第1話:三万
――中平六年(一八九年)、右扶風。
陳倉のあと、軍は解かれなかった。
涼州の内はまだ収まっていない。だから三輔に屯する。屯するというのは、置いておくことである。
三万いる。
皇甫嵩は、その三万を扶風に置いた。
置き方を決め直した。
冬の置き方と、夏の置き方は違う。冬は風を避けるので、谷の口を塞ぐように寄せる。夏は水が要るので、川筋に沿って散らす。
春である。移す時期だった。
三日かけて、隊ごとの場所を割り振った。
割り振りながら、地図を見た。
槐里が、近い。
食邑である。二千戸。四年前までは八千戸で、そのうち六千を削られた。削られた分がどこへ行ったかは、いまも書いてない。
陣から槐里までは、半日である。
家がある。三年、そこにいた。庭に粟が植えてあって、穂を数える癖がついた。
陣に入ってからは、数えていない。
代わりに、兵を数えている。
三万という数は、帳面の上では一行で済む。実際には、隊が百以上あって、隊ごとに数が違う。合わせて三万になるのであって、三万という塊があるわけではない。
割り振りが終わって、帳面を閉じた。
三万は、手元にある。
詔が来た。
こちらへ来たのは、写しである。原本は董卓のところへ行っている。
董卓を、少府とする、とある。
少府は、宮中の財物を掌る官である。九卿の一つで、位としては低くない。だが、都にいる官である。
都にいる官になれば、軍は率いない。
率いない者に、兵は要らない。
皇甫嵩は、そこまで読んで、紙を裏返した。裏には何も書いていない。
詔を運んできた者に訊いた。
「董卓どののところへは、いつ行かれましたか」
「先に回りました。こちらより四日前でございます」
「受けられましたか」
「……受けるとも、受けないとも」
四日前に受け取って、まだ返事が出ていない。
詔に対して返事を出さないというのは、それ自体が返事である。受けるなら、受けると書く。書かないのは、書くことを決めていないか、決めていて書かないかのどちらかだった。
写しを綴じさせた。
綴じる束は、詔の束である。
この束は、薄い。免ぜられていた三年のあいだ、詔は一枚も来なかった。去年の左将軍の詔が一枚、今年のこれが一枚。
董卓は、受けるとも受けないとも言っていない。
上書の写しが、回ってきた。
董卓が朝廷へ出したものである。少府の召しに対する返事だった。
皇甫嵩は、それを読んだ。
――率いております湟中の義従および秦胡の兵が、みな臣のもとへ来て申します。牢直が支払われず、稟賜が断たれ、妻子が飢え凍えております、と。臣の車を牽き挽いて、行かせてくれません。羌胡は腸の腐った犬のようなもので、臣には禁じ止めることができません。
牢直というのは、兵に払う給与のことである。稟賜は、配る糧と物をいう。
読み終えて、はじめから読み直した。
二度目は、句を切りながら読んだ。三度目は、字を追った。四度目には、どこに何の字があるかを覚えていた。
書いてあることは、三つある。
一つ。兵に給与が払われていない。
二つ。そのために、兵が自分を行かせない。
三つ。自分には止められない。
三つとも、董卓が自分でしたこととして書いていない。兵がそうしているのだ、と書いてある。
払われていないというのは、本当だろうと思った。
辺境の兵に、銭は届かない。十四年、北地郡にいた。郡へ来なかったものが、郡から出た兵のところへ行くはずがない。
写しを綴じさせた。
綴じる場所を、詔の隣にした。
詔は、兵を要らなくする紙である。上書は、兵を離さない紙である。二枚が隣になった。
紙の上では、隣である。
給与が払われていない、と書いてある。誰が払うはずだったかは、書いていない。
報せが来た。
朝廷は、これを制することができず、かなり憂慮している、という。
それだけだった。
皇甫嵩は、持ってきた者に訊いた。
「憂慮しておられる、と」
「はい」
「そのあと、何をなさいますか」
「……存じません」
「別の詔が出ますか。それとも、そのままですか」
「そこまでは、承っておりません」
訊く相手が違う。この者は運ぶ役である。
だが、運ぶ役が知らないということは、運ぶ者に知らせる段階まで来ていないということでもある。
皇甫嵩は、書を一つ出した。
三輔に屯している軍の扱いについて、指図を仰ぎたい、という書である。董卓のことは書かなかった。書けば、こちらが何かを言い出したことになる。
書いたのは、三万をどこまで置いておくのか、という一点だけである。
出した。
十日待った。
二十日待った。
三十日経った。
返事は、来なかった。
春になって、璽書が下りた。
帝の印が押された書である。詔より重い。
帝が、病に臥している、と報せに添えてあった。
中身は二つである。
董卓を、并州牧とする。并州を一つ、まるごと預かる役である。
そして――その兵を、皇甫嵩に属せしめよ。
皇甫嵩は、その行を読んだ。
属せしめよ、とある。
属す、というのは、こちらの下に入れることである。移すのでも、預けるのでもない。もともとこちらのものであったかのように、そこへ付ける。
三度読んだ。
三度目に、その三字を指で押さえた。押さえてから、指を離した。
受け取る支度をはじめた。
二万が来る。三万と合わせて五万になる。五万を一つの陣で扱うことはできない。場所が要る。
受け取る場所を決めた。
扶風の西、陳倉へ行く道の途中である。あそこなら水がある。去年の冬に通っている。
隊の割り振りを、先に紙の上で作った。
来た二万を、どう混ぜるかである。
混ぜないことにした。混ぜると、指図が届くまでに一段余分になる。そのまま二万として受け取り、隊の頭だけをこちらの下に付ける。
紙が三枚になった。
三枚目を書いているときに、まだ来ていないものを割り振っていることに気づいた。
属せしめよ、という三字を、指で押さえて、三度読んだ。




