2. 奪われた居場所
あの日からフィオナの人生は一変した。
チャドと別れ、一先ず男爵領に戻ってみようと試みたが、無一文だったため思ったよりも時間がかかり、徒歩や親切な商人の荷台に乗せてもらうなどして到着したのは森で目覚めてから一ヶ月後のこと。
チャドに押し付けられるように持たされたお金と食べ物、そして男物の服が無ければどこかで野垂れ死にしていたかもしれない。お金と食べ物は勿論のことだが、チャドのお古の服に深く帽子をかぶると素朴な容姿をしたフィオナは男の子のようで、暴漢の類にも遭遇することなく男爵領まで到着することができたのだ。
「チャドさん……本当にありがとうございます。この恩を返せるように頑張らないと」
王都の方角に向かって頭を深く深く下げた。この一ヶ月間幾度となくフィオナはそうしている。この恩は時間がかかっても返さなければ、その思いは図らずも時折襲い来る恐怖から逃げたくなるフィオナを何度も何度も繋ぎ止めてくれた。
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のどかな男爵領の道を進むと、少しだけ周りの民家よりも大きな家が見えてくる。朱色の屋根が目印となるその家がフィオナの生家であるペンドリー男爵家だ。
こっそり自宅の様子を確認しようと覗き込んだ先で目に飛び込んできたのは、間違いなく自分の姿。日課にしていた庭の花の手入れを母に誘われた自分が「嫌! 日焼けしちゃうじゃない!」とヒステリックに拒否している様子に息を呑む。
「あれは……私?」
混乱する頭を抱えて力なくその場に座り込んでしまったフィオナだったが、今ここで自分がフィオナ本人であると名乗り出たところで信じてもらえる可能性などゼロということだけは分かった。
「魂の取り換え……そんなこと、本当に可能なの……?」
人の範疇を越えた業。けれどフィオナの身体が自由に動き回っている姿を見た今、有り得ないと切り捨てることなどもうできない。何か手掛かりはないかと再度視線を走らせたフィオナに、母の言葉が突き刺さる。
「……モモナ。分かったわ、今日は日差しが強いものね。これはお母さんがするわ」
言われなくてもと家に入っていくフィオナの身体に、特に違和感なく母が投げかけた名前は、”モモナ”。
それは大きな手掛かりだ。あの学生証に記載のあった名前である。
魂の取り換えという不可能が為された証拠となりうるかもしれない。なぜ母が違和感なくフィオナをモモナと呼んでいるのかはちっとも分からなかったけれど、解決の糸口になるはずだと頭では分かっていた。
けれど、心はとてもついていけない。独りでに涙がぽろりと頬へ落ちていく。
当たり前にあった自分の居場所が丸ごと奪われてしまった事実に、襲い掛かってくる孤独感。
森で目覚めてから一ヶ月、ピンッと張り詰めた糸が切れ、決壊した涙は次から次へと零れ落ちるが拭うことすらできない。
フィオナの中にいる恐らく”モモナ”が、企てたことかどうかの確証は得られないが、何かに巻き込まれてしまったことだけは理解できた。
なぜ私が。
なんのためにこんなこと。
もしこのまま元に戻れなかったら。
背筋を走る寒気に身体を震わせながら温めるように自分自身を強く抱き締めた。
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自宅近くの片隅で動けなくなりうずくまったままどのくらいの時間が経っただろう。
ぐぅ、と場違いで遠慮もデリカシーもないお腹の虫が鳴く。
どれだけ辛くてもどれだけ悲しくても、お腹は空く。そんな当たり前のことが今はなんだかありがたい。
「生きていれば……、お腹も空くし、元に戻れる方法が見つかるかもしれない」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉は掠れて殆ど音にはならなかった。鼻は赤く目も開きにくくなるぐらいに腫れている。
それでもフィオナは唇を深く噛みしめ涙を必死に拭い、張り裂けそうな焦りや不安に恐怖を全て呑み込んだ。
「……お母さん、お父さん、コリン。必ず帰るから、待っててね」
両親と弟にひとり誓う約束。「どんなに辛くて貧しくっても、笑顔だけは忘れない。優しさだけは忘れない」よく母がフィオナにしてくれた寝物語が思い出される。
いつかきっとまた家族で笑いあえる日を想って、フィオナは力を振り絞り立ち上がった。
そこにあるのはまだ強がりなひとりぼっちの笑顔だけれど、いつかきっと。
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男爵領に居ても生きていくための仕事も残念ながらない。万が一モモナがフィオナとの入れ替わりを企てたのなら、モモナの姿をしたフィオナが近くに居ることもまた危険に思える。
考え抜いた結果、フィオナは困ったことがあれば訪ねて来いと言ってくれたチャドの言葉に甘えて、また一ヶ月近くかけて王都近くの森まで戻ることにした。
辿り着いたころには別れたころよりも草臥れ、けれど別れたころよりも強い瞳を連れて戻ってきたフィオナにチャドは何も問うことなく家の中に招き入れてくれる。フィオナがなにかを説明し懇願するよりも前に、仕事や家事の手伝いを条件に家に置いてやるとチャドは短く言葉にして、直ぐ背を向けてしまったが。
感極まったフィオナはチャドのその背中に飛びつくように抱擁し、心の限りの感謝を何度も何度も伝える。すぐに「臭い、熱い、離れろ」と猫の子供のように首根っこを掴まれて引き離されてしまったけれど、フィオナは自分の姿を失って初めて心から笑顔が溢れた。
チャドとの出会いに感謝し、それからの日々フィオナは懸命に働いた。
男爵令嬢とは言え貧しい家だったので家事はお手の物。しかもどうやらこの身体でも魔法が使えるらしい。元の姿よりも幾分も力は劣るが、日常生活に必要な基礎的な魔法や森の管理に出るチャドの手伝い程度なら役に立てた。
生活にも慣れたころ、チャドは納戸の中から埃の被った魔法書を数冊引っ張り出し、フィオナの前に無造作に積み重ねる。不思議そうにフィオナの視線が数度本とチャドで行き来したあと、緩く傾いた首が伝える疑問符に応えるようにチャドは口を開いた。
「……お前には魔法の才能があるようだ。昔仲間に押し付けられたものだが俺には不要だからな、お前が使え。俺は魔法よりも剣の方が得意だが、本の内容くらいは説明してやれるからわからなければ声をかけろ」
「……! えっ、……こんな素敵な本、ほ、本当にいいんですか!?」
「駄目ならはなから言わない。要らないなら処分するだけ…」
「やだやだっ! 要ります、ください……!」
「最初から素直にそう言えばいい。」
「っ……! チャドさん、ありがとうございます! 嬉しい…っ」
少しかび臭い本を気にせず胸いっぱいに抱き締めるフィオナを見つめるチャドは変わらず無表情だが瞳は森のように深く優しい。その視線に気づかぬくらいに、指先で背表紙を撫でるフィオナは高揚感でいっぱいだった。
フィオナは昔から学ぶことが大好きで家や領地の孤児院の手伝いの時間以外は本に齧りついているような幼少期を過ごしてきた。
といっても魔法書は高価なため、おいそれと買うことはできず両親が昔手に入れた僅かなものを繰り返し繰り返し擦り切れるまで使い倒す毎日。ゆえに新しい本、しかも埃を被ってはいるがフィオナの財力ではとても手の届かないだろう代物を手にした喜びはひとしおである。
その日からより一層フィオナは懸命に働き懸命に学んだ。
一度は奪われた居場所を再び構築していくように必死に。
お読みいただきありがとうございました。




