウトし、横向きのベクトルが下向きのそれへと変わっていく。
髪が大きく吹き上がり、奪った制服がバタバタと激しくはためいて、無防備な裾から凍りつくような寒さが入り込んできて、
「きゃー」
と、ここにきてセルフィーも叫ぶが、ナナトに抱きついた体はどうしようもなく落下していき止まらない。
――ヤバいじゃん!
外は中とは比較にならないほどに寒かった。このエリアはあのリゾートから大して離れていないと思われるが、氷点下は確実な寒さだった。
もちろん落下の影響も大きいだろう。吹き付ける空気抵抗は、まるでナイフのようにセルフィーの皮膚を切りつけ、みるみる体温を奪っていく。
加速。加速。加速。
巨大な壁じみた警察署の建物、その骨組み、街の夜景を反射する鏡張りの一フロア、一フロアが目にも留まらぬ速さでセルフィーの視界から消え去っていく。
上方、いまやすっかり遠くなったペントハウス付近で、漂うガラスの破片が見える。下方では、ビルがボコボコと群れていて、それらの屋上でクロスワードみたく並んだ室外機が見える。吹き上がるボイラーの蒸気が見える。そのさらに下には、血流のような車の流れ。風圧で開きっぱなしの瞳に、そんな街の断片がルーレットのように回転しながら飛び込んでくる。
「まずくない!?」
発したそばから声は風に吹き飛ばされ、かなり強く叫ばないとまともな声になってくれない。
「このままじゃ死ぬじゃん私たち!!」
地面――死の瞬間はみるみる間近に迫ってくる。
ナナトが言う。
「またエアロバースト撃てば何とかなるでしょ?」
「いやいや無理でしょバカなの」
セルフィーは激しく首を振る。
たしかにこのシチュエーションは経験済みだ。だが、あれは下が海だった。コンクリでは、なにをどうやっても厳しいでしょう?
「じゃあどうすればいいんだよ?」
「どうすれば、って……」
――なにかないか? クッションやブレーキ的なものがなにか。
「エレクトリックボルトを使って、体を磁石に変えたら?」
ビルの壁面にくっつけないか、と彼女はひらめいたが、アホだった。エレクトリックボルトはすでに使い切っていた。
そして沈黙。
不穏な風音に下方から自動車の走行音が加わり、ふたりを煽る。
「なら……いや……」
唐突になにかを言いかけ、ナナトが口ごもる。
「なら、なに?」
見ると、ナナトはセルフィーからわずかに顔を背け、いやに神妙な顔をしていた。いよいよ高度がヤバくなってきて、天国とまったく同じ形をした『Bank of Heaven』のビル屋上のネオンサインがナナトの横顔を一瞬だけオレンジ色に染めた。
「おい!」
言いたいことがあるなら早く言えや。今はコンマ一秒ですら惜しく、セルフィーがナナトの背中に回した手をきつく強めると、彼は続けた。
「いやあの、キ、キスすれば魔力を移せるんだけど……」
「は?」
髪と服がはためく音が大きすぎて、よく聞き取れず、セルフィーはナナトの口元に耳を近づけもう一度言った。
「は?」
「いや、あの……キスです」
ナナトはやはりぼそぼそと答えた。
「魔力の口移し、そういう設定を……」
「キッモ!」
セルフィーはナナトから全力で顔を引き離した。
こいつマジでキモすぎる。身悶えた。ありえない。正直抱きついている腕もほどいてやりたくなったが、今はそうもいかないのが腹立たしかった。
「いや、そういうのって王道なんです。マジで、ラノベとかでよくある設定だから」
「あぁん!? んなことできるわけねーだろクソ童貞死ね!」
タイムリミットが迫る。ついさっきまで見えなかった歩行者の様子ももはやはっきり見えている。
「あーもう」
こうなったらエアロバーストでなんとかしてもらうしかない。キスより死にかけをキュアスフィアされた方がよっぽどまだマシだ。
「おいさっさとエアロバースト撃て!」
「え?」
「早く撃てやゴミ!」
「は、え、エアロバースト!」
しかしなぜか、落下の勢いは変わらなかった。
「エアロバースト!」
ふたりはひたすらに落ち続ける一方だった。
「なんで? なんで出ないの?」
「たぶん魔力が……」
「あぁっ……」
セルフィーは絶望した。
四肢を切り裂く冷気が一段と強くなったような気がした。空気抵抗で限界に達したはずの速度にさらなるGが加わった気がして、地面が、死がことさらに接近する。セルフィーたちのほんのすぐ下には街路樹。なんの木か知らんが、葉が全部落ちて幹が槍みたく尖った大木があって、このままだと二、三秒でふたりともあれに串刺しになる。
「死ね。ホント死ね!」
セルフィーは涙の浮かんだ瞳を閉じた。いつもなら浮かんでくるはずの走馬灯も、こう何度も繰り返すとさすがにネタ切れだった。
――くそ、どうせ死ぬなら一人で死にたかった。
さっきこのアホがキスだとかぬかしていたときに、さっさと突き飛ばしておけば……
――いや、待てよ。突き飛ばす?
ハッとして、セルフィーはまぶたを開く。
『自由落下するエレベーターの中で、ジャンプしたら助かるか?』
それは誰もが考えたことのある素朴な疑問。
――今ここでナナトを蹴ってジャンプすれば……?
直感的には助かる気がする。けど、実際のところどうだろう? ちょっと考えたらたぶんわかる。卒業から三百年ほど経ってはいるが、私は一応大卒だ。
ただ今は、そんな思索を巡らせるような余裕はない。
――でも私は、この世界を、すべての物理法則を作った神じゃんか。
そして、セルフィーは自分の直感を信じることにした。
「ナナトごめん」
街路樹に激突するほんの直前、彼女はナナトの胸ぐらを強く掴んで引き寄せると、声を張り上げ言った。
「一週間、一週間後に助けに行くから」
彼女は腹筋を使って上半身を起こし、ナナトを支えに速やかに体勢を整える。ホットヨガで体幹を鍛えておいてよかったと初めて思う。そのまま間髪入れず、なにやらわめいてるナナトの腹の上に両足をくっつけると、
「えいっ!」
ナナトを蹴飛ばしたセルフィーの体は、彼を残し真上へと飛び上がっていた。




