表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/29

5. 二十年ぶりの頼みごと

 王宮の東翼は静かで、少しだけ樟脳(しょうのう)の匂いがする。廊下は長く、絨毯が厚い。足音が消えると、人は自然と、声まで小さくなるらしい。


 今日のドレスは、あの、夕暮れの一歩手前の色である。王宮に着て行くには冒険かとも思ったが、マダムが胸を張ったのだから、間違いはないのだろう。


 老王女ヒルデガルト殿下のお茶会は、椅子が全部で八つの小さな会だった。そのぶん、集まった令嬢たちの目は忙しい。破棄されたはずの伯爵令嬢が、なぜ王宮のお茶に。探りの矢は、丁寧で、遠慮がない。


「レギーナ様は、その、社交がとてもお上手でいらっしゃるのね。どのような手管ですの?」


「三年もお待ちになって、無駄になさったのでしょう? わたくしでしたら、とても……」


「無駄には、なりませんでしたわ。王都中と、知り合いになれましたもの。――手管は一つですの」


 私は茶器を静かに置いた。


「……暇でしたのよ、三年ほど」


 扇の落ちる音がして、老王女が声を立てて笑った。笑いながら、扇の先で自分の隣の椅子を叩く。おいでなさい、の合図である。


「あなたたち、探りを入れるなら、もう少し上手におやりなさいな。針の見える釣りに、魚は寄りませんよ」


 殿下の毒は、令嬢たちには薬で、私には日傘である。


「ところで。その色、ご自分でお選びになったの?」


「……ええ。先日、初めて、自分で」


「そう。よく似合っていてよ」


 似合っているかどうかを誰も聞かない三年だったから、その一言は、思ったより深いところに届いたのである。


 ――二年前の冬。


 私は王宮の回廊で、婚約者の母君に呼ばれて、そのまま忘れられた。控えの椅子で半日――と言いたいところだが、私は座っていない。座って待つと、待たされていることを、体が覚えてしまうからである。冬の回廊は床から冷える。爪先が痺れ、指先が(かじか)み、それでも立っていたのは、意地というより、もう習いである。


 立ったまま眺めた回廊の先の長椅子に、ひとりの老婦人が座っていた。侍女は三人、膝掛けは二枚、話し相手は、ゼロ。仕えられて、頼られない人が、そこにいたのである。


 隣に立って半日話した。雪の話、靴の話、王都の菓子の話。途中で、老婦人はふと私を見上げた。


「あなた、座らないのね」


「座ると、待たされたことに、なってしまいますので」


「……変な子ね。気に入ったわ」


 帰り際に、思い切って頼んだのである。


「殿下。その肩掛けの織り元を、教えてくださいませ。父への贈り物に、あのような良い毛織をずっと探しておりましたの」


 老婦人はしばらく黙って――それから、扇の陰で笑ったのだった。


「わたくしに頼みごとをした方は、二十年ぶりよ」


 毛織は艶のある灰青で、遠目にも織りの良さがわかる品である。頼みごとの中身は、口実が半分。残りの半分は、本当に父に贈りたかった。翌月、同じ織り元の肩掛けが、父の肩で少々照れくさそうにしていたものである。


 以来、月に一度、内輪のお召しのお茶が続いている。招待状の要らない、王族の私的なお召し。あの三年でただ一つ、堂々といただけたお誘いである。


 お茶会の終わり、殿下は満座に向かって、こともなげに言った。


「この子はね、王都でいちばん、隣に立ってほしい人よ。……あなたたち、覚えておきなさいな」


 令嬢たちの目の色が変わる。社交界の頂点からのお墨付きというものは、金貨よりも速く流通するのである。


 ところで、そのお茶会の隅に、見慣れた背の高い影があった。レーヴェンシュタイン公爵である。殿下への届け物の帰りを扇一本で捕まったのだそうで、八つの椅子の外に立ったまま、お茶だけ飲まされている。お気の毒なことである。ご滞在は、きっかり半刻。辞去の礼に立った公爵へ、殿下がにやりと扇を向けた。


「あなた、近ごろよく、玄関にいらっしゃるんですってね?」


「……庭の、お話でしたら」


「あら。わたくし、庭とは申しませんでしたよ」


 公爵は、咳払いを二つ残して帰って行った。お耳が赤かったことは、殿下のお心のために黙っておく。


 ――ところが。王宮の門前に、先にお帰りになったはずの背中があるのである。


「……居合わせました」


「本日二度目の居合わせですのね」


「よく居合わせる年なのです。……少し、座りませんか。辻のベンチが、ちょうど空いています。お疲れなら、このまま馬車でも」


 断ってもよい申し出というものは、不思議と、受けたくなるものである。


 辻のベンチに、隣り合って座った。約束はない。用件もない。ただ座って、流れる雲を見る。


 ベンチというものに腰掛けて何もしないのは、じつは生まれて初めてかもしれない。待つための椅子は、三年、ずっと敵だった。……敵だったのは椅子ではなく、待ち時間のほうだけれど。


 鐘がひとつ鳴って、鳩が屋根の上で場所を替えた。隣の方は、何も仰らない。沈黙を先に破らないのが、この方の礼儀らしい。行き交う人は誰も私を待たせていないし、私も、誰を待ってもいない。


 膝の上の手が、三度、意味もなく組み替えられる。それでも――四半刻(しはんとき)、私は何もしなかった。雲が形を変えるのを、初めて最後まで見届けた気がする。沈黙が、痛くなかった。


「……そろそろ、帰りますわ」


「はい。終わりは、あなたがお決めになることです」


 これは上達である、と思うことにする。先生の座る位置が今日は少し近かった気もするが、それは、数えないことにするのである。


 玄関に戻ると、籠のいちばん上に、見覚えのある封蝋があった。ローテンブルク侯爵家。……元婚約者の家の、婚礼の招待状である。


 籠の中では、紺も薄紅も飴色も、変わらず花畑のままである。その真ん中で、その一通だけが、色を失くしているように見えた。


 差出人の名を、三度読む。読み方は知っている。受け取り方と、断り方だけが、どこにも書いていないのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ