灰の夜
その夜、村で一番最初に火を見たのは、俺だった。
叫んだ。誰も信じなかった。
だから、村は燃えた。
◇
セラ村は、ヴァルト王国の北のはし、灰谷地方の麦の村だ。家は六十軒。見渡すかぎり麦畑で、それ以外は何もない。
俺はリオ。十七歳。農家の三男だ。
三男に回ってくる畑はない。だから俺の仕事は、鳥追いだった。畑の真ん中の見張り台に立って、麦をついばみに来る鳥を、鳴子を鳴らして追い払う。
取り柄は、目だけだった。
畑の向こうの端に止まった鳥が、鳩なのか烏なのか、俺には分かる。何羽いるかも分かる。兄貴たちには、ただの黒い点にしか見えないらしい。
「目は鷹、腕は雀」
長男のハンス兄が、俺をそう呼んだ。
「足は鹿、頭は鶏」
次男のヨアン兄が、付け足した。
「口は、二人とも俺に似たな」
父さんが言って、母さんが笑った。
夕飯のたびに、だいたいこんな感じだった。
その日の夕方、見張り台の下から、声がした。
「リオ兄。パン」
隣の家のミラだった。三つ下で、物心ついたときから、俺のことを兄と呼んでいる。母親がパン焼きの名人で、ときどき余りを持ってきてくれた。
見張り台の梯子を、ミラは慣れた手つきで登ってきた。真夏なのに、長袖を着ていた。ミラはいつもそうだった。
「今日は、何羽に負けたの」
「三羽」
「三羽も」
「三羽なら勝ちだ。昨日は七羽だった」
ミラは笑って、パンを半分に割った。焼きたてではなかったが、まだ少し温かかった。
二人で麦畑を見下ろして、パンを食べた。
「ねえ、リオ兄」
「ん」
「一か月前の、灰色の人。覚えてる?」
覚えていた。
灰色の外套を着た男が、一人で村に来た。王都の魔導院から来た、巡回の役人だと名乗った。村の子どもを全員、村長の家の前に並ばせて、一人ずつ、肩と腕を見ていった。
刻印を探していたのだ。
この世界で魔法を使えるのは、生まれつき体のどこかに刻印がある者だけだ。千人に一人だという。見つかれば国に登録されて、魔導院に連れていかれる。そこで育てられて、王国軍の魔法使いになる。
村の大人たちは、その日の夜、酒を飲みながら言っていた。
うちの村から魔法使いが出たら、その家は一生、食うに困らない。国から金が出るんだからな。
父さんは笑って、うちの村には出ねえよ、と言った。
「あの人、また来るかな」
「さあ。もう来ないだろ。誰もいなかったんだから」
「……うん」
ミラは、長袖の端を、指でつまんでいた。
「出ないほうがいいよ。魔法使いなんて」
「なんで。金がもらえるぞ」
「連れていかれたら、帰ってこられないんだよ」
俺は、そのとき、何も考えなかった。
麦の向こうに、烏が一羽降りた。俺は鳴子を鳴らした。ミラが耳をふさいで、文句を言った。
◇
収穫前の夜は、若い者が交代で見張り台に立つ。麦の実る匂いにつられて、狼や魔獣が森から出てくるからだ。
その夜は、俺の番だった。
月のない夜だった。星だけが、やけに多かった。
真夜中を少し過ぎたころ、北の丘の上に、光が見えた。
一つではなかった。横に並んでいた。数えた。二十。いや、もっとある。
松明だった。
しかも、動いていた。人が歩く速さではない。馬だ。
北の丘の向こうには、何もない。あるのは、国境に続く山道だけだ。祭りをやる村はないし、隊商が夜中に山を越えてくるはずもない。
俺は見張り台を飛び降りた。
当番頭のゴードンさんは、村の入り口の小屋で、酒を飲んでいた。
「北の丘に、松明です。騎馬が二十以上。こっちに来ます」
「寝ぼけたか」
「本当です。見てください」
ゴードンさんは、小屋の戸口から北を見た。目を細めて、首をかしげた。
「何も見えねえぞ」
見えないはずがない。そう言いかけて、俺は北を振り返った。
松明が、消えていた。
一つ残らず。
さっきまで、確かにそこにあった。消えたのだ。誰かが、わざと消した。
村に近づくから、消した。
「鳥追いが、鳥目か」
ゴードンさんが笑った。
俺は走った。村長の家の前に、鐘がある。夜に鳴らしていいのは、火事と魔獣のときだけだと決まっていた。
俺は鐘の綱をつかんで、思い切り引いた。
一回。二回。
三回目を鳴らしたとき、村の入り口で、馬のいななきが聞こえた。
それから、屋根の上に、火が落ちた。
消したはずの松明だった。投げ込まれていた。一本、二本、十本。乾いた麦わらの屋根が、あっという間に燃え上がった。
悲鳴が上がった。
◇
家に走った。
父さんが、戸口に立っていた。手に鍬を持っていた。ハンス兄とヨアン兄が、その後ろで棒を握っていた。母さんが、奥から何か叫んでいた。
「リオ」
父さんは、俺の肩をつかんだ。
「お前は足が速い。麦畑を抜けて、森まで走れ」
「父さんたちは」
「後から行く」
「一緒に」
「お前の目なら、暗くても道が見える。先に行って、待ってろ」
父さんは、壁に掛けてあった鎌を外して、俺の手に押しつけた。毎年、麦を刈るときに父さんが使っていた鎌だった。
「持ってけ。行け」
背中を押された。
俺は走った。
走りながら、隣の家の前を通った。ミラの家だった。
戸が、壊れていた。
中から、馬に乗った男が一人、出てきた。鞍の前に、毛布にくるまれた何かを乗せていた。小さかった。毛布の端から、細い腕が一本、垂れていた。
長袖だった。
俺は、止まった。
鎌を握っていた。目の前に、馬がいた。距離は、十歩もなかった。
足が、動かなかった。
鳥を追って、畑を一日中走り回っても、一度も止まったことのない足だった。それが、地面に縫いつけられたみたいに、動かなかった。
声も出なかった。
馬が、俺のすぐ横を駆け抜けていった。
燃える屋根の明かりで、馬の尻が見えた。焼き印が押してあった。
翼を広げた、黒い鳥。
鴉だった。
俺の目は、それを、はっきり見た。
見ただけだった。
馬は、北へ消えていった。
俺は、麦畑に逃げ込んだ。麦の中に伏せて、一晩中、村が燃えるのを見ていた。
目がいいというのは、こういうときに、何もかも見えてしまうということだった。
◇
夜が明けて、俺は村に戻った。
村は、灰になっていた。
家も、ほとんど残っていなかった。
うちの家の戸口の近くに、四人ともいた。父さんは、最後まで鍬を握っていた。
俺は、そこに座り込んだ。
どれくらいそうしていたのか、分からない。気がつくと、日が高くなっていて、村の入り口のほうから、蹄の音がした。
顔を上げた。
十人ほどの、馬に乗った男たちだった。全員、革の鎧を着ていた。盾に、灰色の狼の絵が描いてあった。
先頭の男が、馬を降りた。
年寄りだった。白髪まじりの短い髪。左目に、古い傷が縦に走っていて、その目は閉じたままだった。
男は、村の中を、ゆっくり歩いた。地面の蹄の跡を見て、焼けた家を見て、最後に、俺を見た。
「生き残りか」
「……はい」
「一人か」
「はい」
男は、北の丘を見た。
「二十騎ちょっと。夜のうちに、北へ抜けたな」
俺が見た数と、同じだった。
「あの」
声が、かすれた。
「子どもを、一人、連れていきました。隣の家の」
「野盗は、子どもを攫う。売れるからな」
男は、そう言ってから、少し黙った。
「……一人だけか」
「一人だけ、です」
男の残った右目が、細くなった。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。
俺は、立ち上がった。手に、まだ鎌を握っていた。
「俺も、行きます。追いかけて」
「剣は」
「握ったこと、ないです」
「馬は」
「乗れません」
「じゃあ、死ぬだけだ」
男は、あっさり言った。
そのとき、俺の腹が鳴った。
ものすごく大きな音だった。昨日の夕方、ミラと半分こしたパンが、最後の飯だった。
後ろの馬の上で、太った男が吹き出した。
「腹は正直だな、坊主」
太った男は、腰の袋から干し肉を一枚出して、俺に放った。俺はそれを受け取って、どうしていいか分からずに、握りしめた。
「名前は」
年寄りが訊いた。
「リオです」
「ガルドだ。灰狼団の、第三隊長をやってる」
灰狼団。聞いたことがあった。灰谷で一番古い傭兵団だ。魔獣や野盗を、金をもらって退治する。
「傭兵になれば」
俺は言った。
「傭兵になれば、あいつらを、追いかけられますか」
ガルドは、しばらく俺を見ていた。
それから、馬に戻って、鐙に足をかけた。
「食いたいなら、来い」
振り返らずに、言った。
「ただし、傭兵は、飯の分だけ死ぬぞ」
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